庭野枇杷丸猫さんブログ
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庭野枇杷丸
猫さんブログ
猫さんのように気ままに生きる



私の金メダル
地域猫さんとの会話
母の猫
 母が癌で入院したので預かった猫。夜にには母をさがし回った。あるときドアを開けたとたん、猫が外にとびだした。猫は一瞬ドアの前にすわってドアを見上げたかとおもうと、野原へと走り去った。
時速194qでの走行は危険運転
映画国宝に見る吉沢と横浜の完成度の高い演技

 *”千葉日報「ひろば」”ショート・エッセイ *
14番は新投稿です。
目   次 
333 私の金メダル
332 二月のヒヨドリ
331 射撃
330 地域猫さんとの会話
329 台湾侵攻間近?
328 日本語が正確に伝わっているのか。
327 台湾有事と存立危機
326 道端の猫
325 熊の異常行動
324 ホームページを縦型に
323 熊が人里におりてくる
322 胃の精検を受けた
321 総裁選と人間関係の流れ
320 放送大学の思い出
319 総裁選で感じたこと
318 晩年のよい生き方とは
317 ホームページの引っ越し
316 あんぱんとサンリオ
315 国宝
314 日航機事故40年
313 一生もの 2
312 黙示録の666の謎が分かったかもしれない
311 73歳になって感じること
★ ★ ★
310 無免許臨時教員の増加と教員免許の意義
309 体育時の着替えについて
308 「一つの花」子供たちに戦争が伝わらない
307 先生は子供たちと共に成長する
306 国立大学と私立大学の優劣
305 HD(ハードディスク)が突然クラッシュ
304 幸運のハンコ /a>
303 長く使い続けているもの
302 トランプ関税
301 断捨離(だんしゃり)
★ ★ ★
300 朝ドラ・女子師範学校入試面接
299 親ガチャ
298 土日の部活動は無理ゲー
297 黙示録が語る世の終わり
296 布施小学校閉校式
295 海の美しい日の出
294 捕虜になった米英軍のパイロットがどうなったか
293 ネットはタイムカプセル
292 ギターを始めました
291 ひざの手術とリハビリ
★ ★ ★
290 時速194qでの走行は危険運転
289 膝関節手術をすることに
288 早稲田大学ホームカミングデー
287 橋にいた老人
286 自民党総裁選を振り返る
285 2004年型シエンタに乗ってみると
284 全身麻酔の影響で困ったこと
283 オリンピックの泣き笑いで気が付いたこと
282 石丸伸二氏の言動が話題に
281 東京都知事選挙の予想
★ ★ ★
280 小石川植物園の猫
279 キョンの増加
278 学校の健康診断
277 PTAによる未加入家庭の差別について
276 後ろでニャオンと子猫
275 ギャンブル依存症
274 柏市立小、部活動全廃へ
273 ”たけのこ塾”の講師
272 40年間の逃亡者
271 モバイルWi−Fiを使ってみた
★ ★ ★
270 山本太郎氏の石川県地震被災地訪問について
269 小鳥へのプレゼント
268 電気溶接機でバイクのサイドスタンド修理
267 ソフトバンクAirを解約
266 最低だった教職志願倍率
265 大谷さんドジャースへ
264 高齢者講習受講
263 全国学力・学習状況調査について
262 通販の闇
261 教員不足は解消されるか
★ ★ ★
260 通販でいまだに返金されず
259 ヘッドライトを点灯して走行
258 ハスラー125−75年のバッテリー充電とヘッドライト
257 世界に立った一台の自分のバイク
256 カブトムシとオオズズメバチ
255 145 部活動訴訟への追記 勝訴を得るためには
254 190 退職の黙示録Uへの追記 管理職試験の思い出
253 2023年から2025年までの世界を大予想
252 桑の実でジャム
251 教員不足の原因は何か
★ ★ ★
250 息子 カナダでの暮らしに災難
249 雉の巣を見つけた
248 教員免許取得未確認で新卒を採用
247 成田空港で息子を見送った
246 息子がカナダへ旅立つ
245 WBCに感謝
244 遠いいじめの記憶
243 戦争の残り香
242 父が語った戦争体験
241 母の戦争の思い出
★ ★ ★
240 移住者と地域のwin・winが望ましい
239 「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹」の狂気
238 同性婚とパートナーシップ制度
237 殿様商売で教員不足
236 コロナでスマートウォッチが活躍
235 PCを無線ランにした
234 ブラック部活神の降臨
233 "淀ちゃん"海に帰る
232 教員の時間外勤務訴訟の判決 その後
231 スマートウォッチで心電図をきれいにとる方法
★ ★ ★
230 年賀状じまい
229 新品のフルートでワクワク
228 あん食パン
227 大腸カメラ検査
226 クリスマスとケーキ
225 ノストラダムスの大予言と黙示録が示す未来
224 サルナシの実
223 大腸がん検診で要精検に
222 股関節手術後二年目の診察
221 子どもから目を離すな
★ ★ ★
220 房州へ一泊旅行
219 三年ぶりの秋祭り
218 にぎやかなクマゼミ
217 今年もこんにちは!ナナフシさん
216 スマートウォッチで心電図
215 4回目のコロナワクチン接種
214 庭にシラサギがやって来た
213 プラリペアを使ってみた
212 センチメーター 10禁電動ブローバック
211 ススキにヤマトコマチグモの巣
★ ★ ★
No.210 トネリコに群がるミツバチ
209 サルナシの実
208 内蔵HDDを外付けに
207 HDDからSSDへクローン作製
206 心筋梗塞闘病記
205 i3からi7へCPUの交換
204 部活動の強制加入について
203 提灯学校復活
202 今年初の草刈り
201 マイクロソフト・エッジをリフレッシュ
★ ★ ★
200 FTPのつながりにくさを解消
199 退職一年前に考えたこと、10年後に思うこと
198 公立中学校の部活問題
197 たけのこ塾再開に期待
196 早大の体育授業の思い出
195 庭の花たち
194 酒は百薬の長
193 桜満開八鶴湖
192 白血病に倒れた3人の同僚を悼む
191 教え子の同窓会
★ ★ ★
190 退職の黙示録 U 追記
189 空からふわりと落下傘
188 手首式血圧計
187 純米大吟醸「獺祭」
186 高梨沙羅さんW杯ジャンプで優勝
185 羽生選手の言葉に感動
184 ウクライナのハリコフに思い出
183 ウクライナ首都キエフ陥落迫る
182 ロシアがウクライナに軍事侵攻
181 ワリエワさんのドーピング疑惑について
★ ★ ★
180 フキノトウに春の香り
179 羽生結弦さんの記者会見に思う
178 純米吟醸 大多喜城
177 スノーボードハーフパイプで平野歩夢金メダル
176 純米吟醸
175 17歳のモーグル女子選手健闘
174 ナビの電源が入らない→解決
173 ナビのカチャカチャ音解決
172 ナビの中からカチャカチャ音
171 コンタクトレンズ超音波洗浄機
★ ★ ★
170 ドライブレコーダー付きカーナビを購入
169 新型コロナ第6波
168 バイオハザード
167 早大での強烈な思い出
166 夢は神様からの贈り物
165 新型コロナのオミクロン株増加
164 サザンカに来るお客様
163 昨日は大雪警報
162 去年の12月と今年の12月
161 Office2007をWPSに交換
★ ★ ★
160 年賀状ソフトを更新
159 トトロの洞窟
158 薬丸裕英さんのファミリーヒストリーに知人が出演
157 SNSと「バズる」の心理学から
156 境界裁判があった実家の土地を訪問
155 探し物に苦労
154 一票の価値と自分
153 セイタカアワダチソウを刈りに
152 小室夫妻への誹謗中傷を憂う
151 小室夫妻の結婚会見について
★ ★ ★
150 衆院選投票祝い(記念)
149 衆議院議員選挙戦始まる
148 セイタカアワダチソウを刈る
147 魚が見える粟又の滝
146 教職員の超過勤務に思う
145 教員の時間外勤務訴訟は敗訴   追記・裁判長付言
144 新総裁決定するも寂しさ
143 総裁選への思い
142 一票の投票権を大切に
No.141 ホームページは斜陽
★ ★ ★
140 HDDにFドライブを追加
139 パソコンを修復
138 雨の日は
137 パラリンピックの贈り物
136 この夏一番の大仕事
135 コロナとの長い戦いを覚悟
134 妻が二度目の新型コロナワクチン接種
133 ネットの闇に備える
132 去年の夏と今年の夏
131 記憶の寄り道
★ ★ ★
130 それぞれの東京オリンピック
129 サーフィン銀・銅 獲得
128 2回目新型コロナワクチン接種
127 1回目新型コロナワクチン接種
126 家族とアイデンティティー(identity)
125 普賢岳大火砕流
124 メタスキル(マザースキル)
123 高齢者バイアス
122 新型コロナの抗原検査を受けた
121 少年革命家「ゆたぼん」について
★ ★ ★
120 陰謀論
119 都の西北「大隈記念講堂」
118 モーターサイクルジャッキ
117 ワクチン接種クーポン
116 不登校ユーチューバー少年
115 心和んだ大多喜城の写真撮影
114 キックの沢村忠さん死去
113 別れと出会いの季節
112 卒業式と来賓
111 老害とヘイト
★ ★ ★
110 3.11の記憶
109 ワクチン接種に代用注射器
108 股関節に埋め込まれた寿命の物差し
107 墜落したゼロ戦見つかる
106 退職の黙示録
105 「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という噂に思う
104 新型コロナワクチン接種に期待
103 森喜朗氏の会長辞任に思う
102 黙食の日々
101 Soft bank Airを採用した
★ ★ ★
炎天下の梅干しつくり
女性哲学者と女子プロレス
日の出が作るシルエット
教会に宿泊した大雪の夜
小鳥たちのサザンカ食堂
武漢からの帰国者
韓国旅行の思い出T
韓国旅行の思い出U
韓国旅行の思い出V
10 新型コロナで旅行を中止
★ ★ ★
11 学校全国一斉臨時休業
12 お雛様は母の面影
13 「リア充」って何
14 コロナ感染拡大と卒業式
15 ホームページで充実
16 トリアージは大切
17 庭にキョンが来た
18 庭にキョンが来た2
19 地域の千本桜に期待
20 うがいと手洗い
★ ★ ★
21 卒業式2020希望へ
22 「はですね」の多用は聞きずらい
23 恩師がくれた言葉
24 踏切検問T
25 踏切検問U
26 新型コロナ緊急事態宣言
27 新型コロナ感染拡大
28 安倍のマスク
29 ノストラダムス大予言T
30 ノストラダムス大予言U
★ ★ ★
31 マイナンバーカードをネットで申請
32 ノストラダムス大予言V
33 サクランボの苗
34 ノストラダムス大予言W
35 ノストラダムス大予言X
36 自粛警察の恐怖
37 学生への緊急支援
38 エビデンスってなに
39 おうち時間の過ごし方
40 岩田豊雄「海軍」感想
★ ★ ★
41 「母とくらせば」感想 
42 「永遠のゼロ」感想
43 コロナ自粛とHP訪問者数の関係は
44 伊藤の大山に墜落したB29
45 DCブースターの実験
46 自分でやれば安上がり
47 登校再開で夏服の生徒たち
48 ビワの実を食べて草刈り休憩
49 梅干し・梅酒つくり
No.50 旧車ハスラー125(1)
★ ★ ★
51 旧車ハスラー125(2)
52 旧車ハスラー125(3)
53 安倍のマスクが届いた
54 尖閣を狙う中国
55 緒方惟精先生の思い出
56 中古のパソコン購入
57 データ復元ソフトを試してみた
58 ノストラダムス大予言Y
59 給付金10万円を有効に活用
60 雨の中の猫
★ ★ ★
61 青大将の主に遭遇
62 ガガイモの落下傘が降りてきた
63 ドウガネブイブイとの攻防
64 母の猫(1)
65 母の猫(2)
66 母の猫(3)
67 母の猫(4)
68 母の猫(5)
69 コバエをモウセンゴケで退治
70 コロナ後の社会の変化
★ ★ ★
71 股関節手術を終えて
72 股関節手術で思うこと
73 安倍首相の辞任に思う
74 安倍首相の後任について
75 レンタルサーバー変更した
76 早く歩けるようにリハビリに励む
77 小さな楽しみ
78 遠近両用ソフトコンタクト
79 たけゆらの里おおたきで昼ご飯
80 朝顔の変異株「柳牡丹」
★ ★ ★
81 茂原市の掩体壕と過ぎ去りし日
82 ドングリを食べてみた
83 美味しかった秋ミョウガ
84 ミョウガの梅酢漬け
85 国勢調査をネットで申請しててみた
86 ハムのおしゃべりは心の癒し
87 あいちトリエンナーレとその問題点
88 チャチャの庭
89 詐欺サイトで被害にあわないために
90 オンライン授業の長所短所
★ ★ ★
91 ノストラダムスの大予言Z
92 アメリカ大統領にバイデン氏
93 父母の墓参りに菊を持って
94 リハビリ日記
95 カーナビは運転のお供
96 リハビリが終了して希望
97 エッセイか随筆かで悩む
98 木星と土星が大接近
99 お家時間の過ごし方とエッセイ
100 元日のお雑煮に感慨
333
私の金メダル
   2026年2月23日


 イタリアでの冬季オリンピックでメディアがにぎやかだった2月13日、千葉日報「みんなの広場」に私の投稿が掲載された。もう3年以上投稿していなかった。
 今回は地域猫との散歩中の交流について書いてみた。日常のありふれた出来事だ。ただし、それだけではただの独り言に終わってしまうので、高齢者問題を自分のこととして絡ませた。投稿に意義を持たせたかった。こういう内容だから掲載されるかどうかは五分五分だと思った。半ばあきらめつつ新聞をめくると、私も名前が目に飛び込んだ。しかも掲載3人中の1番目だった。私は勝手に金・銀・銅の金メダルだと思うことにした。そう思うことで嬉しさが倍増した。もちろん編集にそんな意図はないと思うが。以下が投稿した文章です。
「地域猫との会話を楽しむ」※題は編集者によるもの
 路地を歩いていると生け垣の根元に茶色いかたまりが見えた。近づくとニャーといって走り寄ってきた。チャトラの猫さんだ。耳に切り欠きがある地域猫だ。人懐こく足元にすり寄ってくる。頭や背中をなでるとゴロゴロ喉を鳴らした。
 この猫さんを何日か見かけなかった。それで「お前生きていたのか、元気そうでよかったな。お前も歳をとったな。おいらも歳をとったよ。あちこち悪くて三度も入院したよ。」などと話しかけながらゴツゴツする背中をなでた。猫さんはニャーと返事をした。
 高齢になると人との会話が少なくなる。家族以外の誰とも話をしない日もある。なので路傍の猫さんとの会話はよいことだと思う。この猫さんのいる道を選んで散歩する日が多くなった。 

332
二月のヒヨドリ
   2026年2月1日


 夏ミカン(ハッサク)の木にヒヨドリが飛来してガサゴソやっている。よく見るとミカンをつついて穴をあけて実を食べている。分厚い果皮に穴をあけて実を食べることは普通はしない。よほど腹が減っているのだろう。そこで二つに切った夏ミカンを置いておいた。するとさっそくヒヨドリが現れて実をつつき始めた。ヒヨドリがいなくなるとメジロがやってきた。メジロはサザンカの生け垣によくやってくる。二月は一番寒さが厳しく、木の実も食いつくされている。野鳥たちも必死なのだ。これからも夏ミカンを置いてやろうと思う。

331
射撃
   2026年1月23日

 ずっと昔から射撃をしてみたいと思っていた。エアライフルがいいとも考えたが、手続きが面倒だし、金がかかるし、安全に撃つ場がない。そこで思いついたのがエアソフトガンだ。おもちゃではあるがよくできていてかっこよい。
 エアソフトガンは直径6ミリのプラスチック製BB弾を飛ばす安全なものだ。 初めに18歳以上用のものを買った。これは0.20gの弾を発射して段ボールを貫通するほど力が強い。使い方を間違えると物を壊したり人にけがをさせたりする危険性が大きい。そこで次に選んだのが10歳以上用のものだ。これは0.12gの軽いBB弾を使用する力の弱いものだ。部屋で射撃をするには十分だった。息抜きにパスンパスンと的を撃っている。いい大人がおもちゃで遊んでいる。エアソフトガンは本物そっくりにできているので、眺めていても楽しい。それでエアソフトガンを楽しむ人はたくさんいる。
 ちなみにBB弾は0.25g、0.2g、0.15g、0.12g、の種類がある。銃の力の強さによって弾の重さを変えることができる。最近は土にかえるバイオ弾もある。
 また、銃をカスタマイズして楽しむ人もいる。おもちゃとは言え奥が深い。ただし、カスタマイズして違法に強い銃にしてはいけない。法に定められた決まりを超えてはいけない。皆が決まりを守ることによっていつまでも趣味として楽しむことができるのだから。

330
地域猫さんとの会話
   2025年12月28日

 路地を歩いていると生け垣の根元に茶色いかたまりが見えた。近づくとニャーといって走り寄ってきた。チャトラの猫さんだ。耳に切り欠きがある地域猫だ。人懐こく足元にすり寄ってくる。頭や背中をなでるとゴロゴロ喉を鳴らした。
 この猫さんを何日か見かけなかった。それで「お前生きていたのか、元気そうでよかったな。お前も歳をとったな。おいらも歳をとったよ。あちこち悪くて三度も入院したよ。」などと話しかけながらゴツゴツする背中をなでた。猫さんはニャーと返事をした。
 高齢になると人との会話が少なくなる。家族以外の誰とも話をしない日もある。なので路傍の猫さんとの会話はよいことだと思う。この猫さんのいる道を選んで散歩する日が多くなった。

329
台湾侵攻間近?
   2025年12月13日

 中国による台湾侵攻が間近に迫っているのではないかと考えてみた。そう考えてみるといま起こっている事件はその予兆だと考えることができる。
@高市首相の台湾有事発言に対する激しい批判。
A空母「遼寧」からの自衛隊機に対するレーダー照射。
B日本への渡航自粛及び帰国呼びかけ、日本への航空機の停止など。

 それぞれの関連を考えてみた。
@台湾有事に日本を攻撃するための大義作り。
A台湾有事に自衛隊と米軍を阻止する実地訓練。
B自国民を日本から退避させるため。
 台湾侵攻は訓練と見せかけて意表をついて行われる可能性がある。空母遼寧が台湾近海で訓練を行ったことで侵攻準備が整ったとみてよいだろう。台湾侵攻が間近だとみることもできる。これが単なる想像に終わって、笑い話になってくれるとよいのだが。

328
日本語が正確に伝わっているのか。
   2025年12月9日

 高市総理の発言のどこが問題(危険)なのだろうかと不思議でならなかった。高市総理は中国と戦争をするとは言っていないからだ。しかし、ようやく謎が解けた。「存立危機事態になり得る」というこの部分を高市総理が戦争に積極的であると解釈する人がいるのだ。しかし、ここは日本の安全にとって危険な事態になり得ると言っているに過ぎない。ここを好戦的であると解釈するのは無理がある。意図的なのか日本語を修得出来ていないのか。中国語でこのニュアンスが伝わるのだろうか。言語の優劣の問題としても興味がある。
327
台湾有事と存立危機
   2025年11月29日

 台湾有事と存立危機という語句に中国が過敏に反応して日本との対立が発生している。そもそも台湾有事とは何なのか、存立危機とは何なのか。
 つぃわん有事と存立危機は切り離して考えることができない。台湾有事とは台湾に戦争などの非常事態が起こることだ。存立危機とは台湾有事に伴って日本国民の安全が脅かされる危険がある事態のことだ。
 では台湾有事とは具体的には何なのか。それは中国の台湾への武力侵攻だ。つまり中国が台湾に戦争を仕掛けることだ。ではそれが日本の存立危機とどう関係があるのか。自分なりにシミュレーションしてみた。
 中国が台湾を武力統一する考えがあることは以前から中国自身が度々述べている。中国は台湾侵攻に当たって台湾をぐるりと取り囲んで攻めるだろう。この時重要なのが台湾の背後、つまり太平洋側の制圧だ。台湾と日本の領海は接しているので公海がない。従って日本の領海に入って大量の武器弾薬を送り込む必要がある。もっと重要なのは日米による台湾への補給路を断つことだ。日米の軍事行動をおさえつつ戦争を進めなければならない。この時点で日本の領海領土の侵略になる。日本はこれを見過ごすことはできない。中国との交戦が避けられなくなる。日中の戦争に発展する可能性がある。まさに存立危機だ。
 さて中国は高市首相を屈服させようと形振り構わず高市首相を攻撃している。しかし、中国は日本の背後にいるアメリカ恐れている。高市首相のみを攻撃しているように見せかけてアメリカをごまかそうとしている。反高市へと日本国民を煽っている。しかし、もっと汚いものを私は感じる。高市首相が女性だからと侮っていると感じる。大阪総領事の「せつ剣」なる男が高市総理の首を切るといったことや中国の失礼なイラストや発言がそれを示している。その尻馬に乗る亡国の政党があり議員がいる。これらを日本国民は冷静に見ていると思う。

326
道端の猫
   2025年11月16日

 道端にいつもいる猫。雌のチャトラで耳に切り欠きがある。近寄るとニャーといって起き上がり足元に来た。この猫は一週間ほど姿を見せなかった。「おまえ生きていたか」と声をかけた。頭なで、背中をさすった。ついでに肉球に触った。この猫に出会ってからもう6、7年になるだろうか。暖かい日には家の入り口付近に寝そべったりうずくまったりしている。だんだん痩せてきて背骨が盛り上がってきた。飼い猫でもなく野良猫でもない。近所の人が毎日餌をやっているらしい。毛を分けてみるとノミやダニもなくきれいだ。一匹の老いた猫。その道を歩くことが多くなった。
325
熊の異常行動
   2025年11月10日

 人が熊に襲われて死亡する事故が今年は特に多い。自衛隊の支援が要請されるほどだ。
 熊による死亡事故は例年数件程度は発生していたと記憶しているが、こんなに多かったことはない。これは熊の異常行動ではないかと考えた。大きな地震の前に動物の異常行動が見られたという。熊が人里にたくさん下りてくるのは山の食べ物が非常に不作であったからだという。この考え方は自然だと思う。
 しかし、今年のように熊が人里に来て死亡事故が多発するのは異常だ。何か大災害の前触れではないかとすら思ってしまう。こんな想像をしてしまうほど異常なできごとだ。犬や猫など身近な動物を観察してみるとよいと思う。外れても何の差しさわりもないが、災害への備えはしておこうと思う。

324
ホームページを縦型に
   2025年11月8日


 これまではパソコン用の大きな画面のホームページを作っていた。しかし、この頃は携帯でホームページを見る人が多いようだ。そこで携帯で見やすいホームページにしてみようと思った。
 まず画面を細い縦長にしなくてはいけない。文字の大きさ、写真の大きさ、それらの配置を考えた。これが大変手間がかる。それで今回初めてスタイルシートを使った。文字の大きさを自由に変えられるし、何よりプログラム作りが簡単になった。おかげで時間の節約になった。
 四苦八苦して出来上がった携帯用縦型ホームページはすっきりとして見やすいものになった。パソコンで見る人にはもの足りないかもしれない。携帯では見やすいはずだ。さっそく訪問者が来た。ちゃんと見えているようだ。何の儲けにもならないが面白いからやっている。

322
胃の精検を受けた
   2025年10月24日


 市の胃部検診で精検の要請が来ました。精検は初めてだったので重大な病気が発見されたらどうしようと心配でした。検査日はかなり緊張しました。胃カメラは経口でお願いしました。事前の麻酔が辛くて刺激が強くて参りました。
 カメラがぐりぐりと食道を通り胃の中に入りました。医師がその都度教えてくれました。噴射される薬液の冷たい感じがしました。幽門部を通り十二指腸へ入りました。一通りの点検と撮影を終えてカメラが抜かれました。医師が写真で説明してくれました。どこにも異常がなくきれいな状態でした。幽門部のひだの形がひっかかったのだろうとのことでした。ありがちなことだそうです。検査料は3040円でした。安心したもののどっと疲れが出ました。 

321
総裁選と人間関係の流れ
   2025年10月14日


 自民党の総裁選関係の記事を見ていてつくづく面白いと思うことがある。それは各候補への票の流れだ。票が誰にどれくらい流れるか。それが直前まで分からない。票の流れが急に変わることがあるからだ。
 票の流れは人間関係の流れで決まる。それは水のように高い方から低い方に流れる。その流れる先は時々で変わる。
 総裁選では流れが高市さんだった。そして公明党が連立を解消した。高市さんの田んぼから公明党の田んぼへと流れなかったからだ。公明党は今、国民・立憲との協力を探っている。場合によっては野党から総理大臣が誕生する可能性すらでてきた。
 自民党にすれば青天の霹靂だったろう。一連の動きを見てつくづく面白いと思う。この頃は野党から総理が出るのも面白いと思っている。野党の心理的ベクトルに注目している。
 10月20日  自民党と維新が連立を組むことに合意した。明日の内閣総理大臣指名選挙では維新は”高市”と書くことを明言した。国民民主党と立憲民主党は維新に油揚げをさらわれた。まさに「漁夫の利」であった。国民民主党の玉木氏は呆然としていた。維新が介入してくるとは予想もしていなかったようだった。総理大臣になることに意欲を示していた玉木氏だったが、すべてが水泡に帰した。一方立件民主党にとっては「元の木阿弥」であった。こんなことが実際に起こるのですね。
 10月21日 高市さんが第104代総理大臣に選出されました。獲得総数は237票で一回で決まりました。公明党が抜けた段階では危ないのではないかとみらたが、うまく票を集め乗り切りました。茂木さんは外務相、林さんは総務相、小泉さんは防衛相、赤沢さんは経済産業相に任命され、みな快く引き受けました。茂木さん、林さん、赤沢さんは自民党内でもとびぬけた能力を持っている。小泉さんは律儀で受けた恩には必ず応える。そしてコミュニケーションが上手で人を引き付ける。この四人はよい働きをするに違いない。

No.320
放送大学の思い出
   2025年10月8日


 オンラインで受講できる通信制の大学として放送大学が注目されているようです。  放送大学では且つて修士選科生でお世話になりました。ここで14科目の単位をとりました。都合のよい時にPCやスマホで受講できます。テキストで勉強しオンラインで受講する繰り返しになるので根気がいります。
 在学中にとてもよかったことが二つあります。
 一つ目は、提出した心理学のレポートに対して東京大学の先生がとても丁寧に回答してくれたことです。
 二つ目は、植物のゼミに参加できたことです。毎回、植物や植物の写真を持ち寄ってはみんなで話し合ったのがこの上なく幸せな時間でした。先生が江戸時代から伝わる変わった花の咲く朝顔の種子をゼミ生に配ってくれました。私はこの朝顔を種子を採取して毎年育てています。
 放送大学に入学すると学生証をくれます。映画館や博物館等に入場する時に学割があります。これは嬉しいおまけです。

No.319
総裁選で感じたこと
   2025年10月5日

 高市さんが新総裁に選出された。これはこれでよいと思っている。けれど私は石破さんが総裁を続けてくれるのがよいと思っていた。
 今回の総裁選がどうして急に発生したのか今一つすっきりしない。これは自民党議員の焦りや欲望から起こったものだろうと思う。新総裁選で何か都合の良いことになりそうだと思ったのか。総裁選はバブルのようなものだと思う。議員たちの思惑バブルがどんどん膨らんでぱちんとはじけた。そして高市氏が選出され他の候補者は沈んでしまった。思う通りにならなかったと嘆く人は与党にも野党にもにいるだろう。よかれとやったことが逆効果になることもある。
 小泉さんは敗北したが、かえって命拾いしたのかもしれない。今後は着実に力をつけて逆転されない実力を身につけたらよいと思う。
 自分としては無駄な総裁選に思えたが、政治の世界は得てしてこういうものなのだろう。一週間もすると誰も口にしなくなるに違いない。

No.318
晩年のよい生き方とは
   2025年9月21日

 晩年には人生の夕ぐれという寂しい響きがある。
 私はこの時期をこれまでの喧騒を離れて自分の人生をひとり静かに振り返り、残りの人生を考える大切な時間と考えている。
 若いころ、私は90歳まで生きることを目標にした。当時は90歳まで生きれば十分長生きだと思えたからだ。しかし73歳を迎えた今、90歳まであと17年だ。この間に大きな転機があるかもしれない。そうであるとしても静かに人生を振り返りこれからを考えることは大切であるに違いない。
 晩年を考えるうえで見落としてはいけないのは体力の低下だ。筋肉が少なくなっていることが鏡を見てわかる。だんだん動きが緩慢になってきた。股関節、膝関節、心筋梗塞と手術が重なったこともあり体力が衰えた。体力の衰えは高齢化に伴うものなので仕方がないが、筋力を落とさないように努力することはできる。体力が弱くなると心が弱くなる。体力と心は関係がある。体力を落とさないように努力することが大切だと思う。
 もう一つ大切なことがある。高齢になると人との会話がなくなる。一人暮らしになるとなおさらだ。調査によると一週間誰とも話したことがないともあるようだ。
 体力の低下とコミュニケーションの減少。こうならないためには趣味を持つことが最もよいと思う。趣味により人とのつながりができる。また、身体をよく動かすようになるからだ。明日はこれをやろうと思って眠りにつく。小さな希望が明日へと引っ張ってくれるに違いない。

No.317
ホームページの引っ越し
   2025年9月25日

 最近は無料でできるホームページが少なくなった。私は無料ホームページこれまでにいくつも使ってきた。つい最近までFC2の無料ホームページを使っていたが、これが終了になった。こういうことは何度も経験した。それで忍者ホームページに引越した。ここは以前使ったことがあった。忍者ツールズとして生き残っていた。古巣に戻ったわけだ。
 示された手順通りFTPを設定してファイルをアップして完了。アクセスカウンターと掲示板はFC2で使っていたものを使った。当初、ネット上の無料アクセスカウンターをいくつか試したが性能が悪くて使い物にならなかった。だがFC2カウターは簡易なものながら色々設定ができるし精度も悪くない。それで継続して使うことにした。
 新機能として忍者解析ツールを使った。この解析ツールは時間ごとのアクセス数や訪問者のOS、ドメイン、ブラウザーなどが詳細にわかる。掲示板もデザインや機能を見直した。
 すっかり引っ越しが終わり、数日間運用してみたが問題はなかった。全て無料のサービスで費用は全くかからなかった。これで良しとした。

No.316
あんぱんとサンリオ
   2025年9月15日

 NHK朝ドラで崇が働いている会社はサンリオがモデルになっているようだ。物語には「詩とメルヘン」とか「いちご絵本」とかが出て来る。
 私は東村山市久米川にある某ストアの文具玩具売り場ではたらいていたことがある。そこでサンリオの商品を扱っていた。キティー、キキララ、赤ずきんは女の子に大人気だった。もう50年前のことだ。
 サンリオが「いちご新聞」というのを発売した。一部100円だった。これはほとんど売れなかった。そこで私は一工夫した。すると毎月100部ほど売れるようになった。サンリオの販売員が来てどうしてこんなに売れるのかとびっくりした。私はサンリオが毎月送ってくるキャラクターのおまけを筒状にまいた新聞に可愛く張り付けただけだった。
 朝ドラ「アンパン」でサンリオの前身に出合ったのは感慨深い。写真は保存してた当時のおまけ。

No.315
国宝
   2025年9月12日

 映画「国宝」を見ました。平日だったので空いていました。3時間の映画なので途中でトイレは大丈夫だろうか、腹が減らないだろうかと心配しながらでした。  私が「国宝」に期待したのは吉沢 亮(東一郎、後の三代目花井半二郎)と横浜流星(歌舞伎役者の血筋である花井半也)が歌舞伎の女形を演じる映像美だった。
「躍動する映像美」
 華やかな衣装を身に着けてた二人の舞と所作に見とれた。はっと息をのむシーンがいくつもあった。
 私の知っている歌舞伎は舞台上の演技を遠くから見るものだった。しかし、映画では、役者の演技や表情、内面の姿を遠くから近くから、前後左右、上下からのカメラワークで描いている。
 吉沢 亮と横浜流星は全くの歌舞伎の素人だった。この二人は実際の歌舞伎役者の指導を受け受けながら一年半をかけて歌舞伎の芸を身に着けた。二人が見せたの渾身の演技は見事なものだった。
 横浜流星はNHKの大河ドラマ「べらぼう」で知っていたが吉沢 亮のことは何も知らなかった。この二人の青年が情熱で描いて見せてくれた世界は驚きであり感動的であった。
「血筋と才能の狭間で」
 歌舞伎の世界では家の血筋(この物語では横浜流星演じる花井半也)が大事にされる。この血筋が歌舞伎を何百年も守ってきたに違いない。しかし、一般から歌舞伎界に身を投じた者(部屋子と言われる)にとってはとても厳しい道に違いない。三代目花井半二郎を襲名したにもかかわらす仕事がもらえなかった。失意の花井半二郎(吉沢 亮)が「おれには守ってくれる血がないねん」と悔しがった。
 さて、数年間、地方巡業に身をやつし歌舞伎界を離れていた半二郎に女形の人間国宝である万菊が歌舞伎に戻って来いと手を差しのべた。これをきっかけにぶつかり合っていた半二郎と半也は和解し、また一緒に舞台を演じることになった。舞台は好評であった。だが、半也は病気で他界してしまう。
 ある時、「鷺娘」を渾身の力で演じきった半二郎に、ずっと追い求めていた風景が見えた。いったいどのような風景だったのだろうか。
 半也の亡きあと歌舞伎に一途に情熱を注いだ半二郎は推薦により国宝となった。国宝とは重要無形文化財であり芸術とうにたずさわる者がたどり着く最高峰だ。ラストシーンには亡き半也の一人息子に歌舞伎の指導をする半二郎の姿があった。
 この映画は若者から年配者まで幅広い層が鑑賞しているようだ。芸に打ち込み困難を乗り越える。やがて究極の世界に到達するまでの苦悩する姿やその生き方を美しいと感じるのかもしれない。映像の美しさがそれを際立たせているのだろう。

No.314
日航機事故40年
   2025年8月25日

 日航機が群馬県の御巣鷹山に激突し、520名の乗員乗客がなくなった事故は衝撃的だった。その日の昼間から日航機の行方不明が報道されていたが、御巣鷹山にから炎が見えると伝えられたのは夜遅くだった。墜落現場は山深く、ヘリコプターの夜間飛行は危険なため、捜索は翌朝から始まった。
 墜落原因は、機体後方の圧力隔壁の破裂により、尾翼の方向舵が吹き飛び、同時に油圧系が損傷したことにより、昇降舵が操作不能になったためであると報告された。なお、吹き飛んだ方向だは海上で発見されている。
 旅客機の客室は茶筒のようになっていて外とは隔てられていて客室内の気圧は外より高く調整されている。
 この日航機は以前にしりもち着陸の事故を起こした。そのときに後部の圧力隔壁が損傷した。ボーイング社が修理行ったが、この修理が不十分であったようだ。この修理部分が破裂をしたようだ。そして方向舵が吹き飛ばされ、油圧系が破壊されて操縦不能に陥った。この時の管制塔とのやり取りが記録されている。
 機長や乗務員には何が起こったのか全く分からなかった。しかし機長は操縦不能に陥った飛行機をエンジンの推力の調整のみで30分以上も飛行させた。これは驚くべき技量であるという。
 なすすべもなく日航機は御巣鷹山に激突した。520名が死亡したが、奇跡的に数名が救助された。救助された方の証言によれば、墜落直後にはさらに数名の生存者がいたという。闇の中で互いに話をしていたが、やがて声が聞こえなくなったという。
 絶望的な状況の中で機長も乗務員も最後まで力を尽くしたのは間違いない。この事故から40年がたつ。遺族の方にとっては忘れることのできない長い日々であったに違いない。亡くなられた方々のご冥福を祈ります。

No.313
一生もの 2
   2025年8月9日

 高校生の時に町の本屋で買った三省堂のカレッジクラウンという英語辞書だ。当時1500円だった。少しぶ厚かったが机の上において使うにはちょうど良いサイズだったし、頼もしい辞書に思えた。これを買った時はうれしかった。
 高校、受験勉強、大学、社会人と使い続けた。どのページを開いても赤線をひいてないページがない。紙のケースは朽ち果てた。表紙はボロボロになったのでテープで補修して形を保っている。
 この頃は電子辞書を使うようになってこれを開く機会がなくなったが、先だって電子辞書では足りなくてこの辞書で調べた。ページをめくる紙の感触、赤線やマーカー、見やすい豊富な内容と活字などに辞書への愛着がよみがえった。ブラシで埃を払い、表紙をきれいに拭いた。紙の辞書は電子辞書のように壊れることがない。大切に扱えばいつまでも使える。気が付くと一生ものになっていた。

No.312
黙示録の666の謎が分かったかもしれない
   2025年8月6日

 新約聖書の黙示録には人間をさす数字として666というのがある。

13の17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
13の18 ここに知恵がある。思慮あるものはその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は666である。

 長い間、たくさんの研究家が666の意味を解明しようとしたが、これが正解だという有力なものがなかった。歴史が進んで過去にはなかったことが現れた。それで意味が分かるようになったものもあると思う。
 私は20代の頃からこの666に興味を持っていたが、何のことかさっぱりわからないでいた。
 私は一つの仮説を立てた。、ここで言われている人間はトランプ大統領であるという仮説だ。そしてトランプ大統領にかかわる数字を調べてみた。すると次のことが分かった。トランプ大統領は1946年6月14日生まれ。2016年に大統領に当選。
 これで6が三つそろった。つまり666がさす人間はトランプ大統領である。 強引なこじつけと言われても仕方がないが、これが今のところ私の解だ。 補足すると「その名の数字」と「その獣の数字」は違う物と考える。

No.311
73歳になって感じること
   2025年8月4日

 私は学校を定年退職後に積極的にいろいろなことをやってきた。その一つに小学校の放課後塾の講師がある。退職時にはまだまだ教育に携わりたかったからだ。子供たちを教えることに意義と喜びを感じて一生懸命にやってきた。
 しかし、最近の5年間には、心筋梗塞、股関節手術、膝半月板手術があり、入院と退院を繰り返した。また、リハビリに長い時間を費やした。
 特に心筋梗塞は迅速な処置のおかげで生還することができたが、精神面と体力面での不安が大きくなった。死を強く意識するようになった。
 そうこうしているうちに73歳になっていた。73歳を迎えてみると身体の調子が以前と比べて何かおかしいことに気づいた。体が以前よりもだるくなった。放課後塾の講師もおっくうになってきた。一人でいることを好むようになった。暑さにも弱くなった。
 高齢になれば、10年、20年前とは違って当たり前だ。そのことを実感した。自分も人も着実に歳をとっている。これには寂しさを感じる。
 さて、自分が80歳になった時はどうだろう。健康でいるだろうか、それとも認知症が始まってヨボヨボニなっているだろうか。あるいはもう死んでいるだろうか。全く分からない。健康で80歳を迎えられるように、今を一生懸命に生きるほかないだろう。
 若いころ私は90歳まで生きることを目標にしていた。しかし今になると90歳までにあと十数年だ。あと十数年もあると考えるか、あと十数年しかないと考えるかだ。あと十数年しかないと考える自分がいる。どちらにしろ、十数年をどう生きるか、どう生きようとするかが大事だと思う。

No.310
無免許臨時教員の増加と教員免許の意義
   2025年7月10日

 ネットで次のような記事を目にした。「最近、無免許教員の採用が増えていて、全国的にたくさんの児童生徒が無免許教員による授業を受けている。果たして教員免許に意義があるのか」「教員の数が減っているのになぜ仕事の量は減らないのか」という二つの視点がありました。
 この記事には@教員の仕事(校務)が分かっていない。A無免許教員の意味を取り違えている。この二つの点で問題があります。
@まず、教員数が減れば仕事は増えます。児童数減少の昨今、教員定数の決まりにより児童生徒の数が規定数を下回るとそれに応じて教員も減らされます。教員が減っても学校運営上の仕事量は同じなので、一人の教員が受け持つ校務分掌(学校運営のための仕事)が増えます。またPTA関係の行事や保護者対応も重くのしかかります。
A「無免許臨時教員の活用」
 臨時教員とはいわゆる講師のことです。例えば小学校免許を持っていない人が講師として小学校で働く場合は無免許臨時教員にあたります。小学校免許があれば臨時教員です。
 教員は所有する免許によって採用されます。例えば小学校→小学校免許 中高理科→中高理科免許等。その他の教科についても同じです。
 なお、学校としてやむを得ない場合には無免許の臨時教員(講師)を採用することになります。産休・育休・病休等で臨時に教員が必要になる場合などです。ただし、小学校では小学校免許のない講師は学級担任にはなれません。しかし所有する教科の免許が対応する授業をすることができます。例えば英語免許→英語の授業。
 中学校では教科の免許があっても講師は学級担任にはなれません。しかし授業は受け持つことができます。例えば英語免許→英語の授業。また、小中でもTT(ティームティーチング)の教員として働くことができます。
 以上のように「教員免許の存在意義」はきちんとあるのです。最近では臨時教員を引き受けてくれる人を見つけるのが大変で担当者は頭の痛いところです。
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No.309
体育時の着替えについて
   2025年6月27日

 教師による児童の下着盗撮の記事が連日報道されました。それに伴い着替えが必要かどうかという議論もあったようです。
 結論から言うと着替えは必要です。体育で大汗をかいて濡れて汚れたまま過ごさせるのは保健衛生上よくありません。清潔を保つのは大事なことです。
もし自分の子どもが汚れたまま学校で過ごすのを見たらとても可愛そうに思います。  着替えの問題は子供たちにとっても大きな問題でしょう。更衣室が整っていれば安心して着替えができます。小さなころからそうした指導をすることが大切です。
 教員が盗撮や猥褻の問題を起こすのは、学校の管理運営に不備があるからだと考えます。このような問題があると必ず県から、不祥事防止の通達が来ます。私は管理職だったころ、必ずそれを詳細に伝え、教職員の意識向上に努めました。そして「罪になるからやってはいけないのではなく、人としてやってはいけないことだからです」と一言付け加えました。
 学校には児童生徒が大勢いて先生先生と寄ってきます。うれしいことですが、教師として言動に気を付け節度をもって接することが求められます。互いの信頼関係が壊れたら教育は成り立ちません。

No.308
「一つの花」子供たちに戦争が伝わらない
   2025年6月22日

 小学校四年生の国語教材に「一つの花」がある。駅で出征する父親を見送る妻と幼いゆみ子との別れを描いた話だ。おなかをすかせたゆみこがおにぎりを一つだけちょうだいと泣いて困らせる。父親はコスモスを手折ってゆみ子に一つだけの花だよと言ってわたした。父親は戦争が終わっても帰ってこなかった。
 先日、四年生担当の先生と「一つの花」について話す機会があった。先生はすでに退職しているが経験豊かな方だ。担任が出張の時に臨時として学級を見ているのだという。先生は子供に戦争が伝わらないと言った。せいぜいゲームのようなものとしか想像できないのだという。つまり物語の背景にある戦争というものが分からない、伝わらないというのだ。
 子供たちにとっては、この物語の背景である戦争というものが分かりずらいようだった。三年生の国語教材にも「ちいちゃんのかげおくり」という戦争にまつわる悲しい物語がある。これも同様の問題をはらむだろう。

 私は戦後生まれだ。しかし、両親や戦争から帰ってきた人たちから直接体験談をきくことができた。それである程度の想像はできるものの実際に経験した人にははるかに及ばない。
 戦後八十年たった。平和な時代に育った先生や子供たちにとって戦争は想像ができないことであるに違いない。

No.307
先生は子供たちと共に成長する
   2025年6月13日

 ネットにこんな記事があった。
 学級崩壊を起こした学級を途中から引き継いだA子先生。問題の子が他の子に暴力をふるったのできつく注意した。それに逆切れした保護者がすごい剣幕でクレームをつけてきた。教頭がA子先生と一緒に保護者宅に行ってくれた。相変わらずの剣幕で怒鳴る保護者に対してA子先生は怖くてなすすべがなかった。しかし、教頭は終始冷静に保護者の言い分に耳を傾けるとともに、学校としての考え方を述べた。保護者の怒りはやがておさまった。A子先生は教頭の対処の仕方に感激するとともに、今後の教員としての生き方のヒントを得た。
 教頭さんは立派だった。ちゃんと先生を守った。
 教員になったばかりの教え子がいる。クラスに落ち着かない子がいて注意しても聞かないとぼやいた。聞いてピンときた。たぶん家庭環境が子供の行動に反映しているのではないかと。お子さんを育てるためにお母様は一人で一生懸命に働いておられるようだ。こういう場合は叱るだけではいけないと助言した。
 こういう場合、一人の教師だけではうまく行かない。学校と教職員全員が問題を共有して同じ対応をとることが大事だ。もう一つは、子供たちが互いに思いやり助け合う心を育てることだ。先生も子どもたちと一緒に成長するものなのだの話した。
 教育は長い年月をかけて行われる。うまくいかないことがあってもがっかりすることはない。長い視点で見ることだと思う。

No.306
国立大学と私立大学の優劣
   2025年6月8日

 国立大学と私立大学に能力の違いがあるかというネット記事があった。ネット記事にはこういう類のものがよくある。
 国立大学に行った人から見ると私立大学は受験教科が少なく、その点ですでにとるに足らないものと思うらしい。つまり、受験教科が多い国立大学の方が能力的に高いのが当然だと考えている。
 私は早稲田大学卒だが、国立大卒と私立大卒の能力の違い(優劣)について考えたこともなかった。そんなことを考えなくてもよい環境であった。因みに私は教育学士と理学士の学士号を持っている。
 私立大と国立大の能力の違いを表す基準とは何だろう。受験教科の数の違いだろうか。国立大は受験教科が多いので能力が高くて当然だという考え方だ。しかし、私立大学には社会的評価の高い大学が多数ある。
 私立大はすべて独自の建学理念によって設立されており、運営資金は自前だ。国立大学は国によって設立されて資金の元も国である。根っこが同じだ。しかし、私立大学の根っこはそれぞれ異なっている。これらの点から国立大学と私立大学は似て非なるものといえる。つまり比較しようにも次元が異なる。1qと1sを比較しようとするようなものだ。
 国立大学と私立大学の優劣を言うのは意味がない。この二つは社会によって評価されている。国立大学と私立大学は車の両輪のように日本をささえているのだから。
 ところで、私立大学の学生数は国立大学と比べて多い。それは大学を運営するために必要なことなのだが、マンモス大学で教育の質が低いと揶揄される根拠になっている。しかし、多様な学生が集まり切磋琢磨する場でもある。これは大きなメリットだと思う。社会は、ここから望む人材をたくさん探し出すことができるからだ。
 国立大学と私立大学の優劣論争は不毛だ。その理由を示し、論争に終止符を打てたと自分では思っている。

左:早稲田の銀杏並木 右:駒場東大の雪の銀杏並木
聴講生として駒東で学んだことがある

No.305
HD(ハードディスク)が突然クラッシュ
   2025年6月3日

 15年使ったHDが昨夜(6月3日)に突然クラッシュした。HDのクラッシュはいつも突然起こる。幸い、データは別のHDに丸ごとコピーしてあった。  HDはいつかは壊れる。大事なデータが全て失われることは何としても避けたい。バックアップは必須だ。
 私は大きな手術を何度かしたのでHDのメンテまで気が回らなかった。常々対策しておくことの大切さを痛感した出来事だった。それにしてもこのHDはよく働いてくれた。感謝している。分解して原因を調べたいと思う。万が一直せたらまた使いたい。無理かもしれないが。

No.304
幸運のハンコ
   2025年5月31日

 たいていの物は壊れたり、飽きたりして捨ててしまう。しかし、一生使い続けられるものがある。そういうものが「一生もの」だ。
 私にとっての「一生もの」は「幸運のハンコ」だ。二十歳のころ三須啓仙著の「幸運のハンコ」という本を読んでハンコに興味を持った。
 歌手、俳優等の有名人に作った吉印相の印が載っていた。篆書という曲線で掘られた文字が美しかった。全部丸印だった。楕円や四角、金属、石の印はよくないのだという。細く円い縁には才能、成功、愛情、蓄財といった運を表す場所があって、自分が求める幸運が選べるようになっている。印材には柘植、黒水牛、象牙等があり、生まれた月や性格によって適した印材があるのだという。  自分も美しい篆書の幸運のハンコがぜひ欲しくなった。そこで都電荒川線に乗って本の著者いる北大塚に行った。
 三須啓仙さんは私が求める幸運の希望を聞いた。印材は、本来は柘植なのだが、長持ちするのと強い気持ちが持てるようにと黒水牛を勧めてくれた。値段は3500円だった。
 完成日に受け取った印鑑は黒いケースに収められていて黒水牛の印鑑が光っていた。鑑定書も付属していた。印相は期待通りの美しい篆書だった。後日、ここで実印用の印鑑も作ってもらった。実印用の印鑑は認印よりも一回り大きくフルネームの印だった。たしか6500円くらいだったと思う。この篆書の印相も素晴らしかった。
 この二つの印鑑を持っていると満足感と安心感があった。就職、結婚、車を買うとき、家を建てる時など大事な時に使った。二十歳のころに作った「幸運のハンコ」は間違いなく一生ものだった。

No.303
長く使い続けているもの
   2025年5月24日

 NHKの「チコちゃんに叱られる」で長く使い続けた物がありますかという投稿があった。自分にも何かあるだろうかと考えた。すると、何と一つあった。それは、45年前、初任の学校で担任をした4年生の子どもたちが私の誕生日祝いにと、みんなでお金を出し合ってプレゼントしてくれた万年筆だ。パイロット・ミューといってステンレスのボディーとペン先が一体になったもので当時、3500円だった。「よい先生になってください」という子供たちの気持ちを感じた。以来、この万年筆はずっと私と一緒だった。それから数十年、退職の時もこの万年筆を身に着けた。自分はよい先生になっただろうかと心の中でつぶやいた。
 退職した年に、初任者指導で4年生の新任教員を指導した。私がこの万年筆でメモを取っていると、珍しそうに覗き込んでいた子供たちから、それは何ですかと聞かれた。子供たちは万年筆を知らなかった。
 子供たちがくれた万年筆は、今も机の上にある。じっと見ていると子供たちの笑顔が浮かんだ。ありがとう、みんな。これからも大事にするよ。

No.302
トランプ関税
   2025年5月17日

 トランプ関税によってアメリカは自殺するのか。アメリカは世界中の国と貿易してきた。それによってアメリカは繁栄してきたし、他国にも利益をもたらすことにより信頼を得てきた。しかし、アメリカが搾取されていると考えるトランプ政権は、輸入品に高い関税を課して貿易赤字を無くそうと考えている。
 トランプ関税はアメリカを再び完全なる繁栄に導くはずだった。しかし、思惑通りに世界は動いていない。諸刃の剣であるトランプ関税でアメリカ自身も深い傷を負うことになる。日本をはじめ世界の国々はトランプにすり寄らず、動向を見守っている。
 さて、他国の製品に高い関税をかければ他国の製品が売れなくなる。そしてアメリカの国内産業が再び盛んになってアメリカが栄えるとトランプ大統領は考えている。そして、なりふり構わず他国に脅しをかけて高関税を押し付けようとしている。しかし、他国もアメリカと貿易できなくなる。これはアメリカにとってよくないことに違いない。
 聖書の黙示録には繁栄していた「大バビロン」という国が倒れることが書かれている。「大バビロン」がアメリカでないことを祈る。

No.301
断捨離(だんしゃり)
   2025年5月12日
 ”断捨離”をよく耳にします。ヨガ・インストラクター”やましたひでこ氏”が、ヨガの断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)から生み出した考え方です。不要なものを切り捨てることで、モノへの執着から離れ、身軽でシンプルなライフ・スタイルを目指すことです。
 気が付けば70代になり、身の回りには買ったり取って置いたりしたものが机の引き出しや棚にいっぱいです。さて、これらをどうしたものか。やはり、使わないものを少しずつ捨てるのがよいようです。徐々に少なくして、いつの間にかすっきりしているというのが、自分には合っているような気がしました。また使う時があるだろうとか、名残惜しいとかあるだろうが、そこは勇気を出して。
 生活しているうちにたまったモノたちであり、その時その時を支えてくれとモノたちです。感謝しつつ処分しようと思います。 

No.300
朝ドラ・女子師範学校入試面接
2025年4月24日
 NHK朝ドラ「アンパン」で”朝田のぶ”が女子師範学校入試で面接を受けるシーンがありました。試験に遅刻しそうになった理由を面接官から問われて”のぶ”が返答に困りました。
私も過去にいくつか面接を受けたことがあるので、興味深く見ていました。面接の内容はどこも似たようなものでしたが、一つだけ、時代を反映したというか困った面接がありました。それは千葉県の教員採用での面接でした。もう50年も前のことです。
 それはこんなふうに始まりました。父が警察官であるのを知った面接官が私に言いました。
「警察官になった方がいいんじゃないですか。学校で暴れられると困るので早稲田大学出は採用しないようにしている。」※当時は学生運動が盛んであり、早稲田大学もそのさ中にあった。
 なぜ、こんなことを言われるのか、その時は分からなかったが、おそらく、父親が警察官であること、私が早稲田大学卒であることが気に食わなかったので辞退させようとしたのかもしれません。採用後、このことは報告しておきました。この面接は異例中の異例ですが、この対極の面接もありました。株式会社「西友」の面接でした。学生5人と面接官数人との面接でした。こんなやり取りがあったのを覚えています。
面「ずいぶん成績がいいですね」
私「はい、でもそういわれても・・・」
面「気分が悪いですか。ははははは(笑)。ところで趣味は何ですか」
私「オートバイに乗ることです」 するとすぐに突っ込まれました。
面「オートバイはどうやって手に入れましたか」
うっ、痛いところを突かれた。実は、中古の50ccで18、000円を親から出してもらったのです。とっさに、嘘をつきました。
私「は、はい。アルバイトをして買いました」「ネクタイがきつくて声が出ません」※ネクタイは前日に早稲田界隈の雑貨屋で500円で買ったもので、友人からしめ方を教わりました。
面「よい印象でした」と終了しました。ちなみに合格をいただきました。
 良くも悪くも面接は双方に何かしらの印象を残します。面接シーンを見て、こんなことをふと思い出しました。
No.299
親ガチャ
   2025年4月13日
 ガチャとは、コインを入れてハンドルをガチャンと回すとカプセルに入った品物がてくる販売器具のことだ。何が出てくるか分からない。ほしいものが出てくれば万歳だ。
 ネット上で親ガチャという言葉を見かけることがある。生まれるときに親を選ぶことができない。ガチャのようなものだということなのだろう。若者から生まれた言葉なのだと思う。
 ずいぶんふざけたことを言うなと、初めて聞いたときには思った。しかし、世の中で、生きていてそう感じるに違いない。たぶん、よい家庭に生まれた者とそうでない者。なので決してふざけ半分な言葉ではないと思った。
 江戸時代には士農工商・エタ・ヒニンという身分があった。それぞれの身分にも上下関係があった。明治、大正、昭和の時代になっても身分制度が残っていた。これらの身分制度が廃止され、女性の参政権が得られたのは太平洋戦争敗戦後のことだった。なので、つい最近まで親ガチャははっきり存在していた。
 今は身分制度こそなくなったが、生活の格差が広がっている。生活の格差は目に見えにくい水面下に広がる階層のようなものだろう。これを敏感に感じ取った若者が親ガチャと表現したのだろう。
 ここで自分はどんな親ガチャなのだろうと思った。しかし、考えても仕方がないことだった。どうにもならないことだった。私は、一生懸命に努力し、働いて家庭を持ち、子供三人を育てた。
 父母の青春時代は戦争があった。父は農家に生まれ経済的には苦しかった。旧制中学に進んだが、お金がなくて修学旅行には行けなかった。大学に進めなかった。母は、親戚のおばあさんの助けもあり、師範学校に進んで教員になった。戦後二人は結婚した。父は警察官になった。母は教員であった。生活は楽ではなかったが、子供四人を育てた。一人は幼くして病死した。
 家族で暮らす楽しい思い出を父母は残してくれた。家計をやりくりして私たちを大学に進学させてくれた。その父母はもういない。
 私は父母にとても感謝している。恩返しをしたかった。これが私の答えだった。
No.298
土日の部活動は無理ゲー
   2025年4月11日
 「土日の部活動は無理ゲー」という記事があったので、次のようなコメントを書きました。
 この方の語っていることは真実です。なので、細かいことは繰り返しません。
 本来、部活と学校は切り離すべきものです。部活動は職務ではありません。教育基本法、学校教育法等どの法令にも規定されていないブラックな領域です。 厳しい言い方をすれば、職務時間中にボランティア活動をしていることになります。土日も部活をさせたければ、保護者が金を出して指導者を雇うべきでしょう。
 戦後ながらく部活を都合よく利用してきた学校に罪があります。また、教員に休みはいらないのだと主張する保護者も理不尽です。
 スポーツ活動が教育にとって有用であるとするなら地域コミュニティーぐるみの協力が必要でしょう。

No.297
黙示録が語る世の終わり
   2025年4月6日

 新約聖書の黙示録には世の終わりの様子が語られています。しかし、非常に比喩的・抽象的なので、いつの時代でどこの誰のことかは分かりません。  今の世界状況は、ロシアによるウクライナ侵攻。アメリカのトランプ大統領による関税攻撃の影響で非常に不安定で危機的であると感じます。
 そんな世の中を頭に置きながら黙示録を読んでみました。そして今と関係がありそうな部分を抜き出しました。一部省略しながらそれらを示します。
 ヨハネの黙示録
12の1 また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には12の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
12の2 また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角を持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。

13の16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右手かその額に、刻印を受けさせた。
13の17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
13の18 ここに知恵がある。思慮あるものはその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

17の1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いの一人が来て、私に話して、こう言った。
「ここに来なさい。大水の上に座っている大淫婦へのさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」

17の3 それから、御使いは、御霊を感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。

17−5 その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。

17の9 ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女が座っている七つの山で、七人の王たちのことです。

17の12 あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らはまだ国を受けていませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。

17の15 御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です。
17の16 あなたが見た十本の角と、あの獣は、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を焼き尽くすようになります。

17の18 あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」

18の1 この後、私は、もう一人の御使いが、大きな権威を帯びて、天から下ってくるのを見た。地はその栄光のために明るくなった。
18の2 彼は力強い声で叫んでいった。「倒れた。大バビロンが倒れた。そした、悪例の住まい、あらゆる汚れた霊共の巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。
18の3 それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは彼女と不品行を行い、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」
18の4 それから、私は、天からもう一つの声が言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。
18の5 なぜなら、彼女の罪は積み重なって点にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。
18の6 あなたがたは彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行いに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために倍の量を混ぜ合わせなさい。
18の7 彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座についている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。

 こうして大バビロンは滅びます。そして、大バビロンからの様々な利益を失った王たちや商人たちは嘆き悲しみます。
 ところで、大バビロンとはいったいどこでしょう。私はこう考えました。それは原子爆弾で何十万人も殺した国、関税で我が物顔にふるまっている国。
 黙示録は「いつどこで誰が」と具体的には言いません。世の終わりはこんな様子であると言うだけです。しかし、読み解くヒントが与えられています。知恵を働かせ、油断することなく、備えなさいと言っています。
 さて、現在の非常事態にどう対処したらよいのか、黙示録にはその答えがあります。そこは18の418の618の7です。

No.296
布施小学校閉校式
   2025年3月22日

 2025年3月22日土曜日は布施学校組合立布施小学校の閉校式があった。思いがけなく私のところにも招待状が届いた。布施小学校は私の初任の学校であったし、数十年後に教頭として赴任した学校でもあった。定年退職して十数年たつが有難く招待を受けた。
 きっと昔の知り合いに会えるだろう。誰が来るだろうか。どんな挨拶をして何を話そうか。背広とネクタイはどれにしようかなど、この日までに私は色々と思いをめぐらせた。せっかく神様が下さった招待だ、よい思い出にしようと心に決めた。背広の襟には東大の記章をつけた。黒字に金色の東大の銀杏マークのネクタイピンをつけた。どちらもかつて東大の聴講生だった時に購入したものだ。ちょっとカッコつけようと思った。誰も気づかないだろう。
 天気がよく暖かだった。校庭の駐車場には受付時間前にもかかわらずすでに車がたくさん来ていた。会場の体育館に入ると椅子には私の名札がついていた。すでにAさんが来ていた。少し遅れてBさん。私は会場で見かけた知り合い全てに挨拶をした。
 閉会式は10時ぴったりに始まった。国歌斉唱、管理者あいさつ、市長あいさつ、閉校宣言、後期返納、校長あいさつ、児童代表挨拶、校歌斉唱、と式は進んで10時半に終了した。簡素であったが清々しい閉校式であった。
 閉校式後は校内を見学した。自分が授業をした懐かしい理科室も見た。小さな実験台が並んでいた。そこに座っていた子供たちの姿が浮かんだ。校庭の端に大きなマテバシイの木がある。このドングリで子供たちが笛を作ったことを思い出した。まるで昨日のことのように。

 ところで「ちょっとカッコつけようと思った」のは、閉校を迎えた布施小学校への敬意の気持ちからだった。そして、閉校式で出合った知り合い全てに挨拶したのは、人生は「一期一会」であるという気持ちからだった。
 この布施小学校は、私の初任の学校だった。この思いで深い学校の閉校に立ち会うことになるとは夢にも思わなかった。ありがとう、布施小学校。

No.295
海の美しい日の出
   2025年3月18日

 南房総白浜の美しい日の出です。二月下旬、南房総白浜を旅行した際に撮りました。夜明けの海にオレンジ色の太陽が昇ってきました。いつもならこういう写真は撮りません。難しいからです。挑戦してみようと思ったきっかけがありました。前日に房総酪農の里を訪れたとき、夕暮れの富士山の写真展を開いている方がいました。その方が夕暮れの写真の撮り方を教えてくれました。それを参考にして、露出を大きくしたり小さくしたり、シャッタースピードを速くしたり遅くしたり試行錯誤しながら撮りました。そうしてようやく撮れたのがこの一枚です。薄紫の空に静かに上るオレンジ色の太陽と早朝の穏やかな海。今そこにいるかのような平安な気持になります。

No.294
捕虜になった米英軍のパイロットがどうなったか
   2024年3月9日

 太平洋戦争中にB29が東京上空で撃墜されてパラシュートで降下したパイロットが捕虜になった話をたまたまネット記事で見た。コメントを書いたが、どういうわけか投稿できなかった。多分既に投稿を受け付けてなかったのかもしれない。以下がコメントの内容。
 千葉県夷隅郡大多喜町でもB29が山に墜落した。5〜6人が捕虜となり地元の中学校に拘束された。後に全員が処刑された。戦後、米軍が調査にきて関係した軍人を連行した。また、千葉県長生郡と大多喜町の上空でも米空母の艦載機が茂原飛行場から飛び立ったゼロ戦と空中戦になった。一機のゼロ戦が火を吹いて大多喜町泉水の田んぼに垂直に墜落した。パイロットは20代の青年であった。数年前に機体と遺骨が掘り出された。
 この空中戦では、英国のスピットファイア戦闘機が全弾うち尽くしたのちに墜落しパイロットが捕虜になった。まだ20歳くらいの青年だった。一宮の旅館にしばらく拘束された。裸で連行された青年を気の毒に思った女将が浴衣を着せてあげると大変喜んだという。そしてペンダントにある彼女写真を見せてくれたそうだ。後に彼は近くの洞庭湖湖畔で銃殺された。終戦後、米軍が関係した軍人を連行した。

No.293
ネットはタイムカプセル
   2024年3月4日

 14年前、私の在職中に発行された入学式の学校だよりをネット上で見つけました。この発行に私も関わっていました。こんなものが未だにあったのだと、とても不思議でした。入学式の様子、職員たちのことが書かれています。自分もすっかり忘れていたことが、こうしてネット空間にずっと存在していたのです。ネット空間はタイムカプセルです。この学校だよりを記念として残そうと思いました。
東っ子だより

No.292
ギターを始めました
   2025年2月1日

 家に古いZENONのクラシックギターがあったので、弦を張り替え、調弦してピカピカにみがきました。埃をかぶった古びたギターが輝きを取り戻しました。
 実は、ギターは全くの初心者です。YouTubeで検索していると、まずはドレミファソラシドを弾けるようになるといいと某サイトで言っていました。ここで弦をおさえる指の分担と運指を習いました。見よう見まねで弦を弾くと優しく優雅な音が響きました。つっかえつっかえドレミファソラシドドシラソファミレドと鳴らしました。弦を見なくても弾けるようになるまで練習するのだそうです。
 自分で整備したギターは格別です。ギターを鳴らしていだけで楽しい気分になります。今は、きらきら星・蛙の歌・バラが咲いた等を練習曲にしています。 童謡などの簡単な曲が弾ければいいので、楽しみながらやっています。なので、挫折することもありません。

No.291
ひざの手術とリハビリ
   2024年12月31日

 左ひざの半月板手術からひと月になります。はじめは痛くて足をつけなかったので松葉杖を使いました。回復は順調で今は何とか杖なしで歩けるようになりました。けれど長時間歩くと痛くなります。傷が回復する途中なので無理は禁物です。暖かくなるころには普通に歩けるようになると思います。
 当初、ひと月もすれば完全によくなると思っていました。事実、同様の手術を受けた知人には、手術後に歩いて帰れたという人もいました。それで私も甘く考えていました。しかし、私は内側の半月板を三分の二ほど切除しました。傷が大きかったと思います。だから、手術の程度にもよるのだと思います。
 理学療法士は、普通に歩けるようになるまでに三か月かかると言いました。半月板を切除したハンディを筋力をつけて補う必要があるのだそうです。毎日リハビリを続けています。普通に歩けるようになるのを目指して。

No.290
時速194qでの走行は危険運転
   2024年12月15日

 先日、一般道で時速194qで走行していて右折中の車に衝突し、右折車の運転手が全身打撲で死亡した事件の裁判がありました。
 弁護人は時速194kmで走行していてもまっすぐに走行していたので車の制御は可能であり、危険運転には当たらないと主張しました。
 この裁判の争点は、危険運転致死なのか過失運転致死なのかということでした。この件は間違いなく危険運転致死です。
 時速194qで走行することがどれほど危険なのか。それは時速194qは秒速54mだからです。対向車が右折を始めたときに54m先に見えたが一秒後には衝突します。対向車はよけることができないし、直進車も右折車をよけることができません。どんなに高度な運転テクニックを持っていても無理です。
 さらに衝突エネルギーは車の重量×速度の二乗に比例して大きくなります。衝突された車は大破して運転手の骨は粉々であったそうです。
 一般道を利用する車や歩行者から見れば、この上なく危険な行為であることが分かります。

No.289
膝関節手術をすることに
   2024年11月11日

 半年前から左膝関節が痛くなりました。ひどい時は10分歩くと耐えきれなくなりました。勝浦整形外科クリニックでMRI検査を受けたところ内側の半月板が断裂していることが分かりました。4年前に右股関節の手術を受けていたので、右足をかばって歩いた結果だろうということでした。いま手術しておいた方がよいとのことなので12月に手術を受けることに決めました。今後、術前の検査や入院の説明などがあります。
 4年前の股関節、2年前の心筋梗塞、そして今回と2年ごとの手術です。人生の総決算の時が来たのかと暗い気持ちになります。
 しかし、痛みが取れて、また普通に歩けるようにと希望をもって手術を受けます。よい報告ができればと思います。

No.288
早稲田大学ホームカミングデー
   2024年11月4日

 早稲田大学のキャンパスは老若男女と出店で大賑わいでした。よく見ると高齢者が多いようです。今日10月20日は早稲田大学卒業50年目の人達のホームカミングデーです。卒業後5年目、10年目の人達も招待されました。高齢による参加者の減少に配慮したのでしょう。
 アリーナで式典がありました。司会は羽鳥アナウンサーがつとめました。田中愛治総長は、偏差値に偏らない入試と文理融合の教育を目指すと述べられました。瀬古氏はスポーツの振興について、特にマラソンについて熱く語られました。このあとは応援部とチアダンスで盛り上がり、最後は校歌を全員で歌いました。
 正門から校内へ進むと大隈重信公がで迎えてくれました。おそらく卒業後初めてという方も多かったでしょう。
 法学部、商学部、、社会科学部、政治経済学部の建物は新しくなりました。建物は変わっても銀杏並木はそのままです。秋深くなると黄色の銀杏並木になります。
 教育学部脇の北門を出ると路地があり昔は食堂街でした。少し歩くとおにぎり屋がありました。小さな店でした。おにぎりも悪くないと思って入ってみました。「カツオの角煮と卵黄のしょうゆ漬けと・・・」と三つたのもうとすると若い店主が「うちのは大きいので・・・」というので、おにぎりは二つにして他に豆腐の味噌汁を注文しました。大きなノリがまかれてコンビニのおにぎりの二倍の大きさでした。野沢菜のおにぎりも食べてみたくて小さいのを追加注文しました。機会があったらまた来店したいと思いました。
   記念品の出店でWASEDA1882と書かれたエンジ色のトレーナーを買いました。4800円と高価でしたが、せっかくなので自分のために買いました。佐賀の出店では「丸ボーロ」を買いました。これは家へのお土産にしました。コルク製のコースターを二枚おまけにくれました。
 大隈庭園へも行きました。ここでは各県の稲門会が親父バンドやフラダンスなどを披露していました。みんな飲んだり食べたりしながら楽しそうでした。
 私が大隈庭園に来た目的は、戦争中、学徒出陣後に女子学生が書いた詩 「征く人のゆき果てし校庭に音絶えて木の葉舞うなり黄に輝きて」を写真にとるためでした。なかなか見つからなかったのですが、戦没者記念碑の裏側にようやく見つけることができました。早稲田大学は戦争によって4600人もの学生や職員が戦死していたのでした。
 大隈講堂の入り口階段に座って一休みしました。行き交う人たちを眺めていました。私は二年前に心筋梗塞になり二週間入院して生還しました。それ以来、初めて一人で東京まで来ました。今日は久しぶりにたくさんの同窓生と母校でのひと時を味わいました。

No.287
橋にいた老人
   2024年10月13日

 塩田川沿いの文化センターの裏に橋がある。老人が一人自転車を止めて川を眺めていた。80代半ばのように見えた。挨拶をして通り過ぎたが、3メートルほど離れて私も川を眺めた。鴨が3羽ならんで泳ぐのが見えた。私が鴨のことを話したのをきっかけに会話が始まった。老人は以前この川で亀を捕まえたことを話し出した。塩田川には大きな亀がいる。甲羅干ししているのを見たこともある。
 亀の話はやがて草刈りの話になった。
「草刈りがようやく終わってほっとした。300坪もあったんだ。3時間もかかったのに千円しかくれないんだ。」と料金の安さを嘆いた。300坪3時間で千円とは安すぎだと私は相槌を打った。
 話は次に交付金のことに移った。
「低所得者に10万円交付されるそうだ。年金だけでは食っていけねえ。裕福な人たちはたかが10万円ぽっちというが、俺にはありがてえ。」
 このあと電話で詐欺で800万円取られた人がいるが、よくそんなに金があるもんだなどという話に及んだ。
 暫く話し込んだのち互いにお元気でと別れた。どこの誰かもわからない。時々こんな出会いと会話がある。

No.286
自民党総裁選を振り返る
   2024年9月28日

 9月27日に行われた今回の自民党総裁選は大変興味深いものだった。
 まず、ネット上で猛烈な小泉進次郎叩きが始まった。批判の多くは発言内容に中身がない、学歴が低い、メモを見る回数が多い等であった。総じて感情的で悪口雑言に近いものだった。このような批判が総裁選直前まで続いた。一方、決選投票になった石破氏と高市氏をはじめ他の候補は批判の対象にならなかった。小泉叩きは異常であった。
 選挙結果は1回目は高市氏が1位、石橋氏が2位、小泉氏が3位であった。この時点では高市氏が圧倒的に有利だと予想された。しかし、決選投票では石破氏が215票、高市氏が194票を得て大逆転をして石破氏が新総裁になった。この結果には誰もが驚いたに違いなかった。私もその一人だった。しかし、石破氏が新総裁に決定したことに私はなぜかほっとした。高市氏や小泉氏が嫌だったというわけではないが。
 この大逆転について自分なりに考えてみた。鍵は3位になった小泉氏の動向だろう。
 小泉氏は前日に麻生氏を訪れて支援をお願いした。麻生氏はこれを拒否して高市氏支援を表明した。なので小泉氏は石破氏支援に回ったに違いない。麻生氏は思わぬところでしっぺ返しにあった。もちろん他の要素もあったと思うが。
 選挙後の会見では、石破氏はニコニコしてうれしそう、高市氏は沈痛な表情であった。まあ、これは当然か。小泉氏はやり切ったという充実感があふれていた。仲間が自分のためにとても良く動いてくれたと仲間への感謝を何度も口にした。「政治は一人ではできない」と述べたのが印象的だった。
 小泉氏が閣僚になるかは現時点では分からない。それは新総裁が決めることだと小泉氏は言っている。
 小泉氏は最年少(43歳)の立候補者であったが3位になった。しかも4位に大差をつけた。あれほど叩かれていた小泉氏が何故こんなに躍進できたのか興味深い。田中角栄が「人の心が分かれば何でもできる」と言ったのを思い出した。
 9人が立候補して争った総裁選。それぞれの人が期待と夢を持って戦ったに違いない。ノーサイドとなった今、それぞれの人の今後の活躍を祈っている。

※ 2024年9月27日 自民党総裁選結果
1回目投票 1高市早苗(181)、2石破 茂(154)、3小泉進次郎(136)、4林 芳正(65)、5小林 鷹之(60)、6茂木 敏充(47)、7上川 陽子(40)、8河野 太郎(30)、9加藤 勝信(22) 計735
[決選投票]石破 茂(215)、高市 早苗(194) 計409 

No.285
2004年型シエンタに乗ってみると
2024年9月20日

 2004年式シエンタに2年前まで乗っていましたが、あちこち傷だらけになったので「爆安オート」というショップで同年式、同色で走行50000キロのきれいなシエンタを見つけたので乗り換えました。色が気に入っていたのと、慣れているので運転しやすいと思ったからです。何よりも爆安でした。
 しかし古い物には不具合がつきものでした。
@リヤシートのギヤが壊れて倒れたままになりました。中古のシートを探して取り付けてもらいました。35000円かかりました。
A異常にオイルが減ることが判明しました。バルブステムのシールの劣化によるオイルあがりのようでした。この年式のシエンタの持病のようです。世話になっている町の整備工場の人のすすめでプラスというオイル漏れ防止剤を入れました。シールのゴが柔らかくなってオイル漏れが減るのだそうです。それと10W−40の硬めのオイルを勧められました。
B助手席側の窓ガラスです。通常、運転席側から開け閉めできますが動かなくなりました。助手席側からは動かせるのでこのままにします。
C発進時低速時のカラカラ音です。これも古いシエンタにはよくあるようです。 調べた結果、ノッキングを疑いました。一番シリンダーのプラグが他に比べて黒っぽいので, ここでノッキングが起きているのではないかと疑いました。軽微なことなのでこのままにしようかと思ったが、ふと思いつきました。前のシエンタにつけていた「自作のホット稲妻」が効果があるのではないかと。この装置にはプラグへの電力供給を助ける働きがあります。さっそくバッテリーに取り付けました。するとあのカラカラ音が出なくなりました。もしかするとバッテリーの不良による電力不足であったのかもしれません。
 20年も経過した車です。あちこちが劣化していて当然です。しかし、私はこの車が好きなのできれいにして乗っています。
※自作ホットイナスマ・・・https//michiyax.jp「相棒ハスラー125」

No.284
全身麻酔の影響で困ったこと
   2024年8月20日

 以前の「退職の黙示録」で書き残したことがありました。
 胆嚢の具合が悪かった私は退職の5年前の12月に思い切って摘出手術を受けました。腹腔鏡手術だったので1週間ほどで退院できました。冬休みが開けると出勤しましたが、腹にはまだ縫合の針が残ったままでした。
 全身麻酔で行われた手術は、心身ともに大きな苦痛を伴いました。肉体的には大けがと同じなのですから。
 勤務に戻った時に大変に困ったことが起きました。物忘れがひどくなったことです。大事ななことを忘れてしまうことがたびたびありました。数日間は普通に覚えていても1週間たつとすっかり忘れてしまうのでした。一番困ったのは大事な研修の出張を忘れてしまったことです。
 その日の午前中にのんびり過ごしていると電話がありました。今日は管理職の研修日なのになぜ無断で休むのだと係りの偉い人からでした。昨日の夜まで覚えていたのに朝になったらすっかり忘れてしまったのでした。さんざん責められました。私は勝手に欠席したいい加減な奴だと思われたのです。理由なく研修をさぼるのは重罪でした。何とか釈明しましたが手術の影響ですとは言えませんでした。今思うとそう言ってもよかったのだと思いますが、悔しい思い出です。
 それからは、予定表とカレンダーに分かりやすく書き込んで頻繁に目を通すようにしました。それでも失敗は何度かありましたが。
 1週間もするとすっからかんに忘れてしまうというのは恐怖です。どうしてそうなってしまったのか、やはり全身麻酔の影響だろうと自分では思っています。退職から年月が経ち私は高齢者になりました。普通に物忘れする年齢になりましたが、大切なことは予定表とカレンダーにしっかり書き込んでいます。

No.283
オリンピックの泣き笑いで気が付いたこと
   2024年8月8日

 競技後の泣き笑いを毎回目にします。
 この人は金メダルだろうと期待されていた人が初戦で敗退したとか、あまり注目されていなかった人が金メダルをとったとか。今回のパリオリンピックでも大泣きや大喜びを目にしました。
 いろいろな試合を見ていて勝つ人と負ける人の違いに気が付きました。 勝つ人は攻めと守りのバランスがよく、試合運びが上手です。 負ける人は攻めている時は強いけれど守りに入ったときにあっという間に負けてしまうことがあります。
 金メダルに輝いたレスリングの文田選手がこんなことを言っていました。「東京オリンリンピックでは決勝で敗れて銀メダルだった。とても悔しかった。しかし、この時に守り(防御)の大切さに気が付いた。それから守りを強化して、攻めと守りのバランスをよくするように心がけた。」
 攻める時はしっかり攻め、守るときはしっかり守る。こういう試合運びをした選手がメダルにたどり着いたように思います。
 これは競技ばかりでなく日常生活や仕事にも当てはまると感じます。パリオリンピックを見ていてこんなことを考えました。

No.282
石丸伸二氏の言動が話題に
   2024年7月13日

 東京都知事選に立候補して落選した石丸伸二氏の言動が話題になっています。インタビューでの質問に対する答え方が不快だというのです。確かに質問者の意に沿ったような答え方はしないし、とても素っ気ないとも感じました。
 しかし、石丸氏は何度も繰り返されるどうでもいいような質問に苛立ちながらも彼なりに答えていたように思います。快不快は人それぞれの感じ方です。
  誰に忖度するでもなく、感じたまま考えたままを率直に表現する石丸氏をそれはそれでよいのではと思います。

No.281
東京都知事選挙の予想
   2024年7月7日

 小池百合子現知事が当選すると思います。そう思う根拠は、小池氏は女性の支持が厚いからです。有権者の半数は女性です。なので女性票の動きが勝敗を左右すると思います。
 一方、蓮舫氏、石丸氏、田母神氏などは、一部の熱烈な支持者がいると思われますが、女性がこれらの候補を熱烈に支持するかどうかは疑問です。
 どの候補者も言うことは同じです。ならば実績があり女性からの支持が厚い小池氏が有利と見ます。小池氏の学歴詐称問題を訴える人もいますが、そんなことは女性には全く関係のないことです。現実に努力してくれる人が大事なのです。

No.280
小石川植物園の猫
   2024年7月4日

 五月の下旬、妻と娘と私の三人で小石川植物園を訪れました。園内はとても広く、場所によっては山のなかようでした。休み休みゆっくり歩きました。しばらく進むと高齢の女性が二人でやっている小さな売店がありました。ソフトクリームを食べながら植物を見学しました。熱帯の植物がみられる温室もありました。牧野富太郎はここに三十七年いたそうです。この道を牧野も歩いたのだろうと思いを巡らせました。
 案内図を見るとまだ三分の一ほどしか回っていませんでしたが、昼になったので園を出ることにしました。その折り、事務所の受付にふと目をやると、黒っぽい猫が寝ているのが目に留まりました。体を横にして眠りこけています。私は猫のところに行って恐る恐る触ってみました。ふわっとした感触でした。シャーされなかったので次に黒い肉球にさわりました。少しザラザラとした柔らかい感触でした。猫は安心しきっていて目を開けることも起き上がることもありませんでした。次の女の方に場を譲ってその場を離れました。振り向くとその方は猫に顔をうずめて猫吸いをしていました。この猫はいつもここにきて来園者を楽しませているのでしょう。小石川植物園の猫の思い出になりました。

No.279
キョンの増加
2024年7月1日

 キョンはシカの仲間で中型犬くらいの大きさです。臆病ですばしこい動物です。 千葉県でキョンを見かけるようになって二十年くらいになります。私の住むいすみ市では散歩をすればキョンに出合うというほどありふれた動物です。
 私が初めてキョンに出会ったのは暗い山の中でした。その日、妻と山中の料理屋に出かけました。途中で道を間違えてさらに奥に入ってしまいました。晩秋のことですっかり暗くなってしまいました。その時どこからか、ゲオー、ゲオーという不気味な声が聞こえてきました。初めて聞く声でした。何か化け物が叫んでいるような恐ろしい声でした。その時は、それが何なのか分かりませんでした。キョンという動物の鳴き声であることが分かったのはかなり後になってからです。
 千葉県の興津にはフラミンゴのショーで有名だった「行川アイランド」という遊園地がありました。この「行川アイランド」の閉鎖後に、管理しきれなくなった動物が園外に逃げ出しました。キョンもその一つです。ところがキョンの繁殖力はすさまじく、今では千葉県内に7万頭いると推定されています。キョンは周辺地域に広がり続け、とうとう利根川を越えて茨城県にまで達しました。
 キョンは人や動物を襲うことはありません。しかし食欲旺盛で、庭や畑の花や農作物を食べてしまうので困ります。我が家でもサヤエンドウの苗を食べられてしまいました。おまけに庭中にフンをしていきました。それがとても臭いのです。我が家では対策としてキョンが庭に入れないように入り口にネットを張りました。それからは庭に入ってこなくなりました。
 もう一つ思い当たることがあります。キョンが庭に入るようになったのは犬がいなくなってからです。犬がいると野生動物が近づかないようです。
 キョンは元々日本人が中国から持ち込んだ動物です。繁殖力が強いので捕獲が追いつきません。根絶するのは難しいと思います。持ち込んだ動物をきちんと管理しないと後々困ることになるというよい見本です。いっそのこと、飼育して食用にしたらどうかと思う今日この頃です。※写真はネットから借用しました。

No.278
学校の健康診断

 学校の健康診断において医師が児童の下着を下着を引っ張って下腹部を覗いた、下着の下から下腹部に聴診器を当てたりしたとして保護者からこれを疑問視する意見が寄せられました。これに対して医師は診断の一環であり悪いことはしていないと反論しています。教育委員会は今後これら医師には学校検診から外れてもらうとしています。
 この問題に対する主な意見は次のようなものでした。
・医師として行った診断の一環だろう。
・陰部を見たり下腹部に聴診器を当てたりする必要があるだろうか。
・事前に保護者の同意が必要だろう。

 これに対して私は次のように考えます。
 第一に、陰部・下腹部の検査は学校の健康診断の検査項目にありません。従って陰部・下腹部に対する検査は基本的に不必要です。重大な疾病が疑われる場合に限り、児童生徒に充分配慮し同意を得た上で行うべきでしょう。
 第二に、「必要に応じて陰部、下腹部の検査をすることがあります」又は、「検査をご希望の方はお知らせください」等、保護者へのお知らせ文書に記載して周知すべきです。そのためには学校と医師が健康診断の意義や検査項目について事前に協議しておくことが必要でしょう。このような問題は学校にとっても医師にとってもプラスになりません。

 当初、私はこの問題についていささか猥褻的であると感じていました。しかし、医師として善意で行ったのだろうと今は考えています。一方的に猥褻的だと決めつけて責めるのは気の毒だと感じています。
 人権に関わる事柄に対しては以前よりも敏感な世の中です。かつては大目に見られたことでも、あっというまに大ごとになります。「李下に冠を正さず」といわれます。後先を考えて用心深くあるべきだと思いました。

※参考文献 文部科学省より
    「学校における児童生徒等の健康診断について 」
1.児童生徒等の健康診断とは
 ○ 学校教育の円滑な実施とその成果の確保に資することを目的とし、子供の健康の保持増進を図るために実施するもの。
 ○ 学校生活を送るに当たり支障があるかどうかについて疾病をスクリーニングし、健康状態を把握するという役割と、学校における健康課題を明らか にして健康教育に役立てるという、大きく二つの役割がある。

「内 容」
 学校では、毎年4〜6月の時期に年1回健康診断が行われる(学校保健安全法施行規則第5条)。
2.児童生徒等の健康診断における検査項目(学校保健安全法施行規則第6条)
1 身長及び体重
2 栄養状態
3 脊柱及び胸郭の疾病及び異常の有無 並びに四肢の状態
4 視力及び聴力
5 眼の疾病及び異常の有無
6 耳鼻咽頭疾患及び皮膚疾患の有無
7 歯及び口腔の疾病及び異常の有無
8 結核の有無
9 心臓の疾病及び異常の有無
10 尿
11 その他の疾病及び異常の有無

 〇健康診断の結果は本人や保護者に通知され、その際に疾病または異常の疑いが認められる場合は、医療機関への受診を勧める (健康診断票に病歴・受診結果等は記載されない)(学校保健安全法第12条)。
 〇健康診断は学校医、学校歯科医等が実施する(学校保健安全法施行規則第22条及び第23条)
2024年6月13日

No.277
PTAによる未加入家庭の差別について

 PTA会費によって購入した物品をPTAに未加入の家庭の児童には与えない旨を記した文書をPTA会長が家庭に配布したという記事を目にしました。例えばPTA会費で購入した防犯グッズや卒業証書を入れる丸筒はに未加入家庭の子には配らない等です。その他にも集団登校においても面倒を見ないというのもありました。このことについては賛否両論があるようです。
 PTA側にも相応の言い分はありますが、これについてはPTAの行動が間違っています。PTAに加入している家庭の子には特定の物品を与え、未加入家庭の子にはあたえないという差別行為は学校教育の目的から外れます。あってはならないことです。
 そもそもPTA会費は会員達のPTA活動のための資金として活用されるものです。PTA活動は学校の教育活動に協力するとともに学校と家庭との連携と相互理解をはかることを目的とします。従って、PTAは、学校教育に対するこのような逸脱行為をやめなければなりません。子どもに対する差別は家庭に対する差別であり人権上の問題です。
2024年5月31日

No.276
後ろでニャオンと子猫

 生け垣を剪定をしていると後ろで小さくニャオンと聞こえました。振り返ると小さなチャトラの子猫が座っていました。痩せこけておなかがペタンとしていて首のあたりが汚れていました。近寄ると車の下に逃げました。何か食べさせるものはないかと探しているうちにいなくなりました。ずっと先の方をよろよろと歩いているのが見えました。その先には猫好きの〇〇さんの家がある。きっと、飼ってもらえるかもしれないと思いました。夕方、散歩でそのあたりを通りましたが子猫はいませんでした。
2024年5月24日

No.275
ギャンブル依存症

 アメリカ大リーグ・ドジャースの大谷選手の通訳をしていた水原氏が賭博の借金の穴埋めに大谷選手の口座から24億5千万円を勝手に引き出していたことが明るみに出ました。水原氏はギャンブル依存症でした。競輪・競馬・ボートレース・オートレース・パチンコ等ギャンブルや娯楽とみなされるものはたくさんありますが、ギャンブル性の高いものもあります。
 以前は私はギャンブル依存症と聞いてもピンときませんでした。賭け事にのめり込んでしまう意志の弱い人、だらしのない人くらいにしか思っていませんでした。しかし、専門家によれば、ギャンブル依存症は病気であり、治療が必要だということです。賭博で勝てば、また次も儲けよう、負ければ次は取り返そうという連鎖の中でワクワクする気持ちを抑えきれないのでしょう。
 私はギャンブルとは無縁の人間ですが、学生時代にパチンコに夢中になったことがあります。パチンコは、初めはレバーを指ではじく方式、次には電動で玉を送り出す方式に変わりました。「釘師サブやん」という漫画があって、台の釘の読み方やレバーのはじき方によって勝負するパチプロの姿が描かれており、とても流行りました。
 当時の台は玉がチューリップに入るとチューリップがパッと開きました。そして開いたところから玉がたくさん入るのです。私はチューリップに玉が入る瞬間がうっとりするほど好きでした。
 使う金額は一回2000円までと決めていました。負けたこともたくさんありましたが、たまには当たり台にあたって儲けたこともあります。しかし、たいていはチョコレートをもらって帰ってきました。換金したこともありますが、せいぜい5千円くらいでした。蛍の光が流れるまでいたことが何度もありました。パチンコ屋にいると気分がウキウキ・ワクワクするのでした。
 パチプロとはパチンコを生業にしている人のことでギャンブル依存症とはちょっと違うと思うのですが、実際にこういう人たちもいたようです。こういう人たちは弁当をもって開店前から店の前に並んでいました。
 パチンコは、やがてチューリップの台が減少し、かわりにギャンブル性の強い台にかわりました。一発あたりが出れば大儲けできるかわりに、一回に使う金額が1万円、2万円は当たり前になりました。こんな知人がいました。5万円以上は使わないようにと財布を家に置いてきたのだが、負けてカッカして、財布を取りに家に戻ってしまい、結局、9万円使ってしまったそうです。よくそんなに金がありますねと聞いところ、あるところにはあるんだよと彼は答えました。
 私は今はパチンコを全くやりません。やりたいとも思いません。今は、オートバイに乗ったり、株の売買をしたりしています。より強く興味を惹かれるものがあるとギャンブル依存から脱け出せると言う人もいます。
2024年4月28日

No.274
柏市立小、部活動全廃へ

柏市は市立小学校の「特設クラブ(部活動に相当)」について2026年度以降に全面的に廃止する方針を固めたとの報道がありました。例年秋に開いていた「小学校陸上競技大会」「小中学校音楽発表会」についても今後は行わないとしています。主な理由は「時間外労働による教員の負担軽減」とのことです。(千葉日報2024年3月7日より)
 いよいよ部活動問題について舵を切る教育委員会が現れました。私はこれに賛成です。
 部活動は学校教育法、学習指導要領等法令等の法令に職務としての定めのない慣例的なものです。教育活動の名のもとに職務でない部活動が教員に強制的に割り振られ拒否することができません。
 学級担任を持つ教員はおよそ朝8時から帰りの会を終える時半まで児童生徒の指導にあたります。勤務時間終了の5時頃までには1時間半ほどしか時間がありません。この1時間半ほどの時間に明日の授業の準備をしたり校務分掌の仕事をしたいところですが、職員会議や出張、部活動等が入ってきます。結果、夜遅くまで残業したり、仕事を家に持ち帰ったりしています。業務量の増加に伴って教職員の病気休職の増加しています。
 教員志望者数が年々減少しています。少子化の影響もあるでしょうが、学校の労働環境の悪化により学校がブラック視されているのも要因でしょう。
 最近、日産が下請け企業への支払いを一方的に減額していたという記事がありましたが、これと同じようなことだと感じました。学校の場合には「子供のため、有効な教育活動である」という目くらましがあり、大目に見られてきました。しかし、法令に定められた職務で無いものを押し付けて教員の時間をかすめ取ることは法令違反です。この点を裁判すれば違法の判決が出るでしょう。柏市の取り組みに注目しています。
2024年3月15日
No.273
”たけのこ塾”の講師

 ”たけのこ塾”の講師を務めて10年になります。”たけのこ塾”とは、いすみ市で行っている小学校の放課後塾です。週一回、二年生から六年生を対象にした放課後に行われる一時間ほどの塾です。子どもたちが自主的に勉強する姿勢を育てるというのが基本理念であり無料で実施されてます。私たち講師は子どもたちにより添って質問に答えたり、行き詰まっている子を支援したりします。
 当初は、親に強制されてきたという子が多く、騒がしかったです。家庭にもたけのこ塾の趣旨が届いていませんでした。週一回の塾で何ができるのだろうと私も思っていました。
 このような騒がしい、別の言い方をすれば和気あいあいの塾でしたが半年すると子どもたちの様子が変わってきました。子どもたちが塾になじんできたのです。それに合わせるかのように学習に取り組む姿勢がよくなってきました。あたかも週一回の特別クラスとでもいうような感じでした。私の気持ちにも変化が起きました。それは自分がクラス担任をしているような錯覚とも言える不思議な感覚でした。
 二月下旬、”たけのこ塾”は終了の日を迎えました。私は子どもたちに一年間の労をねぎらう言葉をかけました。最後は全員によるお礼の言葉で解散しました。私は名残惜しそうに教室を出ていく子どもたちを見つめていました。
 急がず焦らず指導するうちに私と子どもたち、子どもたち同士の人間関係が醸成されて一つのクラスのように円滑に機能するようになりました。週一回のその場限りの関係だと思っていただけに感慨深いことでした。また、子どもたちとの触れ合いが持てるのは大変うれしいことでした。
2024年3月1日

No.272
40年間の逃亡者

 東京のビル爆破容疑で指名手配されていた男が40年間の逃亡の末、胃の末期がんで入院していた病院で本名を明かして自首しました。己の死が近いことを悟った上での自首でした。それから四日後に彼は癌によって死亡しました。
 このことについては、40年も逃亡した挙句の自首は虫が良すぎるとの批判が多数ありました。彼が法で裁かれるべきであったのは間違いありません。もっと早く自首して罪を償えば自由な生活に戻れたのではないかと私は思いました。しかし、本当にそうだったろうかとやがて考え直しました。
 刑務所を出て社会に戻っても犯罪者を雇ってくれるところはありません。仕事もなくホームレスになり、日々を生きるのがやっとの生活になったでしょう。これはほとんどの出所者が経験することです。高齢になった人は更に悲惨です。
 罪を償って刑務所を出ても地獄社会が待っている。40年間の逃亡は辛くはあっても、あながち間違った選択ではなかったのではないかと思いました。
 死ぬときは自分の本名で死にたかった、事件を起こしたことは後悔していると彼は言いました。心が休まることのなかった逃亡生活の辛さを思うとともに、彼なりに頑張って生きたのだと感じました。しかし、このような一生であったことをとても残念に思います。
2024年2月28日

No.271
モバイルWi−Fiを使ってみた

ソフトバンクAirを解約したのち、モンスターモバイルという会社と契約しました。この会社のモバイルルーターはmacaroon-se といいます。この端末はクラウド・シムといってsimカードを使いません。端末が自動的にAU、ドコモ、ソフトバンク等の適当な回線を選んでくれます。その分、接続が遅くなります。端末が回線に接続するまでに1分20秒ほどかかります。
 ここを選んだ理由は、月々の料金が安いことです。縛りなし(解約自由)で20Gでは税込2530円/月です。縛りあり(2年契約)の50Gでは税込2640円/月です。縛りなし20Gで具合がよければ途中から縛りあり50Gへ変更することもできます。私はこのプランでやることにしました。料金プランはこのほかにも各種あります。
 スイッチを入れたり充電したり少し面倒な所はあります。しかし、早目に端末を起動しておけばPC起動と同時に自動的に認識され、インターネットをすぐに使用できます。仕様によると、待機時間36時間、連続使用可能時間20時間、充電時間6時間です。
2024年2月4日

No.270
山本太郎氏の石川県地震被災地訪問

 被災地訪問の自粛要請が出されている折だったこと、炊き出しのカレーを食べたことが批判の矛先でした。
 しかし、山本さんの行動は決して悪いことではないと思います。カレーを食べたのも無理にお願いしたのではありません。お手伝いをしていた折にお誘いがあったので有難くいただいたとのことです。それに極寒の中で熱い食べ物がどんなに大切かわかったでしょう。被災地の状況、人々の苦労を肌で感じられます。山本さんはこの経験をきっと生かしてくれるでしょう。
2024年1月18日

No.269
小鳥へのプレゼント

 庭にメジロ、シジュウカラ、ジョウビタキ、ムクドリ、ヒヨドリ、ツグミなどの小鳥がやってきます。サザンカの蜜を吸ったり、花びらを食べたり、地面をつついたりしています。
 食べ物を探す小鳥たちを見ていて、餌をあげたらどうだろうかと思いました。試しに小鳥が食べそうなものを梅の枝につけてみました。柿、ミカン、夏ミカン、ゆず、むべ、バナナなど。一番よく食べたのは柿と蜜柑でしたが、ほかの物も食べました。リンゴの皮を刻んでまいておくとヒヨドリがひとつ残らず食べていきました。食べられるものは何でも食べていきます。食べ物が乏しい冬は小鳥たちにとって過酷です。
 今までは捨ててしまったものでも、小鳥が食べそうなものは残しておくようになりました。
2024年1月17日

No.268
電気溶接機でバイクのサイドスタンド修理

 バイクのサイドスタンドの基台がはがれてきて困っていましたが、この度、100V電気溶接機を買って、自分で修理することができました。すぐに使うことは無理なので、鉄板で溶接の練習しました。
 溶接する時にまぶしい光と激しい火花(スパッタ)が出るので溶接面をかぶります。初めは火花にびっくりしますが、恐れずに何度も練習しました。私はトーチの先から自動的に溶接のワイヤーが出てくる半自動という機能を使いました。
 20回ほど練習するうちにトーチを動かす速さや動かし方、電流の大きさをどれくらいにするかのコツをつかみます。後は実践あるのみです。
 緊張しながらなんとか溶接を済ませると溶接の跡がデコボコでした。しかし、見かけは悪いがしっかりと溶接できていました。自分で修理したサイドスタンドを眺めて満足感に浸りました。せっかく買った溶接機です。どんどん活用しようと思います。
2024年1月16日

No.267
ソフトバンクAirを解約

 ソフトバンクAirをを使い始めてから3年経ちました。これまで特別料金3190円/月でしたが、3年過ぎると5680円になるため、当初から3年目の解約を計画していました。3年目は途中解約になるために解約金が10450円かかります。しかし、5680円で一年間使うよりも出費が少ないのです。
 朝10時にすぐに電話で解約申請をしました。他の会社と契約していないかとか解約の理由は何かとか聞かれましたが、終活でインターネットをやめると伝えるとすぐに黙りました。あれやこれやで20分ほどかかりましたが、無事に解約できてすっきりしました。
 ソフトバンクAirに特に不満は無かったのですが、料金が跳ね上がるのが気に入らなかったのです。これからどうするのかというと、モバイルWi‐Fiを考えています。今、1社に絞って検討中です。ちなみにソフトバンクAirは1月31日まで使えるので、それまでに次への準備を整える計画です。
2024年1月14日

No.266
最低だった教職志願倍率

 2023年度は教職の志願倍率がこれまでで最低だったそうです。それに伴って小学校教員の不足が過去最大だそうです。
 こういうニュースを聞くと複雑な気持ちになります。というのも私もかつて公立学校の教員であったし、息子も大学卒業後に去年までの二年間、地元の小学校で講師をしていたからです。彼は今、ワークホリデーでカナダにいます。
 数十年前のバブル期には人が余っていて君らの代わりはいくらでもいると言われました。志願者が少ないのは単純に少子化のせいで労働人口が減ったためでしょう。
 学校の仕事は子供相手に何十年も同じことの繰り返しです。面白いと思うのは若いうちだけです。正直に言うとつまらないです。
 息子はというとそれなりの意義は感じていたようです。しかし、職務でもない仕事や多量の仕事を押し付けられて時間通りに帰れないことに嫌気がさしたようです。教職には戻らない覚悟だったようです。
 私も管理職時代に、毎晩遅くまで職員室に明かりをともしてやってもやっても無くならない仕事と格闘していました。よく生きていたと思います。同僚には精神に異常をきたす者、脳卒中や心筋梗塞で死亡する者、自殺する者もいました。
 人間関係も不健全でした。教員同士のいじめ、部下にセクハラ・パワハラする管理職等。
 退職して十二年たちます。また教員をやれと言われても断ります。息子は何かを敏感に感じ取って身を守ったのだと思います。
 難しいことは抜きにして、自分の経験から考えてみました。少子化による人口減少という極めた当たり前の結論です。なので今後も教職志願倍率の低下は続くでしょう。劇的に上がることはないと思います。
2024年1月4日

No.265
大谷さんドジャースへ

 大谷さんが約1000億円の契約でエンジェルスからドジャースへ移籍することになりました。10年間の後払いであり、これは大谷さんが提案したとのことです。  野球のことは分かりませんが、たとえ後払いであれ、これだけの金額を提示されれば、他の球団やファンは納得せざるを得ません。しかし、後払いというのは、架空の金額です。本当に手に入るかどうかは分かりません。10年後は世の中がどう変わっているか分かりませんから。
 いろいろ考えたのでしょう。これは大谷さんらしい選択であったと思います。大谷さんの野球への強い思いがそうさせたのだと思っています。ドジャースでの活躍を祈ります。
2023年12月13日

No.264
高齢者講習受講

 先日、運転免許更新のために高齢者講習を受講しました。講義と実技を含めて2時間で7000円でした。
 はじめに視野と動体視力の検査がありました。視野も動体視力も年齢なりの平均でした。自分でも視野が狭くなったと感じます。
 講義は、運転する時に高齢者が注意すべき事柄についてでした。高齢者は周辺の危険に気づきにくく、トンネルに入る時やトンネルから出る時に視力の回復が遅いのだそうです。
 次に実技がありました。指導員と一緒に教習車で教習所のコースを回ります。女性の指導員がずっと話しかけてきました。よくしゃべる人だと思いましたが、そういう状況でも止まれの標識に気づいて一時停止するかを見ていたようです。また、縁石に乗り上げてからブレーキをかけて止まるというのもありました。
 高齢者講習を受けてみるて、目の機能や身体の機能が衰えていることが分かりました。現状を知って安全運転を心がけることが大切だと思いました。
2023年11月29日

No.263
全国学力・学習状況調査について

「小中学生の全国学力・学習状況調査で「行き過ぎた事前対策」が指摘されている石川県で、全体の4割以上の学校で調査の直前に過去問を解くなどの対策をとっていたことが分かりました。」
 こんな見出しを見ました。 全国学力・学習状況調査の結果は毎年発表されます。そして成績上位の県が注目されます。このニュースでは成績を上げようと躍起になる学校現場の姿が浮き彫りにされました。しかし、これは当然の結果であり、行きつく先であると思います。
 教員の立場からすれば、自分のクラスの成績がよければ指導教員が優秀なのだと評価され優越感にひたれます。校長にしてみれば学校経営がよいからだと評価され鼻が高いのです。地域の教育委員会、県教育委員会も気分がよいわけです。
 他よりよく見られたいという欲望に支配されて本来の目的とは離れた方向に向かってしまいました。全国学力・学習状況調査のあり方を見直す時期に来ているようです。
2023年11月8日

No.262
通販の闇

 これはブログに掲載したものをそのまま転載したものです。

 9月16日Amazonで2870円でホンダのオートバイのキックペダルを注文しました。9月28日にキックペダルが届きました。予定より2週間早かったのでよろこんだのもつかの間でした。全く合わない違うキックペダルだったので即日Amazonを通じて返品と返金の処理をしました。返品先は〒135-0001 江東区毛利00000 shouyu zhang となっていました。郵送したので届いていると思います。送料が510円かかりました。いまだに返金がありません。C国発送で出荷元・販売元は0ldnsefです。Amazonでは出荷元と販売元が同じで海外発送という業者をよく見かけますが、気を付けた方がよいと思います。
 ちなみにYhooショップで見た同じ商品は4200円でした。ショップ名が違いますがC国発送でした。掲載されている写真が全く同じです。  以前、Amazonではありませんが、格安の草刈り機を買って騙されたことがあります。この時は銀行口座が凍結されて半年後に全額戻ってきました。通販を長く使っているとこんなこともあります。

[追記]2023.10.27
 先日、Amazonからメールが来ました。9月28日に返品リクエストがOldnsef認められたとのことです。Amazonの返品規定には相手に品物が返品され次第、口座に返金されるとありますが、10月27日現在も口座に振り込まれていません。品物は9月26日に即日返送してから戻されてこないので受け取られているはずです。結果を見届けるまで追記をUPします

[追記]2023.11.3
 昨夜、Amazonのカスタマーサポートに連絡を取ってみました。初めてチャットでやり取りしました。マーケットプレイスのOldnsefに連絡を取ってくれることになりました。チャット担当の熊さんが最後まで責任をもってサポートしますと言ってくれたので安心しました。

[追記]2023.11.3
 amazonから出品者のメールが来ました。商品が返品されてないとのことでした。早速、郵便局に確認すると宛先不明で深川局に保管されていることが分かりました。月曜には送り返してくれるそうです。それにしてもダウンロードした返送用宛先用紙を張って送ったのに宛先不明というのはおかしいです。いろいろ情報を伝えたので返事を待ちです。

[追記]2023.11.4
 ついに返事がきました。「全額返金には中国に返品する必要がある。国際物流の利用になるのでお客さんに迷惑がかかる。1500円返金するので返品はやめた方がよい。」という内容でした。中国の住所を見たとき、確かに手間と費用がかかると思いました。要するに、はなから返品や返金ができない会社なのです。しかし、返金ができないとamazonに対しても具合が悪いことになるので、このような妥協案を提示してきたのだと思います。これ以上関わっても埒が開かないので1500円を返金してもらい、商品はこちらで引き取ることで手を打ちました。
 amazonにはマーケットプレイスといって別の会社が多数出店しているので良く見定めることが肝要です。発送元がamazonでない場合は気を付けるべきです。ちなみに、この会社は今回の対応についてamazonの審査を受けるので返金までにあと三日かかると言っています。

[追記」2023.11.5
 以下は上記のメールの全文です。
「下記はうちのアドレスです。 宛先:oldnsef
住所:yong qiao qu ,jia le fu
シティ:su zhou
州:an hui
郵便番号:234000
国:china
電話:+8618205572643
 「全額を返金するなら、返品は必要になります。国際物流ですので、お客様のご迷惑になる可能性が高いので、1500円を返金させて頂き、返品しないのをお勧めします。 ご希望の処置を教えていただきます、ご返答をお待ちしております。 どうぞよろしくお願い申し上げます。」
「お客様、 ご返信ありがとうございます、我々が1500円を返金完了しました。
さて、返金処理は既に完了しましたが、現在アマゾンの審査を受け ないといけないので、約3日間で終了しますので、もう少しお待ちください。 アマゾン経由でお支払いただいたカードに返金致します。 お手数をおかけしまして、再度お詫び申し上げます。」

 オートバイのキックアームが壊れたのを修理しようとした結果、購入したキックアーム3本、購入にまつわるトラブル付きと、大変な目に合いました。幸い3本目がうまく改造できて装着できましたが、今後はもっと用心深くやろうと思います。通販の闇を覗きました。
2023年11月5日

No.261
教員不足は解消されるか

 「でもしか教師」という言葉が昔ありました。つきたい仕事がないから教師にでもなるか、教員にしかなるものがないという意味です。それほど教師の地位が低かったのだと思います。
 総理大臣に田中角栄さんという人がいました。角栄さんは小学校しか出ていませんでしたが、教師を大切に思う人でした。角栄さんは教員の給与を大幅に上げて待遇を改善したので教職ブームが起きて教職希望者が大幅に増えました。しかし、今は教員不足になって学校現場が困っています。
 千葉県教育委員会によると2023年9月1日現在、小学校が194人、中学校・高等学校合わせて89人の教員不足です。
 小学校教員になるには初等教育課程を経て小学校免許を取得しなければなりません。初等教育課程を持つ大学は増えてはいますが、卒業生全部が小学校教員を希望するわけではありません。中学校・高等学校は教科で採用しますから、教科に空きがなければ採用されません。もともと採用数が少ないのです。
 さて、時代は団塊の世代の時代から少子化の時代に移り変わり、人手不足の時代を迎えました。民間企業と学校とで人材の取り合いです。千葉県は他県にまで足をのばして教員を確保しようとしていますが、それでも必要数を満たせません。
 教員不足を解消には採用数を増やすしかありません。それには教員の待遇改善が必要であると思います。
 教職が不人気な原因の一つは教職のブラック化です。朝早くから夜遅くまで仕事をしなければならないほど仕事量が多いこと、土曜も日曜も休めない部活動などの問題です。数え上げればきりがありません。教員の心身が蝕まれ、病気や精神疾患による教員の休職が年々増加しています。
 原因の二つ目は採用の仕組みの古さです。かつては角栄さんによる待遇改善効果もあって希望者が大幅に増加しました。選り取り見取りで採用できました。しかし、少子化の時代を迎えた今、新しい採用方法が必要であると思います。
 以前、千葉県には教員養成所がありました。これは小学校免許を持たない人たちのために小学校免許を取得できるように配慮した学校でした。教員養成所を経て小学校教員になった人がたくさんいました。中高の免許しかない人と小学校を結ぶパイプがあるとよいと思います。
 三つ目は、採用の決定が遅いことです。長く待たされた挙句、採用されなかったというのではバカを見ます。採用面で民間企業に後れを取っています。
 一朝一夕にできることではありませんが、学校のブラック化の解消及び採用方法の改善に知恵を絞らなければならないでしょう。
2023年11月3日

No.260
通販でいまだに返金されず

 9月16日Amazonで2870円でホンダのオートバイのキックペダルを注文しました。9月28日にキックペダルが届きました。予定より2週間早かったのでよろこんだのもつかの間でした。全く合わない違うキックペダルだったので即日Amazonを通じて返品と返金の処理をしました。返品先は〒135-0001 江東区毛利00000 shouyu zhang となっていました。郵送したので届いていると思います。送料が510円かかりました。いまだに返金がありません。C国発送で出荷元・販売元は0ldnsefです。Amazonでは出荷元と販売元が同じで海外発送という業者をよく見かけますが、気を付けた方がよいと思います。
 ちなみにYhooショップで見た同じ商品は4200円でした。ショップ名が違いますがC国発送でした。掲載されている写真が全く同じです。
 以前、Amazonではありませんが、格安の草刈り機を買って騙されたことがあります。この時は銀行口座が凍結されて半年後に全額戻ってきました。通販を長く使っているとこんなこともあります。
2023年10月19日

No.259
ヘッドライトを点灯して走行 

 私のバイク、ハスラー125−75年式は、ヘッドライトを点灯しなければバッテリーが充電されないことが分かりました。最近、配線を点検していて気づきました。バッテリーが上がりやすかったので、ヘッドライトを点灯させて走ってみることにしました。結論として、ヘッドライトを点灯して走行しても問題はありませんでした。普通に走れました。ライトがついている分、安心感が増しました。ただし、ライトを点灯するとアイドリングが下がるので、アイドリングを高めにせ設定しました。
 ところで、今度はエンジンの始動する時におかしな癖がでました。始動時に限りエアスクリューを半回転ほど開いて空気を多めにしないと始動しにくいのです。以前はなかったことです。キャブをバラして点検しないといけないようです。次から次へと問題が発生して底なし沼から抜けられません。しかし、急ぐことでもないのでゆっくりと解決しようと思います。
2023年10月14日

No.258
ハスラー125−75年のバッテリー充電とヘッドライト

 私のハスラー125−75年式のバッテリーが減りやすいので、充電されていないのではないかと疑いました。整流器(レクチファイヤ―)の電圧を計ってみると電圧がかかっていない(電流が流れていない)ことが分かりました。配線をたどってみるとヘッドライトをおONにしなければ整流器に電流が流れない仕組みになっていることが分かりました。
 道路運送車両法の改正により1989年からオートバイは安全性向上のために昼間でもライト点灯が義務付けられました。しかし、1989年以前に製造されたオートバイにはこの義務はありません。私のハスラーはレストアの際に改良されたものと思われます。ちなみにエンジンが動いていなければヘッドライトは点灯しないのでバッテリーが消耗する心配はありません。
 バッテリー充電と安全のために昼間もヘッドライトを点灯することにします。
2023年10月12日

No.257
世界に立った一台の自分のバイク

 外作業が気持ちよくなったので、バイクの整備に力を入れました。私のバイクは ハスラー125 75年式です。
@ このごろタイヤの空気が少しずつ抜けました。多分、以前の修理箇所が緩んだのではないかと思いました。そこでボンベ式のパンク修理剤を使いました。バルブにつないでボタンを押すとシューッと修理剤が注入されました。タイヤの7分目ほどまで入れて終了しました。タイヤを回すともっと膨らむからです。非常に簡単でした。タイヤを回転させてから念のために一晩おきました。空気はもれていませんでした。
 タイヤを外してチューブを交換するのはとても大変です。簡単に済ませることができて良かったです。
A ギヤオイルの交換しました。入れたのはヤマハの2ストギヤオイルのヤマルーブです。これは具合がいいのでずっとこれにしています。オイルは上(オイル注入口)から抜きました。シャンプーのポンプで作ったオイル抜きポンプを使いました。これがうまく使えたので最高です。
B LEDウインかランプを修理しました。これは以前作ったものですが、この頃、点滅が悪くなったのでばらして組み直しました。はんだ付けをしっかりとやり直しました。LEDダイオードの配置も変えました。確実に点滅するようになったのでうれしくなりました。
C キャブのシリンダピストンの高さを微調整しました。始動性がよくなったし、アイドリングが安定しました。こんな簡単なことでここまで変わるんだとびっくりしました。

 オートバイに気持ち用乗るためには日ごろの整備が大切です。小さなことでも軽んじないで手間暇かけて世話をすることです。こうして世界にたった一台の自分のバイクに育ちます。
2023年7月9日

No.256
カブトムシとオオスズメバチ

森を歩いていると足元に黄色い蜂がいました。よく見るとオオスズメバチでした。大きな体が飛んだり止まったりしていました。目を凝らすとコナラの木の根元にカブトムシが3匹いて樹液を吸っている最中でした。カブトムシは雄が1匹、雌が2匹でした。オオスズメバチは割り込もうとしますが跳ね除けられてしまします。この攻防をしばらく眺めていました。それにしてもまだ6月半ばです。こんなに早くカブトムシを見たのは初めてでした。
2023年6月18日

No.255
145 部活動訴訟への追記 勝訴するためには

「追記」
 今回の部活動訴訟は敗訴という結果でした。私は、時間外勤務の違法性を争点にしたことが敗因であると分析しました。
 部活動は法律上の規定がない、教員によるボランティア扱いですから、そもそも勤務とみなされないのです。まして残業代を請求する根拠がありません。ではどう対処したらよいのでしょうか。打開の鍵は部活動の起源にあります。部活動は元々、教員の善意による奉仕活動ですから、教育基本法・学校教育法・学校教育法施行規則などにも定めがありません。そもそも学校は部活動を行うべしとの規定が存在しないのです。早い話が教員の遊びと言ってもよいものです。なので本来は勤務時間外に行われるべきものです。
 従って、これがあたかも勤務として扱われて強制されるのは違法なことです。です。
 従って、教員に部活動を強制するのは違法であること(教員は部活動に従事しなくてもよいこと)、部活動に従事するしないは教員の自由判断にゆだねられることを判決として勝ち取ることが先決です。この判例があれば部活動を強制されたり、部活動を拒否したことによって不利益をこうむったりした場合には訴訟を起こして勝訴することができるでしょう。
 部活動問題は学校に絡みついた厄介な問題ですが、早急に正常化すべきでしょう。
 ところで私が居住する田舎では少子化が深刻になり小中の統廃合が進んでいます。生徒数減少によって既存の部活動が存続できなくなり消えています。遠からず部活動は地域への移行が必須となるでしょう。時代が大きく変化した現在、文科省が考えを改めて未来に向かって大きく舵を切らなければ、更なる混乱を招くことになるでしょう
2023年6月16日

No.254
190 退職の黙示録Uへの追記


 退職からあっという間に11年が過ぎました。これを機に教頭試験と校長試験で経験したことをもう少し詳しく書き残したいと思いました。すでに関係する人もいなくなった思います。
「教頭試験」
 私は教員になったのが他者より5年遅かったのでかなり遅れをとっていました。さすがにこれではいけないと思いあちこちに頭を下げて回り、愛想笑いもしました。これを最後と臨んだ試験で集団討論・ペーパー試験・面接をクリアして奇跡的にパスすることができました。私が教頭になった時、誰もが驚いたそうです。
 試験に何回も望むうちには、胸糞悪くなる面接がありました。当時私は夷隅郡の視聴覚教育センターという部署に努めていました。ここは学校に籍を置いたまま出向した形になっていて、このことは県に対しては内密であり、ばれたら大変なことになります。視聴覚教育センターは周辺のいくつかの町と共同で運営されていました。ここに1年間勤めたころ、財政難を理由に視聴覚教育センターを縮小する流れになりました。このあおりで私は隣町のO中学校と視聴覚教育センターを兼務することになってしまいました。これが教頭試験の面接に思わぬ影響を及ぼしました。某面接官が「中学校を1年で異動していますがどうしてですか」と質問したのです。「視聴覚センターにいるからです」とは答えられないので四苦八苦しました。おそらく何か問題のある人物に違いないと怪しんだのでしょう。運が悪いことに次の年にもこの面接官に遭遇しました。私は意を決して校長ににこのことを話しました。すると翌年は、この人物は面接官から外されていました。しかし、部屋の奥で疑り深く私を見つめていました。
 この面接ではこんな質問がありました。
「児童生徒の登校についてはどんな法律によって定められていますか」
実は、どこからを登校とみなすかについて直接に定める法律はありません。学校保険関係の法律で救済を目的にして幅広く登校時と認めているものがありますが、どこからが登校になるのかは、実際には判例によって決まるのです。なので登校途中空とか校門を入ってからとかいう決まりはありません。
「どこからを登校とみなすかを定めた法律はありません。それは判例によって決まります」
このことについては関係する法律を詳しく調べてあったので自信をもって答えました。そんな答えが返ってくるとは思はなかったのでしょう。面接官は目を白黒させていました。これが最後と思って思い切りやろうと思っていました。
 先輩教員のことで、こんなエピソードを耳にしたことがあります。面接で面接官から「あんたは実力で来ているのではないのだから・・」と言われたというのです。さもあらんと思いました。こういうのは初めから出来レースなのです。
 ともあれ成績が良かったのと根回しが効いたのか、奇跡的に教頭試験を突破することができました。ここに至るまでには何年にもわたる苦難の日々がありました。
 「校長試験」
 さて、教頭になってから数年がたち、「校長試験」に挑戦することにしました。しかし、この数年間に試験のシステムが変わっていました。県内の各地域にできた教育事務所が選考にあたりプレ選考を行うことになりました。この制度は私にとって大きなマイナスになりました。つまり、出来レースにのっていない人間は、ここではじかれてしまします。元々は選考の簡素化を図る目的があったのかもしれませんが、こんなふうにも使えるわけです。それでも何度か挑戦しましたが、一度もパスすることができませんでした。仕舞には、よほど成績がよくない限り合格できないよと引導を渡される始末でした。努力による一発逆転はなりませんでした。
 学校を退職して11年たった今、当時とは事情が大いに異なります。団塊の世代が大量に退職して教員不足の時代に突入しました。特に管理職になる世代が不足しており、短い期間で教頭・校長へと昇任するようになりました。背に腹は代えられないのでしょう。私たちの時代とは大違いです。
 私も心に悔いが残りましたが、不利な条件の中でも、できる限りのことを精一杯やったという自負があります。
 現在、小学校で放課後塾の講師をしていますが、当時仲間だった人たちが教頭・校長になっており大変良くしてくれます。私は下の人達をいつも大切にしていました。そのおかげだと思います。
 人生を長いスパンで考えると教員生活はほんの一時のことにすぎません。人生は退職後も長く続きます。
 さて、校長になった人たちは十中八九、心を病みます。自分が何か特別な存在であると錯覚して精神が変質してしまうようです。かつての仲間が人を見下すようになったり威張りちらしたりするようになったのを何度も見てきました。なかにはストレスのせいか心の病が重くなり退職した人もいました。変質した心は元には戻らないようです。
 私がかつて管理職選考に備えて私的な研修を受けた時のことです。校長経験のある講師からこんな話を聞きました。
「校長をやると命が縮みます。私はは先生方がすぐお茶するのが許せなかったのでお茶するのを禁止しました。ある時、私がが出張したすきに先生方がお茶をしていたのです。それを知った時、私ははらわたが煮えくり返りました」
 ※お茶するとは休憩時間にお茶を飲みながら話をすること。小学校ではよくありました。
 この話は校長が心を病んだ一例として今も心に残っています。校長になると職員の一挙手一投足が気になって仕方がないようです。

 当時は腹立たしくも思いましたが、退職から長い年月を経て、ようやく当時のことを一歩離れて冷静に見られるようになりました。今だからこそ感じられる自分の思いを素直に書いてみたくなりました。
2023年6月15日

No.253
2023年から2025年までの世界を大予想

 過去にノストラダムスの大予言関連でHPに記事をあげていますが、それから数年時代が進んだので、改めて今後の世界を予想してみることにしました。あれからコロナは弱まったとはいえ未だに収まっていませんし、ロシアによるウクライナ侵攻は深刻度を増し世界に深刻な問題を引き起こしています。  ノストラダムスの大予言に「1999の第7の月に空から恐怖の大王が降ってくる」という一節があります。この部分は1999年の7月に何かとんでもない災いが人類に降りかかるというのが大方の解釈でした。しかし、何事もなかったのでノストラダムスの予言が外れた、でたらめだということになりました。
 ノストラダムスの予言の詩には、何年何月にどこで何が起こると具体的に記したものはありません。著しく表現が著しく比喩化されているので、およその時代と出来事が推定できるだけです。それだと思える出来ごとは世界中にいくらでもあるようです。そんな中で恐怖の大王の詩ははっきりと数字が書かれている珍しいものです。
 私はコロナウィルスを恐怖の大王と考えて「1999の第7の月に空から恐怖の大王が降ってくる」の予言の詩に独自の解釈を加えました。つまり、1999年とは今の西暦のことではなく、終末までの2000年を単位とした期間のことだと考えました。そして7の月から12の月までが残りの期間です。従って7の月をコロナが発生した2019年とすれば12の月が2024年となり、2025年に終末を迎えることになります。以上が私が考えた終末へのタイムテーブルです。
 2022年2月24日にロシアがウクライナ領に侵攻して戦争がはじまりました。戦争は2023年6月現在も継続中です。この戦争が歴史の大きな転換点へと徐々に進んでいるとは誰も考えないでしょう。この戦争は来るべき終末への序章です。
 ロシアは崩壊に瀕して核兵器を使うでしょう。これを機にNATOの欧米諸国は本格的にロシアへの攻撃を始めるでしょう。NATOも核を使うかもしれません。ロシアの崩壊に焦った中国は軍を動かしてロシアを助けようとします。ロシアが崩壊すれば中国は孤立し次の矛先が中国に向かうと考えるからです。
 これらのことが2023年後半から2024年に起こると予想します。私たちは無事に2025年を迎えることができるのでしょうか。
 予想が外れてしまって「なんだ外れたじゃないか、アホくさ」で笑って済むのが一番よいと思います。そうなることを願っています。
 予言ができる人は誰もいません。東日本の大震災を予言した人は誰もいませんでした。しかし、大地震や大津波の発生を予想することはできました。従って未来を予想し、できるだけ被害・損害を防ぐように対応を考えるのが今の私たちにできる最善の策であると考えます。
2023年6月12日

No.252
桑の実でジャム

 黒く熟したおいしそうな桑の実を妻と摘んできました。3時間ほど濃い塩水につけたのちに軽く水洗いして生食してみました。ほのかな甘みと香りがありました。残りは妻がジャムにしました。濃い赤紫色はブルーベリージャムと同じです。ジャムにはプルーンのような風味がありました。
 家の周辺には桑の木がたくさんあります。小鳥が作った果樹園です。木によって実が大きいものと小さいものとがあります。今回は実が大きい木から摘み取ってきました。次は桑の実で果実酒を作ってみようと計画しています。
 ところで桑の身にはアントシアニン(ポリフェノールの一種)やカリウム等が豊富で健康によいそうです。桑の実をたくさん食べた翌日に身体が軽いと感じたのは気のせいばかりとは言えないようです。
2023年5月28日

No.251
教員不足の原因は何か

 時々教員不足の記事を見かけます。若者たちが学校の労働条件をブラックであると敬遠しているからだそうです。私もはじめはそう思いました。実際教職は多忙です。小学校だと担任をすれば6時間から7時間は学級運営に費やします。授業をすることが本務ですからこれは仕方がありません。3時半に子供たちを下校させてから4時45分の退勤時刻までには75分しかありません。この間に下校指導、保護者対応、部活動、職員会議、その他校務分掌があったらどうでしょう。授業の準備ができるでしょうか。小学校は土日が休めるのでまだいいほうですが、土日にも部活がある中学校教員は休むことができません。こんな状態ですから学校がブラック職場だと敬遠されるのは当たり前です。
 しかし、教員不足の根本的な原因は”少子化”であると私は考えます。就職をする若者が減るにつれて教職希望者も減ったのです。そういった社会の変化に学校制度が対応できないのだろうと思います。
 私の世代が教員になったころは団塊の世代の終わり頃でした。教員希望者があふれており完全に買い手市場でした。嫌ならやめろ、代わりはいくらでもいるという上から目線の狭き門でした。しかし、少子化の時代が訪れて学級数が減少すると教員も減らされて学校はどんどん多忙になりました。新しい教科の導入がさらに追い打ちをかけました。採用数が減ると学校は慢性的に教員不足になりました。産休や病休で先生が長期に休むときに代わりの先生を探しても見つけることができません。
 ネット社会になり若者たちは職場としての学校を厳しい目で見ています。少子化は今後も続きます。制度が改革されて魅力的な職場にならなければ負のスパイラルが続くと思います。
2021年5月7日

No.250
息子 カナダでの暮らしに災難

 ワーキングホリデーを利用して息子がカナダに行っています。2か月間はバンクーバーの語学学校に通います。その間の宿泊先は学校が選んでくれた二食付きのホームステイです。しかし、ここで問題が発生しました。60歳くらいの一人暮らしのおばあさんがやっていますが、このおばあさんが怠け者でケチのようなのです。朝まで寝ていて朝食を用意していなかったり、何とか用意してもカップケーキにジャムだけだったり。送ってくれた写真を見るとおやつの様な朝食でした。それを置いて彼女は仕事に行ってしまったそうです。これはひどいと思いました。ある時、夕食の時に部屋の電気を消し忘れたところおばあさんが大怒りしたそうです。そして部屋のスイッチに詰め物をされたそうです。このような状況を見ると嫌がらせをされているとしか思えません。息子は宿泊先を変えてくれるよう学校に相談しています。
 先日、ネット記事でワーキングホリデーのトラブルが紹介されていましたが、このような宿泊先とのトラブルもあるので気を付けなければいけません。こんな時にどう対処するかも考えておかなくてはいけないと思いました。  ちなみにホームステイ先はバンクーバーまでバスで50分かかる田舎です。家賃は月12万円です。
2023年5月5日

No.249
雉の巣を見つけた

 四月下旬に畑地の草刈りをしました。セイタカアワダチソウが大きくなると厄介です。早目に刈ってしまおうと思いました。
 畑の隅の枯草の山に刈り払い機の刃を滑らせた瞬間、茶色い小さな生き物がとことこと逃げていきました。よく見ると雌の雉でした。羽が薄茶色で鶉くらいの大きさでした。枯草をそっと押しのけると巣がありました。薄青色の卵が13個きれいに円く並んでいました。卵を温めていたのでした。雉はぎりぎりまで我慢していたのでしょう。また枯草をかぶせておきました。雉を傷つけなくてよかったと思うと同時に、雉がまた戻ってくるだろうか、巣を放棄してしまわないだろうかと心配になりました。家に帰ってそのことを妻にも話しました。ずっと雉のことが気がかりでした。
 数日後、再び草刈りに行きました。作業後に例の雉の巣を見に行きました。覆いかぶせた枯草のわずかな隙間から薄茶色の羽が見えました。卵を抱いていました。安心しました。これで無事にヒナが生まれると思いました。かわいいヒナの誕生が楽しみです。
 この辺りでは雉のつがいをよく見かけます。耕作放棄地が増えて藪になったところに雉が住み着いて繁殖しています。
2023年5月3日

No.248
教員免許取得未確認で新卒を採用

 この度、都教委で教員免許を取得できていない新卒を採用して小学校1年生の担任にしてしまったという事故がありました。通常、教員採用では教員免許取得見込みで応募します。採用の段階で教員免許を取得したかどうかを確認しますが、都教委がこの確認を怠りました。採用後に単位不足で教員免許が取得できなかったことが発覚し、都教委ではこの者を免職にしたとのことです。採用の手続きをきちんと踏んでいれば起こりえない事故でした。
 ところで最近は初等教育課程を持つ大学が多くなって小学校免許を持つ者が増えているはずです。しかし実態は、教職に就く者は少ないようです。それで小学校教員の不足が解消されないのかもしれません。新卒を一年生の担任にしてしまうあたりに、こういった背景が影響しているのかもしれないと思いました。
2023年4月26日

No.247
成田空港で息子を見送った

 朝、私と妻、息子の3人で成田国際空港に向かいました。ナビの指示通りに無事に空港の第一ターミナルに到着しました。お昼は空港内の和食レストランで蕎麦を食べました。3人で昼食を食べる平和な時間でした。みんなで食事をすることを私はとても大事にしています。人生の節目にはいつもそうしてきました。ともに食事をすることで互いの絆が深まるからです。そしてその時間は二度と戻らないからです。
 昼食後は、買い物をしました。息子はホームステイ先へのお土産を買い、私は家族用に「おたべ」と「ごまたまご」を買いました。30分ほどそうして過ごしたのち息子は搭乗口へと向かいました。彼は一度振り向いて手を振りました。私たちはその姿が見えなくなるまで見送りました。夜は娘と夫婦だけの静かな夕食になりました。
 翌日の朝、庭では夏ミカンの花が昨日と同じように爽やかな香りを放っていました。今日からは息子を呼ぶ妻の大きな声が聞こえません。7時46分頃に"ようやくカナダについた"とメールがあったのでホッとしました。昨日まではここにいたのに今日はカナダにいるのかと不思議な気持ちでした。そして再び自分の時間が動き始めました。
2023年4月23日

No.246
息子がカナダへ旅立つ

 明日いよいよは息子がカナダに出発する日です。まだ先のことと思っているうちにとうとう明日になりました。不安と寂しさを感じます。
 息子は2年間公立学校小学校の講師をしながら、中学校で英語の採用を目指していました。しかし採用にならず、また、部活動のあり方にも疑問を感じることがあったようで教職を諦めました。まだやりたいことがあったようで、ワーキングホリデーを利用してカナダに向かうことになりました。
 父としては教職で落ち着いてくれたらよかったと思いますが、こればかりはどうしようもありません。一度限りの人生です。悔いの無いように生きてほしいと願うばかりです。
 私は会社を辞めて教員になりました。以前からやりたかった生物学を勉強するという一大決心でした。苦労しましたがやり遂げました。
 教職の世界は私がいた会社と比べると20年くらい遅れていました。土曜も日曜もない部活動にも悩まされました。しかし、後がなかったので頑張りました。
 自分が生きた時代と今は時代が大きく異なります。今は自由に海外で学んだり働いたりできるグローバルな時代です。私の学生時代とは雲泥の差です。息子がやろうとしていることを否定することはできません。人生は生きてみなければ分かりません。これが私の実感です。
 明日成田から飛び立つ息子。無事についてほしい、無事に過ごしてほしい、無事に帰ってきてほしい、願うのはそればかりです。明日は私と妻が成田空港まで車で送ります。無事に送ろうとナビを設定しています。
 私は昨年心筋梗塞を起こしました。二度目は死ぬだろうと不安な日々でした。これが息子との永久の別れになるような気がしてなりません。息子の旅立ちを寂しく思うすっかり気弱になった自分がいます。
2023年4月21日

No.245
WBCに感謝

 WBCは日本中が盛り上がりました。私は普段は野球を見ませんがWBCはずっと見ました。なぜかというと大谷選手を見たかったからです。大谷選手はメジャーリーガーとして活躍中です。彼のプレーを見ていると気持ちがよくなります。東洋人離れした体格と卓越した運動能力、それに人柄のよさ。彼がいなければWBCをこんなに見ることはなかったと思います。
 侍ジャパンは決勝まで無敗で進みました。これは予想外でした。そして決勝の9回裏、ストッパーとして大谷選手がマウンドに立ちました。大谷選手のユニフォームは泥だらけでした。この姿は神々しく感じました。最後の一球がギューンとトラウトの外側に弧を描くのが私にも見えました。同時にトラウトのバットが思い切り振られました。しかし、ボールはバットの先に一個分離れているように見えました。日本が優勝を決めた瞬間でした。
 私にとってこの3年間はコロナのワクチン接種、股関節手術、心筋梗塞、大腸ポリープ手術と大変なことばかり続いていました。そんな中、侍ジャパンのWBC優勝には心が温まりました。
2023年3月28日

No.244
遠い昔のいじめの記憶

 いじめと言ってもいじめられたのではなく、いじめをした方です。中学校に入学して間もなくのこと、登校すると担任のM子先生に呼ばれました。そして「A子さんが私と廊下ですれ違うたびに汚いだのノミだのと言われて嫌だと言っています。A子さんが嫌がることを言ってはいけません。」と穏やかな口調で注意されました。M子先生は生徒たちから信頼されている優しい先生でした。私はA子がそんなことを言ったのかと戸惑うと同時に少し腹が立ちました。
 A子は小学校からの同級生でした。少し発達の遅れがありました。それで小学校の時には友達と一緒になってよくからかいました。中学校に入学してからも同じようなつもりでからかいました。大方のいじめはこのようなものなのでしょう。いじめる側はそれがいじめだと気づかずに面白がっているのです。しかし、いじめられる側は本当に苦痛なのです。
私は先生の話を聞きながらどうしたものかと考えました。そして、まずは先生の言うことを聞こう、A子と廊下で出合っても知らんふりをしようという方針を立てました。
 その日、A子と廊下で出合いました。A子はまた何か嫌なことを言われはしないかと身構えましたが、私は何事もなかったかのように黙って通り過ぎました。そんなことが何度かあり以後は何の問題もなくなりました。その後、私は父の仕事の関係で転校してしまったのでA子とのかかわりは全くなくなりました。
 それから30年後、私が勤務する学校の階段のおどり場で偶然にA子と再開しました。A子は子供のことで来ていたようです。A子は私との再会を大変喜んでくれました。後に菓子折りを持ってきてくれたほどです。なぜA子はこれほどまでに喜んでくれるのかと少し戸惑いましたが、その時は深くは考えませんでした。
 それからまた数十年が過ぎ、何かのきっかけで急に遠い昔のいじめの記憶がよみがえりました。そして色々考えました。今ではこう思います。先生はA子を守ったと同時に私を守ってくれたのだと。私が転校してA子は寂しかったのではないかと。想像が膨らみました。
 何十年たっても心に残っているものがあります。普段は全く忘れていても、ある日突然、鮮明に然思い出すことがあります。心の働きは全く不思議です。
2023年3月21日

No.243
戦争の残り香

[はじめに]
 子どものころは戦争の余波というか戦争の匂いがまだ残っていました。その匂いは否応なく体にしみついてくるものでした。そのせいか子供のころから戦争にとても興味関心があり,戦争に関する本をたくさん読みました。
 「母と忘れな草」を書いたのを機に子どものころから戦争について見たり聞いたりしたことを掘り起こしてみました。その断片をつなぎ合わせると自分なりの戦争像(観)が浮かび上がるだろうと思ったのです。「戦争の残り香」という題にはそんな背景があります。

「双胴の飛行機」
 習志野に住んでいた3〜4歳ごろのこと,早朝に家の外から不思議な音が聞こえてきた。窓を開けると遠くの丘の上のまだ薄暗い空に,こちら向かってゆっくりと飛んでくる飛行機が見えた。それは黒いシルエットだった。その飛行機の胴体は二つあって一つの翼でつながっていた。丘の上には高い鉄塔がいくつかあった。不思議な形をした飛行機が頭上を飛び去るまで見ていた。※写真はネットより借用

「二十四の瞳」の思い出
 この映画を見たのは小学校3年生くらいの時の巡回映画でした。近くの映画館まで全校児童が歩いていきました。
 白黒の映画でした。公邸に桜が満開だったシーンを覚えています。私の小学校も木造平屋の校舎で公邸の周りには桜の木が多かったので,このシーンに親しみを感じました。子供たちと若い大石先生の学校生活や泣きながら遠い大石先生の家まで歩く子供たち,戦争が終わってから開かれたクラス会での再会,特に失明した子がまるで見えているかのように写真をなぞるシーン,おなかをすかせたわが子がカキの実を採ろうとして木から落ちてなくなったシーンなどが心に残りました。
 私が教員になってからもずっと心にとどめていた映画であり,いつかは教え子の子どもに出会いたいと思っていました。この願いは後に実現しました。
 私の母は大石先生同様戦中戦後を教師として生きました。大石先生の姿が母と重なりました。「二十四の瞳」を読んだ感想を話してくれたのも思い出です。

「兵隊さんがいた教室」
 大多喜町立大多喜小学校の旧校舎は木造平屋であった。4年生の教室は少し離れていて廊下でつながっていた。そこは戦争中に兵隊さんが駐留していたという。カーキ色の服を着た兵隊さんが出入りする姿を思い浮かべた。

「校舎の外壁の穴」
 校舎は南京下見の板張りの外壁であった。その一部に細長い裂け目のような穴があった。何か硬くて鋭いものが斜めに突き抜けたようだった。あれは機銃弾の跡だと友達が教えてくれた。アメリカ軍機が機銃掃射をしていく様子を想像した。こんな田舎の小学校まで攻撃の対象になっていたのだ。

「橋の欄干の弾痕」
 大多喜町の隣町の国吉に鉄の橋があった。その欄干に気銃弾の穴があるから見に行こうということになった。子どもら4,5人で自転車でえっちらおっちら出かけた。国吉までは一本道で,当時は自動車も少なく信号もなかったのでまっすぐ進めばよかった。しかし,当時の道路は砂利道でえらく疲れた。やっと橋にたどり着いた。みんなで身を乗り出して覗き込んだ。鉄の橋げたにはいくつも穴が開いていた。機銃弾が貫通した穴だった。橋を通る車や人が攻撃されたのだろうと思った。

「機銃弾を探しに行こう」
 5年生のときだったか,機銃弾を探しに行こうということになった。町をぐるりと巡って川が流れている。川岸の所々に断崖がある。その断崖を戦闘機の射撃訓練の標的にしていたのだという。だからそこには弾が刺さっているはずだというのだ。そこで大多喜高等学校近くの川岸の崖にみんなで出かけた。崖を降りることになったが,弾を探すどころではなかった。必死に草をつかんで足場を探した。怖くて足がすくんだ。やっと下につくといたときにはホッとして体の力が抜けた。結局収穫はなかった。

「友達が見せてくれた弾丸」
 問題になるといけないので詳しいことは控える。6年生の時だった。あるとき友達が教室で弾丸をそっと見せてくれた。それは銅色をしていて先のとがった弾頭だった。底には鉛らしい金属が詰まっていた。子どもの掌の上では大きく感じた。たぶん小銃弾の弾頭だったのだろう。箱に入ったたくさんの銃弾が縁の下にあったという。しかし、しばらくすると無くなっていたそうだ。※写真はネットより借用

「においガラス」
 6年生のときだった。少し厚いガラスの破片のようなものを持ってきた子がいた。これをこするといい匂いがするよと言った。ズボンでこすると爽やかな香りがした。ガラスではなく透明なアクリルのような感じだった。たぶん戦闘機の風防ガラスの破片だったのだろう。空中戦で戦闘機が墜落したという記録もある。後年,風防ガラスの破片を「においガラス」というと聞いた。※写真はネットより借用

「松根油」(しょうこんゆ)
 町はずれの小高い丘に大多喜女子高等学校があった。小学生のころは,ここのグラウンドでよく野球をした。校舎周辺には太い松の木が何本もあった。松の木の幹にはV字型の大きな傷がいくつもついていた。飛行機の燃料にするために松脂(マツヤニ)を集めるためだった。だが,松脂からガソリンを作ることはできなかったようだ。当時,松根油を作るために松脂をとったのだと聞かされたが,松根油は松の根を乾溜して作るものであって全く別物だった。松の木は今は一本も残っていない。

「飛行機から投下された通信筒」
 子どものころ母から聞いた話だ。町はずれのある家の上空に飛行機が飛んできた。そして操縦席から通信筒が投げ落とされた。出撃前に恋人にお別れに来たのだと母は言った。通信筒を投げ落として飛び去って行く飛行機を思い浮かべた。通信筒を落とした人の気持ちと受け取った女性の気持ちを想像するととても寂しい気持ちになった。

「ドングリの粉の配給」
 戦争中は食料が配給だった。そして物資が乏しくなると食べるものがなくなった。食べ物がなくて誰もが痩せこけていた。そんな食料難の折,ドングリの粉が配給になった。
 「ドングリの粉が配給になったけど苦くて食べられなかった」と祖母が言っていた。
 シイやマテバシイ以外のドングリは苦くてそのままでは食べられない。水にさらしてあく抜きをして食べることを知らなかったのだ。
 その他に,竹を煮て食べようとしたが硬くて食べられなかったことや食料の買い出しに出てやっと手に入れたお米を列車の臨検で没収されてがっかりしたことも話してくれた。
 祖母は若いころ東京の「小村寿太郎」氏の屋敷で奉公していたという。そこでは「うめ」と呼ばれていたそうだ。ちなみに本名は「もと」だ。奥様から「うめは品がよくていいねえ」と言われたことを時々うれしそうに話した。

「馬の供出」
 これは祖母から聞いた話だ。祖父が軍に馬を供出するために東京まで馬をひいて行った。千葉県の大多喜町から東京まで3日かかったそうだ。馬をひいて歩く祖父のうしろ姿が目に浮かんだ。戦争に行ったのは人間ばかりではなかった。そののち馬はどうなったのだろうか。

「人間魚雷回転を格納した崖の穴」
 小学4年生ときの夏休みに東京から親戚家族がやってきた。一緒に勝浦の猿山に行った。猿山とは猿を放し飼いにした公園だった。駅からタクシーに乗った。途中に切通しの崖があった。車を止めると運転手さんが海側の崖を指さした。崖には大きな穴が開いていて向こうに海が見えた。「人間魚雷を入れた穴だよ」と説明してくれた。海辺の町には海の兵器にまつわる話が多い。いすみ市大原にも人間魚雷回転を格納した穴が残っている。※写真はネットより借用

雑誌「丸」
 小学校3年生のころ「週刊少年サンデー」が創刊された。私は兄とお金を出し合って創刊号を買った。40円だった。面白かったので毎号買うようになった。(その翌年だったか「週刊少年マガジン」が創刊された)赤塚不二夫さんの「おそ松くん」が特に面白かった。月刊誌もいくつかあった。「少年」「冒険王」「少年倶楽部」などがあったと記憶している。「鉄腕アトム」「鉄人28号」「まぼろし探偵」「伊賀の影丸」「サブマリン707」などがあった。「隼一平」という戦記物もあった。毎週,毎月を楽しみにしていた。
 そんな中に異色の雑誌「丸」があった。
 これは太平洋戦争の兵器や戦争体験記を扱った雑誌だった。私は小学生ながら時々これを買って読んだ。戦艦や飛行機、戦車の写真を見るのが好きだった。戦争が好きだったわけではなかった。しかし、生き残って帰ってきた兵士たちの戦記からはどのようにして生き残ったのか、どんな気持ちで戦っていたのかを知ることができた。
 また,悲惨な写真をたくさん見た。南方らしい川の岸に砂に半分埋もれたたくさんの日本兵だったはみな眠ったように目を閉じた顔は半分砂に埋もれていた。火炎放射器を浴びて塹壕から飛び出す日本兵,火炎放射器で炭のようになった日本兵,陣地で小銃でくわえて自殺した日本兵などどれもむごたらしいものだった。
 故郷では手柄を立てて帰ってくるのを親兄弟が待ち望んでいただろう。しかし,現実には多くの人がこのような悲惨な死に方をしたのだった。「丸」からは戦争について多くを学んだ。

「大空のサムライ」 坂井三郎
坂井三郎さんはゼロ戦のパイロットだった。ゼロ戦に乗り大小64機を撃墜した日本の撃墜王として知られていた。「大空のサムライ」は彼の著書だ。幾多の空中戦を行い自分自身も生きるか死ぬかの大けがをした。空中戦の迫真の描写に夢中になった。
 生きるか死ぬかの空中戦の中でも敵味方に関係なく戦死した者を悼む気持ちが語られていた。
 坂井さんはアメリカで開かれた航空機関係の行事に日本の撃墜王として招待されたおりに脳溢血で亡くなったという。

「自衛隊の展示会」
 6年生の時,大多喜小学校の校庭で自衛隊の兵器の展示会が開かれた。友達と見に行った。大人も子どももたくさんの人が来ていた。珍しい兵器に興奮した。今なら大問題だろう。いくつかを紹介する。
@手回し式発電機
 腰かけて両手でぐるぐる回す発電機だった。後に新潟の大雪で派遣された隊員が使っているのをテレビで見た。
Aカービン銃
 第二次世界大戦でアメリカの歩兵が使っていた自動小銃だった。小型で軽く,小学生でも持てた。「銃身に乗せた一円玉が落ちないように引き金を引くんだ」とそばにいた隊員が言った。引き金を引くと「カチャッ」と音がした。
BM3サブマシンガン
 グリスを入れる筒のようなのでグリースガンとも呼ばれていた。プレスした鉄板を溶接して作られた鉄の塊のような粗末なものだった。鉄パイプのような短い銃身がついていた。引き金を引くと内部で重い鉄のおもりがガクンと前に動いた。

C4連装対空機関銃
 鉄板で囲まれた操縦室があり,その周りに上下2連の12.7mm機関銃が左右についていた。動力として小さなガソリンエンジンがついていた。エンジンをかけると全体が上下左右に素早く動いた。動きの速さにびっくりした。
「これを使うときは,敵と刺し違えるつもりでやるんだ」と隊員が言った。
D90mm高射砲
 長い砲身を持ちグレーに塗装されていた。4本の足を広げて地面に固定されていた。ハンドルをぐるぐる回すと砲身が回った。小学生でも回せるほどハンドルは軽かった。高射砲だが対戦車砲としても使われた。
「これに狙われたら戦車もひとたまりもない」と隊員が言った。
Eハーフトラック
 前方にタイヤ,後方がキャタピラという珍しいものだった。後方の荷台には37mm対空砲がつけられていた。大きな模擬弾が装填されて光っていた。ハンドルで砲を動かすことができた。

 この展示は隊員を集めるための宣伝目的であったろう。普通なら見ることのできない兵器をたくさん見ることができた。
 そのころはどこの家も貧しかった。中学を卒業して自衛隊の学校に行ったり,高校を卒業して防衛大学校に行ったりする選択肢があった。中学生の時には友達とそんな話をしていた。
 私は防衛大学校へ行こうと真剣に考えていた。お金がかからないことと憧れがあった。それに親も喜ぶだろうと思った。しかし,神様は私をその道に進ませてくれなかった。

[防衛大学校を諦めて早稲田大学へ]
 高校在学中に目が悪くなってしまった。防衛大学校の受験資格には裸眼視力が1.0以上という規定があった。私の視力は0.1にまでなっていて基準に達していなかった。防衛大学校を諦めた。
 気を取り直していくつか大学を調べたり見て歩いたりした。
 そして12月に早稲田大学を訪れた。冬休みで学生の姿はなかったが、とても清々しく感じた。一人の女子学生が私の前を校歌を歌いながら颯爽と歩いて行った。きれいな声だった。校内を歩いていると学生協の店があった。チョコレートを買った。そう言うことが新鮮でうれしかった。防衛大学校とは対極にある学校だったが、この学校に来たいと思った。父に相談すると父は早稲田大学への進学を許してくれた。早稲田大学では教育学と生物学を学び7年間を過ごした。

「戦争から帰ってきた先生たち」
 小学校6年生の時だった。T先生が軍隊生活のことを話してくれた。先生にとってはまだ18年くらい前のことだっただろう。
「隊内におじいさんの兵隊がいた。冬の寒さでかかとに大きなアカギレができていて痛そうだった。可哀そうなので塗薬を買ってあげたよ」
「ある時、兵隊同士でサッカーの試合をしていた時に硬い軍靴でけられて膝がはれ上がってしまった」
 話を聞きながらおじいさんの兵隊さんが喜ぶ姿や腫れあがった膝を痛そうにさする先生の顔を思い浮かべた。そして過酷な軍隊生活を生きてきた先生の気持ちを思った。

「捕虜になってハリコフにいた中村先生」
 中学一年のときだった。社会科の最初の授業で中村先生が自己紹介してくれた。
「私は戦争で捕虜になってハリコフというところにいたんだよ」
 そして壁に掛けた世界地図でハリコフの場所を示してくれた。日本から遠く離れた中央アジアでヨーロッパに近い所だった。
 中村先生は母が親しくしていた同僚でもあり穏やかで優しかった。中村先生が戦場で戦う姿を想像できなかった。
 当時の中学校には戦争経験のある先生が沢山いた。南方でアメリカ軍の捕虜になった先生がいた。その時の様子を話してくれた。
「アメリカ軍の戦車を対戦車砲で撃ったんだ。するとビョーンと弾が跳ね返ったのでびっくりした。アメリカ軍の捕虜になった。毎日アメリカ兵と野球をやっていたので今でも野球が好きだよ。」

「通信兵だった桧山(仮名)先生」
 中学2年のとき,放課後に友達と一緒に電鍵を使ってモールス信号の練習をしていたときのこと。当時私はアマチュア無線をやっていた。その時、にこにこしながら入ってきたのは桧山先生だった。
「俺にもやらせてくれよ。軍隊で通信兵だったんだ」
桧山先生は座ると何やら懐かしそうに電鍵を打ち始めた。何を打っているかわからなかった。多分軍隊で使っていた信号なのだろう。その様子がとても印象に残っている。桧山先生には英語を教わった。

「佐野照子先生」のこと
 勝浦市の海沿いに古い木造二階建てのアパートがあった。今の勝浦三日月ホテルの前あたりだった。そこに中学2年の時に国語を教わった佐野照子先生が住んでいた。母は佐藤照子だったので時々間違えられたと母が言っていた。
 ある時友達と二人で佐野先生の部屋を訪れた。先生は急に訪れた私たちを喜んで迎えてくれた。
 どういう話をしたのか今ではほとんど覚えていないが,戦争中のことを話してくれたのを覚えている。戦争中はおなかが減ってどうしようもなかった。道に落ちていた焼き芋の皮を拾って食べたことがあるという内容だった。本当にひもじかったのだろうなと思った。
 先生は後に早稲田大学の先生と結婚することが決まり退職された。

「弁論大会で沖縄返還について論じた」
 佐野先生のことでもう一つ大きな思い出がある。夷隅郡の弁論大会に参加したことだ。中学二年生の時、弁論大会に参加しようという私の提案に佐野先生が賛成してくれた。指導は佐野先生がしてくれた。
 私は沖縄の本土返還について論ずることにした。母の助けを受けながら四苦八苦して原稿を書き上げた。「沖縄を日本に帰して。南の島(果て?)から叫ぶ中学生。」という出だしだった。残念なことに以降の内容を覚えていない。一生懸命にやったが、稚拙な内容であったと思う。演壇に登るときには口から心臓がとびでるのではというくらいに緊張した。今思えば、ずいぶん政治色の濃い内容だったと思う。中学生が扱う内容ではなかったかもしれない。よい評価は得られなかった。当時は「中2コース」という雑誌を読んでいた。この雑誌で沖縄やベトナム戦争に関する記事をよく目にした。
 度重なる引っ越しにより原稿も失われて今はない。自分が一生懸命にやったことをもっと大事にすべきだったと反省している。

 昭和42年に千葉県立長生高等学校に入学した。学校には名物先生が何人もいた。後に女子マラソンの指導者になった小出義雄先生がいた。まだ30歳くらいだった。体育を教わった。先生の体育授業は楽しかった。ちなみに小出先生の奥さんとは同じクラスだった。
 名物先生の中には授業中に戦争体験を語ってくれた人がいた。ずいぶん昔のことなので記憶が定かでないところもある。

「漢文のA先生」
 先生は中国戦線にいた。
「中国大陸は広くて,いくら歩いても麦畑が続いていた。この広い麦畑のどこから敵兵が出てくるのだろうかと思った。
 中国人は戦争に勝ってもボーッとしていたよ。
 日本であるお宅におじゃましたとき,中国から持ってきたというきれいな陶器がおひつ代わりに使われていた。その容器がどういう用途であったかを知っていたので遠慮したくなった。だが,もう十数年もたつので大丈夫だろうと思った。」
 先生によれば中国の家庭では部屋には便所がなく,陶器を置いておいて用を足していたのだという。これはとても参考になった。

「国語のB先生」
 先生も中国戦線だったと思う。
 「みんな戦争のことを気軽に言うが,戦争はひどいものだよ。夜の歩哨に立った時のことだった。そこには処刑された捕虜が何人も埋められていた。その髪の毛が夜風にゆらゆらと動くのだよ。とても気味が悪かった。」と語る先生の目は暗かった。今になると先生が大変な体験をしてきたことがわかる。どんな気持ちで教壇に立っていたのだろうかと思う。

「英語のC先生」
 先生は第一高等学校の学生だった。寮生活をしていた。
「食べる物がなくてひもじかった。寮の仲間と鉄かぶとを鍋にして猫を煮て食べた。すごくフケ臭かった。」
 さりげない知的な冗談が面白かった。先生の英語は楽しみだった。

「大学の数学の先生」
 大学の先生には戦争のことを話す人はいなかった。だが,数学の先生が授業中,どういうわけかちょっと話してくれた。
「学生のときは腹が減って仕方がなかった。腹が減って積分の問題が解けなかった」
 学生時代に苦労があったのだなと思った。こういうことを話してくれるのはありがたかった。

「用務員の最上(仮名)さんの壮絶な戦争体験」
 昭和56年頃だった。夷隅郡の大原中学校には住み込みの用務員の最上さんがいた。最上さんはウナギの味付けが上手で時々近くの塩田川で採ったウナギをかば焼きにしてごちそうしてくれた。
 当時はまだ土曜日に半日授業があった。それで午後にはみんなで川にウナギをとりに行くこともあった。そんなある土曜日の午後、塩田川でとったウナギをご馳走してくれたことがあった。たまたま他の人たちが席を外した時に、最上さんが自分の戦争体験を話してくれた。なのでこの話を聞いたのは私だけだった。最上さんは二十歳戦後の頃中国戦線で戦っていた。ぽつりぽつりと語られた内容はこうだった。
「ある時、白兵戦になった。戦いが終わって夜が明けたとき,よく生きていたと思ったよ。」
 白兵戦とは銃剣をつけて戦う接近戦だ。銃に弾を込める間もなく敵兵と格闘しなければならない。
 地面に伏せたり物陰に隠れたりしながら夜の戦場で必死に戦う小柄な最上さんの姿を私は思い浮かべた。日本兵も中国兵もたくさん死んだに違いない。硝煙が漂い敵味方の死体が入り混じって転がる夜明けの戦場に呆然とたたずむ最上さんの姿を想像した。勇敢に戦い激しい白兵戦を生き残ったのだと思った。
 最上さんはもう一つの話をしてくれた。
「日本軍は軍隊内でのいじめがひどかった。些細なことでひどい制裁を受けた。毎日殴られた。便所の小便を飲まされたこともあった。喉が焼けるようにからかった。それでこんな日本軍にはもういられないと思って脱走した。八路軍(中国軍)のほう向かって逃げた。後ろを見ると日本軍の捜索隊が軍旗をもって追ってくるのが見えた。必死で逃げた。そして八路軍の捕虜になった。八路軍の将校は「日本の兵隊が悪いのではない,日本の帝国主義が悪いのだ」といって以外にも親切に扱ってくれた。腹いっぱい饅頭を食わせてくれた。しかし,衛生状態が悪かったので腹に虫(寄生虫)がわいて困った。」
 最上さんは最年少の二等兵だった。それでいじめの対象にされたのだろう。脱走兵は捕まれば間違いなく銃殺になった。必死の覚悟で敵の懐に飛び込んで命が助かったのだった。
 最上さんは私が教員を退職するずっと前に亡くなった。戦争の辛い思い出は誰も話したがらない。平和な時代になってようやく話すことができたに違いない。
 最上さんが話してくれた戦争体験は以来何十年も私の心の中にしまわれていた。それがようやくここに出口を見つけて出てきた。貴重な体験を話してくれた最上さんにはとても感謝している。そして冥福を祈り続けている。

「戦闘機の操縦士だった校長」
 1980年(昭和55年)のことだ。教員の初任者として同期の仲間と一緒に夷隅郡国吉小学校で初任者の研修を受けていた。講師は同校のO校長であった。小柄で目が光っているとが印象的だった。
「私が戦闘機の操縦訓練を受けていた時のことだ。高度6000メートルも上昇すると仲間の飛行機がみんな落ちてくるんだ。空気が薄くて気を失ってしまうんだ。」
 こう話してくれたことは覚えている。戦争経験者の中でもパイロット経験者は珍しい。今はもう空の向こうに旅立たれたでしょう。若い教職員に貴重な体験を話してくれたことに感謝している。

「校長と拳銃」
 1983年(昭和58年)くらいのことだ。私が夷隅郡のO中学校の教員として赴任してから3年ほどたった時だった。何かの酒の席でO校長が戦争中の体験を話してくれた。ある晩、自分の拳銃を眺めながらこれを使う日はいつなのだろうかと思ったという。彼は拳銃を使うことなく終戦を迎えた。職務には厳しい人であり学ぶところが多かった。

 「バイトで出会った老大工の話」
 昼飯の時みんなで車座になって弁当を食べていた時に兵隊で中国にいた老大工が話していました。「捕虜にした中国兵は銃を向けると両手を挙げて”ひゃー”と声を上げてへなへなと座り込んでしまった。頭が吹き飛んだ中国兵を見た。瞬発信管の擲弾が当たったのだろう」 

 「シベリア抑留経験のある老人の話」
 あるの祝いの席で近所の老人が話していた。「シベリアでの抑留は非常にきつかった。みんな松葉を煮てその汁を飲んだ。これが体に良かったので生きて帰ることができた」
 生き残るために松葉の煮汁を飲んでいたとは驚きだった。

「茂原市の戦争遺跡 滑走路跡」
 三井東圧工場の裏手から旧茂原農業高校のわきを通って一直線の長い道路がある。それは海軍航空隊飛行場の滑走路跡だ。後述のゼロ戦もここから飛び立った。

「茂原市の戦争遺跡 高射砲の台座」
 昭和40年代、茂原駅近くの市民会館?の片隅に円錐形の土盛りがあった。それは戦争中の高射砲の台座だった。海軍航空隊の飛行場防衛のためだったのだろう。今はもうない。

「茂原市の戦争遺跡 掩体壕」
 茂原市には海軍航空隊の飛行場跡がある。掩体壕は敵飛行機の攻撃から飛行機を守るための分厚いコンクリート製の格納庫だ。これが住宅地域にいくつも残っている。茂原農業高校の生徒たちが建設に参加したと立て札には書かれている。また,滑走路跡は長い一直線の道路になっている。コンクリートに手を触れると汗を流して働く茂原農業高校の生徒たちの姿が見えるような気がした。
 当時の生徒たちは今は90歳以上になる。この掩体壕を見てどんな気持ちがするだろうか。

「伊藤の大山に墜落したB29」
 大多喜町は山間の地にある。標高245.8mの伊藤の大山はこの辺りでは一番高く山深い。
 戦争中に伊藤の大山に東京を爆撃したB29が墜落した。搭乗員数名が捕らえられて大多喜中学校に連行された。取り調べを受けた後に処刑されたという。戦争が終わるとアメリカ軍がやってきて処刑にかかわった兵隊たちを連行した。
 後に得た情報によると搭乗員たちは逃亡を企てたために処刑されたとのことだった。また,終戦後にアメリカ軍によって連行された日本兵は,指導的立場だった少尉が懲役12年の判決を受けた。一般の兵士は無罪だったそうだ。
 私は墜落現場に行ってみたいと思う。しかし,それがどこなのかわからない。

「大多喜町に墜落したゼロ戦」
 終戦の年の8月15日の早朝に大多喜町の上空で茂原の航空基地から飛び立ったゼロ戦と敵戦闘機が激しい空中戦を演じました。日本の戦闘機5機が撃墜され、そのうちの1機が大多喜町泉水の田んぼに燃えながら真っ逆さまに墜落炎上し粉々になりました。パイロットは二十歳だったそうです。地元の人が遺骨を拾い集めてお墓を立てました。
 ある方が中心となりこの墜落現場を発掘したところエンジンと20ミリ機関砲、遺骨などが出てきました。
 このことがニュースで報じられると2021年2月23日に静岡県から弟である遺族の方が訪れました。兄かどうか分からないが、そうであっても兄の戦友として手を合わせたかったとのことでした。遺品は睦沢町歴史民俗資料館に保管されています。
 なお、この時の空中戦は後述のホックレー少尉らとの戦いであったようです。複雑な思いです。

兄の光平さんの慰霊に訪れた杉山栄作さん(92歳)

「豊浜小学校に残る防空壕」
 勝浦市立豊浜小学校は海辺の山の上を切り開いて建てられた学校だ。狭く急な坂を上がった所にある。学校を取り巻く山の崖には防空壕が3つある。入口は狭いが奥は広くなっている。空襲警報が鳴ると先生と子どもたちがこの中で息をひそめたのだろう。戦後70年以上たっても校庭の隅で口を開けている。


「お寺の廊下の遺影」
 勝浦市部原の長秀寺を訪れた折,本堂の廊下に額に入れられた写真がいくつも並んでいた。出征する兵士の写真だった。家の前で撮られたもので皆にこにこしていた。当時はカメラを持っている家などなかったから写真屋に撮ってもらったのだろう。写真はとても鮮明でつい昨日撮られたように感じた。この人たちは帰ってこなかったのだな,遺骨もないのだろうと思った。遺族は亡き人をしのんでお寺に写真を掲げたのだろう。

「西小学校の忠魂碑」
 大多喜町立西小学校を訪れたときのこと。校庭の隅の一段高いところに忠魂碑があった。黒い岩石の碑には何百もの名前が刻まれていた。〇〇村 陸軍伍長〇〇など。出征した人たちの出身地区と名前であった。この山奥からも大切な人たちが戦争に行ったのだ。そして帰ってこなかった。その人たちを忘れまいと建てられた碑であった。今はひっそりと校庭の子どもたちを見守っている。

大原「忠霊塔」
 いすみ市立大原小学校のそばに昭和29年に旧大原町によって建てら忠霊塔がある。この田舎町からもたくさんの人たちが出征し戦死している。亡くなった人たちをしのぶ気持ちが込められている。塔の真正面には大原小学校がある。この塔もまた子供たちを見守っている。

「処刑されたイギリス海軍の若いパイロット」
 一宮町での出来事であり,近年千葉日報に掲載された記事だ。  イギリス人パイロットが捕虜になり旅館に連行されてきた。まだ22歳くらいの青年だった。パンツ一枚の裸姿だった。女将さんはかわいそうに思って浴衣を着せてあげたそうだ。青年はとても喜んだそうだ。そしてにこにこしながら首にかけていたペンダントを開けて見せてくれたそうだ。中には恋人らしい若い女性の写真があったという。  数日後,青年は近くの道庭湖という池の裏山に連れていかれた。パーンという銃声とともに青年の命が終わった。
 私はこの記事を読んでとても悲しい気持ちになった。戦争とはいえむごいことだ。この青年が生きて故郷に帰ったなら家族や恋人はどんなに喜んだことだろうか。
 ※2021年2月5日にあるネットのコメントで一宮に飛来したイギリス軍のスピットファイヤー戦闘機が空中戦を行ったことを知りました。この時のパイロットだと思います。
 この記事のコメントに返信がありました。パイロットは、イギリス海軍 フレッド・ホックレー予備員少尉 享年22歳 RIP であると教えていただきました。感謝します。

「早稲田大学の戦没者記念碑」
百日紅
2005年10月23日植樹
「 日中戦争および太平洋戦争は4700名以上にもおよぶ早稲田大学校友・学生・教職員の尊い命を奪った。
 戦後60年を迎えた今年,早稲田大学は恒久の平和を祈念した植樹を行う。
 この平和を祈念する植樹は,戦争犠牲者となられた早稲田大学校友のご遺族から寄せられた浄財をもとにしていることを付言しておく。」
 早稲田大学大隈庭園の一角に太平洋戦争で犠牲になった学生と職員を追悼・慰霊する碑がある。遺族の人たちによって建てられたものだ。学生・職員あわせて4700名以上が亡くなったと書かれている。そしてその碑の脇にもう一つの碑があり,学徒出陣後の学校の変わり果てた様子を詠んだ女子学生の句が刻まれている。この大学は4700名以上の戦死者の上に今がある。大隈重信の銅像はその歴史をずっと見てきたのだ、学生たちをずっと見守ってきたのだと思うとき、この学校に敬意を表する思いが湧いてきた。

征く人のゆき果てし校庭に音絶えて
木の葉舞うなり黄に輝きて


 4700人以上もの校友・学生・職員が戦没者をだしたことを忘れてはならないだろう。女学生の詩と合わせて,この戦争が何であったのかを教えてくれる。

「杉原千畝記念碑」

「外交官としてではなく 人間として当然の正しい決断をした」
 早稲田大学校内に杉原千畝氏の記念碑があります。彼の出身校である早稲田大学にイスラエル大使館から贈られました。彼は第二次世界大戦中,ユダヤ人にビザを発給して約6000人もの命を救いました。この時命を助けられたユダヤ人の子孫たちは,今なお彼に感謝しています。

「早大での強烈な思い出」
「初めに」
 早稲田大学は太平洋戦争によって深い傷を負いました。4600名もの学生や学校関係者が戦死したのです。このことは大隈庭園の碑に記されています。学徒出陣の折には去り行く学生を「都の西北」で見送ったと言いわれています。
 私がいたのはまだ戦後25年の頃であり日米安保体制による混乱など戦争の影を引きずるあわただしい時代でした。

<1 燃え上がる正門> 世間は大学紛争の真っただ中にあった。キャンパスにはあちこちに立て看板があった。黒い太文字で何やら書かれていた。ヘルメットをかぶった男たちの声が一日中大音量で響いていた。そのわきを通りながら授業に向かった。ある日、午後の授業を終えて正門に向かうと閉鎖された門に椅子だの机だのが積み上げられてバリケードが作られていた。あたりの雰囲気は緊迫していた。門の外側には灰色に塗られた機動隊の車がたくさんいた。どうしたのだろうと思ってと離れて見ているとボンという音とともにバリケードから大きな炎があがった。ガソリンに火がつけられたのだった。正門は黒い煙とともに燃え上がった。
 機動隊が発射する催涙弾がポンポン飛んできた。催涙弾にあたったら大けがをする。建物の陰に隠れた。催涙弾はシューッと花火のように炎と煙を吐き出した。煙は化学的な嫌なにおいがした。煙を浴びると目がとても痛かった。そして激しくせき込んだ。
 授業を終えた学生たちが大勢集まってきた。その時法学部脇の南門から機動隊が突入してきた。10人くらいの隊員がジュラルミンの盾を前に構えて2列の隊を組んで走ってきた。先頭に指揮者らしい隊員がいて旗を持っていた。その隊員は必死の形相であった。機動隊に守られながら無事に校外に出ることができた。催涙ガスのにおいが体に染みついていた。機動隊員の靴音と催涙弾のにおいは今でも忘れられない。

<2 アジ演説> 立て看板とアジ演説は日常的であった。いつもその前を通って授業に向かった。ある日、立て看板の前の椅子に座って友達とアジ演説を聞いたことがあった。私は不用意にも友達に向かってカクマルがどうの民青がどうのと話しかけた。カクマルと民青は当時の二大勢力だった。近くにいたカクマルのヘルメットかぶった男がじろりとこちらを見た。その目つきが異様であった。危ないと直感して無関係を装ってその場を離れた。

<3 セクトの対立> 演劇博物館前のを青ヘルの一団が隊列を組んでデモ行進していた。時々見かける風景だった。すると突然カクマルのヘルをかぶった集団が鉄パイプを振りかざして襲い掛かった。たちまち鉄パイプで殴りあう乱闘になった。乱闘はすさまじく互いにメッタ打ちであった。乱闘が収まるとメッタ打ちにあった学生が放心したようにふらふらと歩いていた。上着の袖がもげていた。乱闘現場を目撃したのは一度きりだったが同様のことは何度か耳にした。またある時、裏門脇の路地を歩いていると数人の奇妙な集団に出会った。身をかがめて前方を探りながら用心深く歩いてくる男たちだった。一番前の男の顔には白い包帯がまかれていた。包帯には赤く血がにじんでいた。男の目はきょろきょろと動いていた。そして安全だから来いというように合図をした。多分、反対派の学生の襲撃から逃れていたのだろう。思想が違うというだけで相手に対して容赦なかった。

<4 学生たちが立ち上った> カクマルはと民青の抗争が激しくなり、授業妨害が頻発した。こんな状況に対して一般学生が立ち上がった。各学部の学科の学生たちがそれぞれの旗を立てて大隈講堂前の広場に集結して座り込んで抗議した。私もこれに加わった。
 周辺ではカクマル派の学生たちがデモをして駆け回って不穏な動きをしていた。突然カクマル派のデモ隊の一団が「あそこに民青がいる!」と叫んだかと思うと隊列を組んだまま座り込んでいる学生たちを容赦なく踏みつけながら突進してきた。あちこちから悲鳴が上がり大混乱になった。デモ隊は学生をドスンドスンと踏みつけながら私の方に向かってきた。学生たちが覆いかぶさるように崩れてきた。それに押されて私はあおむけに倒れた。空が見えなくなりあたりが暗くなった。私は覚悟をした。その時、倒れた私の上で懸命に両手を踏ん張って支えている男子学生がいた。彼の顔は苦痛に歪んでいた。彼のおかげでけがもなくすんだ。混乱のさなかで彼の名前も学部も確認できなかった。お互いに体を張った仲間だった。余計な言葉はいらなかった。

<5 嵐が収まった大学> 学生運動のあらしが吹き荒れた早大を卒業し私は2年間会社勤めをした後「生物学」を学ぶために再び早大に戻った。キャンパスは立看板もアジ演説もなく静かだった。2年間に何があったのだろうかと不思議に思った。早大を二度卒業したが無駄をしたとは思っていない。早大でなければできないことだった。
 それから理科の教師として生き、管理職を経て定年を迎えた。定年と同時に東京大学教養学部の聴講生になった。これは1年前から準備をしていた。ゆっくりといろいろなことを考えてみたかったからだ。
 その後、早大のオープンカレッジを受講して早大を訪れた。大隈講堂はあの時のままにたたずんでいた。大隈重信の銅像は行き交う学生たちを穏やかに見守っていた。

[おわりに]
 私の記憶がなくならないうちに、母の話と「忘れな草」に残してくれた文章、父の軍隊経験などを私の経験を踏まえてまとめてみました。
 そこに見えてきた戦争の姿からは庶民の息遣いが聞こえてきました。子どもの頃に父母や諸先生から聞いた体験談により戦争をとても身近なものに感じました。
 父母の戦争体験は戦争で亡くなられた方々やご遺族のことを思えば小さなことと思います。
 太平洋戦争で亡くなられた方々のご冥福を祈るとともに、僅かでも平和への礎になればと思います。

2019年12月16日

「追記」
 「戦争の思い出」を書いた直後に新型コロナのパンデミックが始まりました。私自身も大きな手術で入院しました。誰もが必死に生きてきたと思います。
昭和、平成、令和と時代が移り替わるにつれ、鮮明だった子どもの頃の記憶も昭和の写真のように色あせてしまいました。私自身がこうなのですから、若い人達にとって戦争は昔話・御伽噺のように思えるかもしれません。やがて戦争体験を語れる人もいなくなります。私の記憶が無になる前に、これを書き残せてよかったと思っています。

2021年7月23日

「追記」
「語り継ぐことの大切さ」  戦争のことが風化しているとよく言われます。風化とは岩石などが気候の影響によって形を失っていくことです。しかし、戦争があったのは事実であり、いつまでも形を失うことはありません。戦争について語り継ぐ人達がいなくなって忘れられていくだけなのです。したがって、戦争について世代を超えて語り継ぐことが大切であると思います。 私は祖母、父母、友達から聞いたことをここに書き記しました。ネットの力を活用して僅かですが戦争の記憶を伝えることができたと思っています。

2022年9月19日


No.242
 父のものではありませんがネットから掲載させてだきました。
父が語った戦争体験

[はじめに]
 父は終戦時,22歳でした。まだ母と結婚する前のことです。
父がいたのは,茨城にあった航空隊でした。小柄で体が弱かった父には相当に辛かったようです。
子どものころ時々,中学校時代や軍隊にいたときの話をしてくれました。それを思い出せる限り順を追って書きました。

1 [蓋の割れた筆箱]
 私が中学2年生のころ,父が使っている筆箱を見せてくれました。白いセルロイド製(?)でした。蓋が真ん中から折れるように割れていて,その部分をひもで継いでありました。「これは中学生のときから使っている筆箱だ。」と言いました。当時は,既に戦後20年たっていました。父は物を大切にしました。この筆箱にはいろんな思いでがあるのだろうと思いました。今でもその筆箱を鮮明に思い出します。

2 [ドラム缶風呂に入ろうとして]
 父は軍隊に行ってから一度も風呂に入れなかったそうです。あるときドラム缶風呂があり,湯も沸いており,誰もいなかったので入ろうとしました。はだかになって,つま先をちょこんと入れた瞬間,「貴様,二等兵のくせに生意気だ。」と大声がしました。振り向くと上官がいました。父は殴られました。裸のまま直立で敬礼をしたそうです。どんなに悔しかったことでしょう。

3 [胸の傷跡]
 一緒に風呂に入ったときに胸の傷跡を見せてくれました。「これは航空隊にいたときに運んでいた爆弾の羽で切ったんだ。赤チンをつけて自分で直したんだ。」と言いました。見ると胸の真ん中に5センチくらいの傷跡がありました。爆弾を運んでいた時に羽のとがった部分が当たったのでしょう。上半身裸で作業していたのでしょう。これだけの傷,相当に痛かったに違いありません。父が亡くなったときにも私はこの傷を見ました。傷跡は昔のままに残っていました。

4 [軍隊の食事]
 食事が少なくてみんないつも腹をすかしていました。みそ汁の具が毎日牡蠣で飽きてしまったとも言いました。しかし,牡蠣は栄養豊富なのでよかったと思います。腹が減って力が出ないので兵隊たちはいつも怒られていました。[貴様らは,飯を食ったばかりなのに力が出ないのか」と。 当時父は,痩せこけて初期の栄養失調だったようです。

5 [敵機襲来]
 飛行場整備の土木作業をしているとき,グラマンの急襲を受けました。降り注ぐ機銃弾から逃れて近くのトマト畑に逃げ込みました。その時,プーンとう羽音とともに蚊が飛んできました。よほど印象に残ったようで,この話は何度も聞来ました。蚊の羽音でふと我にかえり,ほっとしたのかもしれません。ところでグラマンの機銃の威力はすさまじく,手足が吹っ飛ぶほどだったといいます。

6 [ゼロ戦の大事故]
 250キロ爆弾を抱えて出撃したゼロ戦が不調で戻ってきました。そして着陸するときに爆発しました。爆弾は投下できない仕組みになっていたのだそうです。操縦士は奇跡的に助かりましたが,大やけどをおいました。「色白のきれいな男だったがひどいやけどで顔が焼けただれてしまった」そうです。250キロ爆弾を抱えた戦闘機は,爆弾の重さに脚が耐えられないので再び着陸はできないのだそうです。

7 [行軍訓練中にがっかりしたこと]  暑い日に行軍訓練をしていた時でした。喉が渇いて水を飲みたくてしようがなかった父の前に小さな滝が現れました。有難いと父は流れに口をつけて水を飲みました。すると滝の水がが生ぬるかったそうです。滝の上まで歩いたときにその理由が分かりました。田んぼの用水路から流れてくる水だったそうです。とてもがっかりしたそうです。

8 [終戦を迎えて]
 戦争が終わると軍隊は解散になり,兵隊はみな故郷へ帰りました。父も辛い日々から解放されました。うれしくて航空隊基地から千葉県の長生村の家まで夜通し線路伝いに歩いて帰ってきました。こうして父の軍隊生活は終わりました。軍隊で支給された飛行服を夏用と冬用を持ってきました。冬用の服は防寒性に優れ,これを着てごろ寝しても風邪をひかなかったそうです。これは金に困って売ってしまったそうです。夏用の服は綿が入っていましたが薄手でした。つなぎになっており,前をボタンで留めるようになっていました。これは私が中学生の時,夜に勉強するとき防寒用に着ていました。

9 [西畑小学校での反省]
 終戦後,父はしばらく夷隅郡の西畑小学校で教員をしていた。山奥であり一人ぼっちで寂しくて仕方がなかったという。そこは寒暖の差が大きくて真冬はとても寒い。
 真冬のある日,「運動場をはだしで走るぞ」と言って子どもたちを外に連れ出した。走っている最中に運動場の隅で体を丸めて寒そうにしゃがみこんでいる子を見つけた。父はその子を見てとてもかわいそうに思った。こういう子のことも考えてあげなければいけなかったと反省したという。その子の姿をいつまでも忘れられなかったという。

10 [少尉になった夢]
 父が亡くなる少し前,訪れた私に興奮気味に言うのでした。「少尉になった夢を見たよ。襟に少尉の階級章がついていて,まるで本当のようだった。」と。
 戦争が終わって何十年もたつのに,まだそんな夢を見るのかなと思いました。私にとっては戦争はもう現実味のないことでした。しかし,青春時代を軍隊の底辺で過ごした父にとって少尉という階級は何よりもうらやましいものであったに違いありません。二等兵だと馬鹿にされて毎日殴られることもないのですから。軍隊生活での苦しみがPTSDとなって今なお心の底から燃え上がるのを見て父の心の傷の深さ,戦争の罪深さに気付きました。一生忘れられないつらい思いをしたのだと思いました。

11 [長男の写真]
 父は在職中に心筋梗塞になりバイパス手術を受けました。退職後は数年働いていましたが心臓の具合が再び悪くなったので家にいるようになりました。あるとき,「この額をかけてくれないか」と私に言いました。それは戦後まもなく亡くなった長男の写真でした。この写真は子どものころから毎日目にしていましたが私には長男の記憶がありません。七五三の飴の袋を手に下げた幼い子どもの写真でした。 「この子がかわいくて仕方がないんだ。もうすぐ会えると思うとうれしい。」というのでした。もう長くはないと思ったのでしょう。そして来世に希望をつなぐ父の気持ちを知って寂しくなりました。父はうれしそうに写真を眺めていました。若かった私には理解しがたかったのですが,家庭を持ち歳をとってくると父の気持ちが少しずつ分かるようになりました。

[おわりに]
 戦後も困難な時代が続きましたが,教員,警察官と職を変え,母と結婚し,私たち4人の子どもを育てました。しかし,長男は心臓病のため幼くして亡くなりした。戦後まもなくのことで,よい治療を受けさせることができませんでした。
 父も母も青春時代を戦争の真っただ中に過ごし,戦後は夫婦で人生を紡いできました。父は74歳で心臓の病により他界しました。
 晩年,病床の父はもう一度筑波山を見たいと言っていました。このことから父がいたのは「筑波海軍航空隊」だったろうと思います。「筑波海軍航空隊」跡地には,今も当時の建物が残っています。司令部だった建物は記念館になっています。また,地下トンネルや地下司令部も残っていて見学できます。父は,これらを作る作業の合間に筑波山を眺めては,いつ終わるともしれない日々に耐えていたのでしょう。そう思うと筑波山を眺めてたたずむ父の姿が目にうかびました。


 筑波海軍航空隊の司令部庁舎は現在は記念館です。

2023年2月24日

No.241

原文は
母が語った戦争の思い出

に掲載されています。

母が語った戦争の思い出

1.空襲の恐怖
 「ブーブーブー」「あっ、まただ。」警戒警報だ。しばらくすると、それが空襲警報に変わる勝浦小学校への登校途中だったので急いで学校への坂を駆け上がる。生徒を集め各方面に集団下校させる。先生方は防空壕に入る。
 防空壕は校舎と運動上の脇の岩山に六帖ほどの壕(横穴)があった。中は水がしたたり寒かった。その壕の中で朝の朝礼もそこそこに御真影をを守るべく待機していた。※写真は勝浦市立豊浜小学校に残る防空壕
 しばらく空襲の報もないと思い、外に出ていい空気でも吸おうと思った。空は澄んで青い。いい気持ちだと思ったその途端、はるか上空の左の方に小さな三センチくらいの編隊の飛行機だ。あれは日本の飛行機だと言っているうちに、三センチくらいの編隊のものがワーッと十メートルくらいになると同時に、バリバリバリっと機銃掃射、あっと言う間に去り、外は元の静寂に戻った。 ※写真は勝浦市豊浜小学校に残る防空壕

 おそるおそる外に出てみると校舎の屋根瓦はめちゃめちゃに落とされ、運動場は蜂の巣のようにえぐられていた。皆、顔は真っ白、怖くて震え、誰一人として口を開くものはいなかった。校庭に出ていたら命が危うかったと思う。「壕の中でよかった。」と胸をなでおろした。

 この日、家に帰って昼食をしていた五年の女の子が、腰に貫通銃創を受けたとのこと、勝浦駐屯地の高射砲がB二十九に応戦したため、B二十九が引き返して駐屯地は攻撃され、学校に駐屯していた兵隊が担架で運ばれていくのを見た。勝浦小学校は海軍の駐屯地だった。
 その夜もB二十九の襲撃は続いた。
 当時の教師の衣服は、みなカーキ色に染め、手に手っ甲をはめ、下衣はモンペの上に脚絆を巻き登下校していた。

2.苦痛
 食糧難、配給が少ないので悲惨なものだった。
 米の中にサツマイモ、南瓜が入っていた。でも、それはまだまだよい方で、次第に水分が多くなり具がういているようになった。

 学校は一に増産、二に増産の掛け声とともに、山の中腹、校舎の隅々、ありとあらゆるところに芋を植えた。それを皆で食べた。朝食が少ないので二時間もすると腹が減りぐーぐーと鳴った。昼食を楽しみにしていたが、出てくるものはサツマイモ二、三本。弁当箱は何かしらと開いてみると比時期だけという、白いご飯は見えない。配給のサツマイモだけでは足りないので母が着物を背負って農家を回り買い出しに行き、米を背負ってきたものだった。

 増産でこんなエピソードがあった。
 教室の後ろの庭に畑を作ることになり皆で土を耕したが、土は表面だけで下は岩だった。結局、灯台の方まで四キロの道程を背負い籠を背負って皆で土集めをし岩砂の上に土を盛るのだが、五年の女の子ではいくらも背負えなくなかなか植えるまでには至らなかった。二、三日続けてやっと畑らしくなり、サツマイモの苗を植えた。他の学級の芋の葉は色艶もよく見事だったが、私の学級の芋は一向に育たず惨めだった。

 当時の校長先生から「佐藤学級のは育ちが悪いな。」と言われ、考えた末、下肥をかけることにした。そのかいあって葉も見事に茂りやれやれと思った。さて、収穫の時期になって、つるの割にサツマイモは小さく細くがっかり、それを蒸して食べたり、茎を油いためにして食べたりしたのも、なつかしい思い出として残る。

3.服装
 男はカーキ色の国民服、女は着物を解いて作った標準服、生きていくのがやっとで衣服など売っていない。みんな痩せこけていた。

4.振り返ってみると
 師範学校時代は、満州事変、卒業と同時に太平洋戦争(第二次世界大戦)の五年間、敗戦、軍国主義教育から民主主義教育の混乱期、現在の乱れた世相、バブル崩壊、リストラ、食料、衣料、日常品はちまたに溢れ人の命の尊さなど忘れられた世紀末的混乱、心の底から嘆いたり、又、怒りが込み上げて来て爆発したりしている昨今であるが、よくもまあ、こんな時代を歩んできたものだと気がついたら八十歳を越えていた。
2023年2月12日

No.240
移住者と地域のwin・winが望ましい

 次のような記事がネットのニュースで話題になっていました。興味を惹かれたので少し考えてみました。

「1月中旬、高齢化が進む人口およそ2300人の福井県池田町が、突如物議を醸すことになった。発端は移住者への提言「池田暮らしの7か条」だ。 広報誌で「都会風を吹かさないよう心がけてください」「品定めがなされていることを自覚してください」と、都会と田舎での暮らし方は違うと説明、協力を呼びかけた池田町。(2023年2月16日の記事より)」

 まず、一般的に言って田舎は因習がはびこっていて住みにくい印象があります。私が住んでいるところは田舎ですが新興住宅地なので近所づきあい等はゆるやかで、互いに干渉せずに暮らしています。しかし、古くからの地域の中に入ってしまったらこうはいかないだろうと常々思っています。
 「郷に入れば郷に従え」の通り、田舎には田舎の決まりがあり、住んだ所の決まりを受け入れなくてはならないのは事実です。その決まりによって地域が維持されてきたのですから。
 「都会風を吹かす」とはつまり、都会でのやり方にこだわって自分の利益(考え)を主張するばかりで、地域に貢献することなく都合よく生きようとする姿勢を言うのでしょう。地域も移住者とともに地域を活性化したいという気持ちがあるわけで、福祉を求めるだけの移住者は歓迎されないのでしょう。
 さて、都会から移り住むと田舎の風習や行事は面倒に感じられます。慣れてないのだから当然です。だから「お祭りはみんなで協力することになっています。何々の風習があるが人それぞれ考え方や宗教の違いがあるので参加する・しないは自由です。」のように具体的に大事なことを書いてあげるのが親切でしょう。
 移住を希望する方はその地域が自分の希望・目的に合うかどうか事前によく調べることが肝要であると思います。実際にその地へ行って様子を見てみるのがよいと思います。移住者が地域とwin・winで豊かな人生になれば一番よいと思います。
2023年2月17日

No.239
「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹」の狂気

「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」といった主張が物議を醸している。発言者は、経済学者で米イェール大学のアシスタント・プロフェッサー・成田悠輔氏だ。(2/14(火) 17:46配信のネットの記事より)

 こんな記事を目にしました。話の全容を知らないので単なる切り取りになってしまいますが、この発言の背景は凡そ察しがつきます。要するに高齢者が老害になっていつまでも世代交代が進まないということです。これについてはこの人だけでなくこれまでに何度となく耳にしていることです。
 ただ「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」という表現がメタファーであるにしても間違っていると思うのです。  私はこんな想像をしました。
 今日は集団自決の日だからとおじいさん・おばあさん達が家族から引き離されて連れていかれる。いやだと言っても許されない。
 集められたおじいさん・おばあさん達は何らかの方法で自殺を強いられる。死ゆく人達のうめき声がいつ果てるともなく聞こえてくる。
やがて多数の死体が街のあちこちで焼かれ黒い煙が上がり街を覆う。・・・

 何と恐ろしい光景だろう。このような国に住みたい人がいるだろうか。若者はこのような国で希望をもって生きることができるだろうか。私は否です。子供たちをこのような国に託すことはできません。
 何の気なしに言うのは簡単です。しかし、人の心には狂気が住んでいます。私ですらこれくらいの想像をします。深く考えて発言してほしいと思います。  
2023年2月15日

No.238
同性婚とパートナーシップ制度

 同性婚を認めるべきだという記事をよく目にするようになりました。今盛んに議論されている話題です。
 そもそも同性婚とは男同士、女同士の結婚という意味です。同性同士が愛し合い生活を共にすることは昔からあったことには違いありません。それが倫理的にタブーとされてきたものと思います。現代でもそういう関係の人達は一定の割合で存在していて、共に同じ社会で生活している社会の一員です。しかし、社会で暮らしていくにあたって何かと不自由、不便に突き当たるようです。例えば、配偶者とみなされないので、片方が手術をするときに手術を承諾書に署名したり、説明を受けたりすることができないなどです。つまり、配偶者とみなされないために様々な場面で差別を受けるのです。同様なことはたくさんあることでしょう。そこで自分たちにも配偶者同様の権利を認めてほしいというのがこの人たちの要望であると思います。
 ところで私自身はこう思います。先ず、同性婚は結婚という言葉で括れない、違った意味合いのものであると思います。私は、結婚とは異性同士が結びつき子孫を作り新しい家族を作っていく営みであると理解しています。従って、同性同士の結び付きを結婚というには違和感(無理)があると思います。こう考えるのは極めて常識的であるし、間違いではないと思います。
 さて、同性同士が強く結びついて生活を共にしているのは事実ですし、彼ら・彼女らも共に社会の一員です。そこで私は、これらの人達が共に社会で暮らしやすくなる仕組み(制度)にすればよいのではないかと考えました。こんな折、このような新聞記事を見ました。2023年2月10日(金)千葉日報の記事です。
「性的少数者(LGBTQなど)の関係を公的に証明するパートナーシップ宣誓制度が県内各自治体で広がっている。2019年1月の千葉市を皮切りに。本年度中に柏市が、4月に木更津市がそれぞれ導入する予定で、制度実施は計8市になる見込みだ。県南部で初めてとなる木更津市の担当者は「(パートナーシップに関して)市民の偏見はなくなってきている」と指摘。流山市も同制度の導入を検討する。」
「県内でいち早く同制度を立ち上げた千葉市。市によると、これまでに計141組が制度を利用した。宣誓カップルは市営住宅への入居時や市立病院で面会する際などに、法律上の夫婦と同様の対応を受けることができる。千葉大病院(中央区)などの医療機関が面会や付き添い、症状説明などで配慮するなど、民間にも理解が広がってきた。また、21年度に制度を実施している横浜市、昨年4月には船橋市、松戸市と協定を結び、千葉市との間で引っ越しをする際、改めて宣誓しなくても済むよう手続きを簡素化。担当者は「制度をさらに便利にしていくことで、法律上の夫婦とできるだけ近い扱いにしていきたい」と話した。」
 パートナーシップ宣誓制度を利用すればずっと暮らしやすくなると思います。そしてみんなが豊かな人生を送れるならば大変喜ばしいと思います。
2023年2月12日

No.237
殿様商売で教員不足

 学校現場では今、教員不足が問題になっています。産休補助教員が欲しくてもなかなか見つからないそうです。近隣の某小学校では新年度になって急に産休に入ったために担任不在となり大慌てをしました。結局、教務主任が数か月担任を兼務しました。そして70歳近くになる人にようやく来てもらえたそうです。
 当地域は過疎化が進行しているために学校が閉校になったり、規模が縮小されたりして教員数が減少しています。少ない教員数で運営されているのでこういったことが起きます。
 ところで教員不足は全国規模で起きています。労働条件が悪いために学校はブラックだという評判が立ち、教員採用試験の受験者が減少したためともいわれています。確かにそれは一因であると思いますが、私はもう一つ別の要因があると考えています。それは教員採用のあり方です。
 小学校教員になるには小学校免許が必要です。中学・高校は教科で採用されるのでその教科の免許が必要です。教科の免許はそうそう空きが出ないので採用がもともと少ないのです。社会科免許の保有者数は特に多いのであぶれる者が多く出ます。逆に理科免許は保有者数が少ないので採用されやすくなります。
 小学校免許は大学で初等教育課程を履修しないともらえません。当地域では小学校免許さえあれば、小学校ではほとんど採用されます。しかし、中学校の採用試験に不合格になれば、小中のどちらかで講師をしながら次の採用試験を目指すしかありません。合格の保証はありません。中には5年も6年も講師を続ける人もいます。空きがなければ採用にならないからです。これはとても過酷な状況であると思います。こういった状況を受け入れられる人がどれだけいるでしょうか。
 さて、教員不足の件ですが、採用試験の受験者数は減少したとはいえ、まだたくさんいるはずです。中学校では不採用がたくさん出ているにもかかわらず教員不足が起きているのはなぜでしょう。中学校免許では小学校に入れないので通信教育を利用して小学校免許を取り直すしかありません。これには3年くらいかかります。その間は講師になるか臨時免許で働くしかありません。かなり我慢を強いられるわけです。これでは人材は民間へ逃げるでしょう。
 現在の教員採用は殿様商売です。民間企業との採用競争に負けるのは当然です。採用の仕組みをもっと柔軟なものに改める必要があると考えます。
2023年2月9日

No.236
コロナでスマートウォッチが活躍

 家族がコロナに感染して自宅療養になった時にスマートウォッチが活躍しました。容体を聞いてもはっきりわかりません。そんな時に患者にスマートウォッチをつけさせることを思いつきました。スマートウォッチで体温、心拍数、呼吸数、血中酸素濃度、血圧を1時間ごとに自動的に記録することができます。データはスマホで見ることができます。こうして患者に接触することも会話することもなく1時間ごとの容態の変化を観察することができました。
 これによると体温・心拍数・呼吸数・血圧が感染判明からおよそ三日間は高かったことが分かりました。体温は38度前後、心拍数は90毎分前後、呼吸数は80毎分前後、血圧は上が130前後、下が80前後でした。四日目になるとこれらの値が徐々に下がり始め、六日目には体温が36度前後、心拍数が80毎分前後、呼吸数が15毎分前後、血圧は上が120前後、下が8佩前後になりました。なお全期間を通じて血中酸素濃度は98前後で変化がありませんでした。
 コロナで亡くなる人が多いと聞いています。容体が急変した時はすぐに救急車を呼ぼうと思っていました。しかし、だんだん回復するのを確認出来て安心しました。
 家族の感染が分かると部屋に隔離するとともに、換気や消毒を徹底しました。おかげで他の家族への感染はありませんでした。今はどこで感染するかわかりません。まだまだ油断できません。
2023年2月6日

No.235
PCを無線ランにした

 ずっと以前からパソコンを無線ランにしたいと思っていました。そこで手軽な方法としてUSBワイヤレスというのを使ってみようと思いました。これは機器をUSBに指すだけで無線ランが使えるというものです。
 さっそくネットで探すと1300円程度という手ごろな値段であったので購入しました。
 うまく接続できるか心配でした。付属のCDでドライバーを入れ、セットアップし、必要事項を入力すると無事にルーターにつながりました。無線ランの完成です。有線ランの時よりも少し速くなったように感じたので満足度がアップしました。YouTubeなどネット上でいろいろ閲覧しましたが問題ありませんでした。1300円は安い投資でした。
2023年2月1日

No.234
ブラック部活神の降臨

 ネットの記事にブラック部活というのがありました。部活の顧問が部員に暴言を浴びせたり、体罰を加えたりするような部活のことでした。体罰や暴言の結果、生徒が自殺したり、大けがをして不登校になったりした事例が紹介されていました。これらの事例は以前にニュースにもなったりしたので覚えがありました。部活動におけるこのような不祥事は、表には出ませんがいくらでもあるのではないかと思います。
 部活動の指導は顧問に任されています。それで事例のような虐待ともいえる指導を行う顧問もいるのです。
 私の娘は中学1年・2年と吹奏楽部に所属して充実した生活をしていました。しかし、3年になった時に顧問が変わりました。新顧問は小学校から初めて中学校に転勤してきた若い男性教諭でした。最初の日に何が気に入らなかったのか娘は「お前のような者はいらない」と言われました。そういわれた娘はすぐに荷物を片付けて去ったのでした。新顧問に初日からそのようなことを言われて落胆したのでした。顧問から娘が辞めるのを引き留めてくれないかと電話がありましたが、どういう事情でそうなったのかを彼は一言も言いませんでした。事情を調べているうちにどうもこの顧問はいけないと思えてきました。1年間こういう顧問と一緒にいさせては娘が気の毒だ、壊されないうちに辞めさせた方がよいと判断しました。娘は読書部に移り、穏やかに過ごし高校に進学しました。
 生徒も保護者も部活はやらなくてはいけないものだと考えていると思います。しかし、部活なんぞやらなくてもなんでもないのです。部活を辞めたら高校進学に不利になるというようなことは一切ありません。それは学校や教師の脅し文句と考えてよいでしょう。私は中学校で進路指導をしていた時に部活動を問題にしたことはありませんでした。
 もとより部活動は教員による善意による奉仕活動でありボランティアともいえるものです。おそらく戦後の何もなかった時代にスポーツの楽しさを教えてあげよう一部の教員達が善意で始めたものだと推測します。その起こりについては私もわかりません。昭和30年代に部活動はすでに中学校に存在していました。運動部ばかりではなく新聞部、無線部、生物部、英語部、合唱部、器楽部など多種の文科系の部がありました。教員にとっても選びようがありました。
 さて、法令には部活動については一切述されていません。法令で定められたものでないことは明確です。しかし、部活動が代々引き継がれるうちに時代の要請もあり活動が活発化し組織化されるようになり、今や退っ引きならないほど大きくなったのだと思います。そして職務・義務であるかのように強制されるようになりると教員に大きな負担を強いることになり、学校はブラックであると批判され敬遠される原因になりました。
 学校と部活動の関係を考えているうちに、学校はいつの間にか部活動に乗っ取られてしまったと思えるようになりました。有益な教育活動であるという衣を身に着けて新興宗教のように学校の教育活動に浸透したのです。「庇を貸して母屋を取られる」の例えのようです。
 こう考えるようになったのにはいくつかの根拠があります。
(1)管理職、教育委員会は部活動を支持する。
 管理職自体が部活動体制の中で育てられ登用されてきた人たちですから、部活動が当たり前だと思っています。まして部活動でよい成績を上げれば自分の学校経営が評価されるので奨励するのです。校長には校長会というのがあって学校経営や人事のことが話し合われ、様々な情報が共有されます。異を唱える教員がいれば排除されることになります。
(2)教員は校務と部活動の板挟み。
 元々部活動をやりたくて教員になった人には天国かもしれません。大した人生経験もなしに子供相手にお山の大将ですから居心地がよいのです。でもこういう人は稀でしょう。現状では教員は毎日の授業の準備や膨大な校務分掌の処理、保護者との対応等の仕事があります。部活動のあとにこれらの仕事をするために毎日遅くまで学校に残って仕事をすることになります。
(3)職場の人間関係とパワハラ
 部活動をするのは当たり前と考えている教員もいます。特に部活動体制の中で育って教員になった人達には何の違和感もないようです。そして部活動はボランティアであるという認識はあるようです。しかし、部活動を一生懸命にやって学校を支えている自分たちは偉いのだと思い込む教員がいます。この類の教員達は部活動がうまくできなかったり、あまり熱心でなかったりする教員を見下したり、いじめたりするようになります。こういう職場風土は生徒たちにも伝染し弱い教員は校内で日陰者扱いになってしまいます。こうして部活動を背景にして威張り散らす教員が幅を利かせる職場カーストが誕生します。
(4)部活動は広域に組織された団体
 部活動の組織は一つの学校だけではなく、近隣地域の複数の学校及びさらに遠くの地域ともつながっています。それで市の大会、郡大会、県大会などの開催が可能になります。広域に組織された大きな団体と考えてよいのです。この団体はそれぞれの地域の教員によって組織されています。
 大きな団体は必然的に大きな力を持ち学校教育にも影響を及ぼします。今の学校教育はこういう団体の力を借りながら実施されているのです。部活動問題が一つの学校だけでは対処できないゆえんです。

 部活動に対して負のバイアスをかけて述べてきましが見逃せないよい面があります。仲間と練習に励む中で連帯感、責任感、礼儀、協力性、思いやりの気持ちなどが培われることです。これは授業だけでは得られないことです。部活動によって単調な学校生活に生きがいを見出している生徒も多いでしょう。それなりに有益な働きをして来ました。それで戦後何十年も続いてきたのだと思います。この良さは認めなければなりません。
 また、教員とて同じであるかもしれません。部活動に指導者としての喜びを見出し、目標をもって生きている人も多いかもしれません。部活動で仲間との共通の目標や連帯感をもって励むことにより生きがいや勇気を得ている人もいることでしょう。部活動は教員生活にとっても有益な働きをしていると考えられます。
 こういったよい点を認めながらも、いつかは改革しなければならない問題であるのは確かでしょう。
 学校と部活動はある意味で共生関係にあると言えます。お互いに頼っている部分があるのです。その関係があまりにも深く浸透し教育界の中枢にまで及んでいることが改革を難しくしていると考えます。
 部活動の発端は教員の善意による奉仕活動あり、今もそうあり続けています。従って、校務ではない部活動を強制するのは違法であると裁判を起こしてもいつも敗訴の憂き目を見ます。部活動は自発的な行為であり職務として命令を発せられていないからです。裁判では敗訴になっても、部活動が校務として扱われているのは既成事実であり、多くの教員が訴えている通りであると思います。
 時代が変わり部活動のあり方にも変化が求められています。60年も前、私が中学生のころは部活動に入るも入らないも自由でした。教員も今のような縛りはなく自由にやっていましたが、古きよき時代は終わりました。
 本来、学校と部活動は異質なものです。学校の職務と部活動のボタンの掛け違いを修正する時が来ていると考えます。有益な教育的活動であると言いう点で学校と共有できる面もありますが、学校における部活動の比重が大きくなりすぎて教員の過重労働の原因になっている現状を見ると学校は教育機関として本来あるべき姿を取り戻すべきであると思います。この問題が解消されて多くの若者が教師を目指すようになってほしいと願っています。
2023年1月25日

No.233
"淀ちゃん"海に帰る

 大阪湾の淀川河口付近に迷い込んで死んだマッコウクジラの"淀ちゃん"が、2023年1月19日に紀伊沖の深海に沈められました。深海に沈められた"淀ちゃん"は、たくさんの他の生き物の食べ物になります。そしてさらに長い年月をかけて微生物に分解されます。悠久のサイクルの中で多くの生き物の命を支えます。これは自然の摂理です。
 ところでクジラの死骸は時折海岸に打ち上げられます。河岸に埋められて骨格標本にされることが多いのですが、今回は深海に沈められました。色々なことを考えての措置だったと思います。
 "淀ちゃん"は体の不調により大阪湾に迷い込み、息絶えたのでしょう。こういう自然死は自然界ではよくあることでしょう。死んだ"淀ちゃん"を自然にゆだねたことは"淀ちゃん"にとって良いことであったと思います。
2023年1月20日

No.232
教員の時間外勤務訴訟の判決 その後

 2021年10月1日にこの判決が出ました。判決は敗訴でしたが、教職の現状に対する裁判官の疑問が投げかけられていました。それは教員の職務の現状を改善する必要があるというものでした。私の息子は判決にかなりがっかりしていましたが、敗訴とは言え労働状況が好転するのではないかと期待していました。しかし、千葉県の学校の状況は何も変わっていません。
 土曜、日曜の部活を外部に委託して教員の負担を減らそうとする試みが東京都や他県でちらほら出てきましたが、費用の問題や人材確保の点で壁が高いようです。そもそも部活動が既成事実となっているために、あえて手を付けずに黙っているところが多いようです。日本の働き方とは全く奇妙なものです。恐らく各県教育委員会も沈黙を続けるつもりでしょう。
 私の息子は当初、通信で小学校免許を取るつもりでいましたがやめました。もう教職に就くつもりはないそうです。もともと英語に堪能な彼はワークホリデーを利用してカナダに行くことになっています。その後別の仕事を探すつもりでいます。親としては寂しいのですが、息子の人生であるし人生は一度きりです。納得のいくようにさせようと思います。

「部活教の降臨」
 さて、学校の部活動は、もともとは教員のボランティア(善意による奉仕活動)でした。従って〇〇の部活動が無ければならないという規定(法令)はどこにもありません。どんな部活動があろうがなかろうが全く自由なのです。しかし、指導していた教員が転勤等でいなくなった場合に、残された生徒らが困るわけです。そこで新たな教員が割り当てられるということが続き、職務のようになってしまったわけです。そして教員は部活動をしなければならないという既成事実が出来上がりました。
 教員の意識にも問題があります。部活体制の中で育った教員達は現状に何も疑問を持たず当たり前だと思っています。そして部活で名を上げることが名誉だという思いから休みも返上して部活に励みます。いけないことに、うまく部活動ができない教員や部活動に積極的でない教員をばかにしていじめたりします。つまり、部活動で成果を上げている自分たちこそが本当の教員であり偉いのだという意識になります。また、部活動で名を上げた者の中から管理職に登用される割合が多いので、管理職自身が部活動のあり方に疑問を持ちません。むしろ自分の名誉になるとして喜んだり、進んで教員の管理や生徒指導に利用したりしてます。部活動組織は今や大きな団体であり教員人事にまで影響力を持っています。「軒を貸して母屋をとられる」の例えのように学校教育が部活動に乗っ取られているのが現状であると考えます。
 部活動自体は生徒の心身の成長のためによいものです。しかし、ボランティア活動を職務とみなしたというボタンの掛け違いを修正できぬまま様々な弊害が出てきたというのが現状です。
 学校にはびこった部活教を一掃し、教職員の本来あるべき職務と部活動の望ましい姿を取り戻すことがいま求められていると思うのです。 
2023年1月17日

No.231
スマートウォッチで心電図をきれいにとる方法

 スマートウォッチで心電図をとるときには指先を時計の電極に当てます。しかし、接触が悪くてきれいな波形が出ません。そこで電極パッドを皮膚に張り付けるようにしてみました。かなりきれいな波形がとれるようになりました。リード線の銅線を電極にテープで張り付けて使います。心電計を買おうと思っていましたがこの方法がうまくいったので、これでもう少し遊んでみようと思います。
2023年1月7日

No.230
年賀状じまい

 年賀状を減らしたいと思い続けていました。退職から十年たち、過去の職場の人達との形式的なやり取りが増えたからです。このまま惰性で続けているのもお互いに生産的ではないと思い始めました。そこで思い切って今年から年賀状じまいを始めることにしました。失礼にならないように丁寧に言葉を考えました。
 精査した結果、およそ三分の二の方に年賀状じまいを送ることにしました。名残惜しかったのですが、相手の方も同じ気持ちだろうと思って、こちらから切り出しました。残りの人達には、いつもよりも丁寧な年賀状を書くことができました。 年賀状じまいを送るとすっきりとした気持ちになりました。
2023年1月6日

No.229
新品のフルートでワクワク

 フルートを買いました。以前吹いたことがあるのでその時の感触が忘れられずまた吹きたくなりました。楽器の選定には迷いました。ネットを何度も見て参考にしました。メーカーはパール、型はPF505Eにしました。本来なら詳しい人に助言してもらえばよいのですが、そういう人もいないので、クロサワ楽器店にあったフルート奏者の要田詩織さん選定のものを選びました。何本もの中から音色がよく操作しやすいものが選ばれたものでした。新品の輝きには見とれます。手にすると滑らかな感触に感動しました。キーはパコパコとしっかり閉じます。頭部菅を吹くと安定した音が出ました。以前持っていたものは頭部菅と胴部菅のつながりが悪くてぐらぐらしました。キーもカチャカチャしていて持った感じもゴツゴツしていました。雲泥の差です。高くてもよいものを買うべきだと思いました。その方が上達します。
 20年の歳月を経ていたので音出しから始めました。はじめは楽に音を出せなかったのでYouTubeの動画を見てアンブシュアやアパチュアをやりなおしました。今はYouTubeで動画がたくさんあるので助かります。童謡などの簡単な曲を吹きたいと考えています。フルートは健康にもよいと思います。肺活量が上がります。  
2022年12月24日

No.228
あん食パン

 あんこを使ったパンには、昔から「あんパン」があり、 私の好物です。あんこがあるときには食パンに塗って食べたりしていました。あんことパンはよく合うと思います。
 「あん食パン」には初めからあんが入っています。あんの入り方は均一ではなく、偏りがあります。食パンのもちもち感とアンの風味が口のなかで合わさって新しい味が生まれます。この「あん食パン」は千葉県の茂原市で購入しました。
2022年12月23日

No.227
大腸カメラ検査

 大腸がんの定期健診で要精検になったので大腸カメラの検査を受けました。検便で潜血があったのがきっかけでした。ポリープがあったらどうしようとか最悪ガンであったらどうしようとかかなり心配していました。私は血液をサラサラにする薬を2種類も服用しているので手術ということになるとかなりリスクがあって面倒なのです。
 結果的には何でもありませんでした。しかし小さなポリープを2個とりました。術前と術後の写真を見せてくれました。術後の傷は白く潰瘍のようになっていました。
 ポリープから出血したのかと質問すると、ここからではないそうで、多分痔の出血だろうとのことでした。確かに痔による出血が何度かありました。
 ずいぶん心配しましたが何事もなく、しかもポリープまで取ってもらいました。
2022年12月20日

No.226
クリスマスとケーキ

 12月になるとクリスマスケーキはどれにしようかと子どもたちと相談しました。子どもたちは生クリームのケーキがいいと言います。しかし、私はバタークリームのケーキが好きなのです。どちらもおいしいのですが、バタークリームのケーキには子どもの頃から親しんだ味というか懐かしさがあります。それで我が家ではバタークリームのケーキになることが多いです。
 私が小学生であった遠い昔、クリスマスになると母がケーキを買ってきました。それでいつの間にかクリスマス=ケーキという習慣ができていました。この習慣は私の結婚後に引き継がれました。子供たちがみな成人した今でもクリスマス=ケーキなのです。
 私の父も母もキリスト教徒ではありませんでした。それでも12月25日はイエスキリストの誕生を祝う日として認識していました。クリスマスイブの12月24日には家族みんなでケーキを食べました。心が温かくなる素敵な思い出です。
 考えてみれば父も母も青春時代をつらい戦争で過ごしました。そういう暗い気分が色濃く残る中、家族でクリスマスケーキを食べて幸せを味わいたかったのかもしれません。
 12月になるとクリスマスの話題が増え、クリスマスケーキのCMを目にすることが多くなります。私はこれまで、こういう報道を見るたびに日本中が商業化の波に乗せられてしようもないなと思っていました。しかし、最近、これでもよいのではないかと思うようになりました。某ローカルテレビ局のキリスト教番組を見たのがきっかけでした。
 毎年、クリスマスにイエスキリストの誕生を祝い、ケーキを食べて家族や友人、恋人と幸せを感じることができるのなら何よりだと思います。クリスマスケーキは商業化とは無関係に多くの人達を幸せな気持ちにしてくれるのは確かだと思います。私はクリスマスケーキを大切なものだと思うようになりました。
2022年12月19日

No.225
ノストラダムスの大予言と黙示録が示す未来

 1970年代初頭に五島 勉さんが書いた「ノストラダムスの大予言」という本が出版されました。世界の終末を予言するものとして注目を集めました。予言に興味があった私はこの本を買って夢中で読んだものです。ほとんどは世界の終わりの様子で書いた不思議な詩の紹介であり、それに後藤さんの解説を加えたものでした。詩の内容は実に不思議でした。そういったことが起こるかもしれないなと思えましたが、あり得ないなとも思えました。
 ノストラダムスの大予言はT巻、U巻、V巻が出版されました。私は全巻購入して読みました。当時から見ると30年後の世界のことでした。しかし、それから50年が過ぎています。ずっとノストラダムスの大予言を忘れたことはありませんでした。
 世の終わりについて語るものがもう一つあります。新約聖書の「ヨハネの黙示録」です。これには世の終わり様子が物語風に描かれています。
 今回は「ノストラダムスの大予言」と「黙示録」を参考にして世の終わりについて考えてみました。

「ノストラダムスの大予言」から
1999の年、7の月 空から恐怖の大王が降ってくるだろう
アンゴルモワの大王を復活させるために
その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配するだろう

 この詩には年と月が明記されているので本の発売からおよそ30年後まで注目されていました。みなが注目する中、1999年の7月になりましたが何も変化はありませんでした。恐怖の大王は降ってきませんでした。
 それから20年後の2019年になるとコロナウイルスの爆発的な感染が中国から広がり始めました。感染力が強く、毒性も強かったので世界の人々を恐怖に陥れました。COVID19と名付けられました。私はこれこそが恐怖の大王であると考えました。
  ノストラダムスは王妃の質問に対して次のように答えています。

王妃「それはどんな怪物ですか? どんな姿をしておるのですか?」
ノス「姿は見えませぬ」
王妃「姿が見えぬ?」
ノス「はい。しかし誤解なさいませぬよう。幽霊という意味ではありませぬ。姿そのものはあるのかもしれませぬ。しかし、見えないのです。恐らく非常に高い空の上におり、目にもとまらぬ速さで降ってくるのでしょう。そのためか、それだけはわたくしにも見えませんでした」

 ノストラダムスはさらに自分が見た様子を次のように言っています。
「それが降ったあと、すべては変わり果てておりました。・・・信じられぬような未来の都や街々も、男とも女ともわからぬ人々も」

何によってそうなったのかとの王妃の問いに 対して答えています。
王妃「何によって? 戦いによってですか? 剣とか火と騎兵隊とか?」
ノス「いやそのいずれでもありませぬ。そのようなものではないのです。・・・しいて申せばそれは・・・さよう、何でもないものでした、何でもないものが降るのです。・・・それが恐怖の大王です。それによってすべては消え、失われ・・・元のかたちをとどめなくなるのです」

 恐怖の大王が空から降ってくるというくだりを私は航空機によるコロナウイルスの拡散を言っていると考えました。コロナウイルスは航空機によってあっという間に世界中に運ばれて蔓延しました。パンデミックが起こったのでした。それはまさに高速で高い空の上から降ってくることであると思いました。

 当然、年月の不一致が問題になります。私は「1999の年、7の月」は西暦ではないと考えました。キリスト教独自の尺度ではないかと。そして次のように考えてみました。

7の月=2020年(COVID19パンデミック)、8の月=2021年、9の月=2022年、 10の月=2023年、11の月=2024年、12の月=2025年、すると2025年が世の終わり(最終戦争?)の年になります。

 2022年2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻を始めました。当初、1週間で終わると思われた戦争はウクライナ軍の善戦により長引き、ロシア軍はじりじりと劣勢になっています。ロシア大統領プーチンは核の使用も有り得ると言っており、核の使用も辞さない態度です。世界中を巻き込んだ大戦争に発展しかねない危機を迎えています。

「アンゴルモワの大王を復活」
 アンゴルモワはフランスのある地方の地名であり実在します。それでフランスで過去にあった農民の大反乱によって引き起こされたフランス全土に及ぶ大きな戦乱が起こるのだろうという説があります。五島 勉さんはこの説をとっています。
 説はいくつかありますが、アンゴモルワはモンゴリアンのアナグラムであるとする説があります。モンゴリアンの大王とはチンギスハーンのことです。現在の世界情勢と照らし合わせて私はモンゴリアンの大王とする説をとります。これはアジアから出る強力な軍事力を持つ国家の指導者と解釈しました。これに該当する国は習近平が指導者である中国しかありません。

「1999の年、7の月」を西暦ではない尺度と考えると「7の月」の解釈が重要になりなす。COVID19が恐怖の大王ではない可能性も残ります。7の月の出来事は破滅への一里塚(目印)です。

 ここで新約聖書の黙示録に目を移します。黙示録はヨハネの黙示録と言われ、世の終わりの様子が物語のように書かれています。何のことを言っているのか具体的には分かりません。大昔の人であるヨハネが未来の出来事を見せられても理解できなかったでしょうから見たままの印象を物語風に描いたのかもしれません。

 黙示録には大バビロンと言われる大淫婦が出てきます。大きな力を持っていた諸国を従えていた大バビロン(大淫婦)は神の裁きによって滅びます。他にもいろいろな出来事が書かれていますが、歴史上のどのことかを特定することはできません。

 現在、NATO諸国からの支援を受けたウクライナとウクライナに侵攻したロシアとが戦争をしています。ロシアはこの戦争によって大きな損害を出しています。核兵器が使用されれば大戦争に発展することも懸念されます。さらに、軍事大国である中国がこの機に乗じて世界制覇をもくろんで行動を起こすかもしれません。私たちは世界の破滅の間際にいるのかもしれません。

 ノストラダムスの大予言と黙示録を基にして物語を考えてみましたが、こんなことにならないこと、くだらない予言遊びで終わってしまうのが一番よいのだと思います。

 東日本大震災は未曽有の大震災でしたが、それを予言した者は一人もいませんでした。別の見方をすれば、そんな悲惨な未来にならないように備えよと予言は語りかけているのかもしれません。
2022年12月3日

No.224
サルナシの実

 庭のサルナシの実が熟しました。熟したと言っても黄色や赤色になるのではなく、緑色のままです。しかし、実の表面がシワシワになって柔らかくなりました。落ちてしまうといけないので摘み取りました。
 指で押すと汁が滴り柔らかい緑色の果肉が出てきました。すすってみると甘いキウイの味がしました。それもそのはず、サルナシはキウイの原種なのです。
 このサルナシは、園芸店で購入した鉢植えを庭に植えかえたものです。蔓が大きく伸びすぎたので、また鉢植えに戻そうと思っています。鉢植えの方が手入れをしやすいと思うからです。また来年を楽しみにしています。
2022年11月20日

No.223
大腸がん検診で要精検に

 大腸がん検診で二日目の便に潜血があるということで要精密検査になりました。初めてだったので戸惑いました。今回が初めてだったので精検をやめようかとも思いました。実はこのところ便がひどく硬くて排便のたびに肛門から出血していました。そのせいだろうと思いました。しかし、調べてみると切痔のせいだろうとか勝手な理由で精検を受けないのは一番いけないとありました。自分の言い訳そのものでした。それで大腸カメラの予約をしました。
 大腸カメラを受けるにあたっては、前日の夜から翌日の昼まで下剤を飲んで腸内をきれいにしなくてはなりません。これが結構大変です。検査時に小さなポリープがあればその場で切除できるが、大きなものの場合は別の病院を紹介すると言われました。
 私は六月に心筋梗塞をやったばかりで血液をサラサラにする薬を二種類飲んでいます。出血が止まらなくなるのを医師は心配したのです。検査は一か月後です。異常がないことを祈るばかりです。
 この二年間は、股関節手術に心筋梗塞と立て続けでした。よい正月を迎えることができるかなと思っていた矢先のことでした。何事もないだろうと思っていますが、万が一のことがあってもしっかり対処しようと思います。
2022年11月19日

No.222
股関節手術二年後の診察

 股関節手術後二年目の診察に行ってきました。
 レントゲン撮影が終わると程なく診察が始まりました。医師に「お久しぶりです」と挨拶すると、「一年ぶりですね」と医師がにこにこして答えました。
 画面にはくっきりと大腿骨に差し込まれた金属製の股関節が映っていました。何も不具合は無さそうでした。この金属の関節が自分の体を支えてくれているのだと思うと有難くなり、じっと見つめました。くっきりとした映像が美しく感じました。
 痛みはなく、すっかり自分の体に同化していること、立ったり座ったり、歩くことも不自由なくできることを伝えました。医師は嬉しそうに頷きました。
 それと心筋梗塞で入院したことを伝えると、医師は少し心配そうな顔になりましたが「散歩をしていますか。運動することも大切なので歩くようにしてください」言いました。
 術後の経過が順調だし診察が早く終わったこともあり清々しい気持ちになりました。帰路の山肌は紅葉が始まっていました。 
2022年 11月5日

No.221
子どもから目を離すな

 9月下旬に市川市の河川敷のあたりで女児が行方不明になり、2週間ほどたって15キロ離れた江戸川の河川敷で付近を散歩していた人により遺体が発見されました。死後2週間ほどたっていたとのことでした。
 行方不明になったとみられる市川市の河川敷で女児の靴下と靴がきちんとそろえと置かれているのが見つかりました。
 そこから川岸までは草が高く茂っており、茂みと茂みの間には細い水路があり、川岸までの距離は数十メートルほどだったと思います。そのため女児がどうして水路を迂回して川岸に出なかったのだろうと疑問が持たれました。このことについて私はこう思います。

「女児は裸足になって水路を歩いて川に出た」
 水路は水が溜まっていたものの狭くて浅いものでした。そこからは川が見えるので、女児は裸足になってそこを歩いたのだと思います。それで靴と靴下が離れた場所にあったのです。

「子供は小さな大人ではない」
 大人ならこんなことはしないだろうと思うようなことを子どもはどんどんやってしまします。それで思いもよらない事件・事故が起こります。

 以前、父親に叱られて山の中に置き去りにされた小学生男児が行方不明になった事件がありました。大がかりな捜索が一週間以上行われましたが発見できませんでした。しかし十日ほどたってから近隣の自衛隊の演習施設の建物内にいるところを見回りに来た隊員によって発見されました。
 この場合は捜索隊がこっちの方にはいかないだろうと判断して捜索しなかったとのことでした。「大人はそう思っても子供はそう思わない」ということだと思います。大人の見方にとらわれていると子供の行動が理解できません。

 数年前には山梨県のキャンプ場で当時小学1年生の女児が行方不明になる事件がありました。長期にわたって捜索がくり広げられましたがとうとう発見できませんでした。しかし、今年になって離れた沢で女児の衣服、靴、骨の一部が発見され、女児の死亡が確認されました。

 いずれの事件も親が目を離したすきに起こっています。私は子どもが生まれたときに「絶対に子供から目を離してはいけない」と親に何度も言われました。目を離したすきに大変なことになると肝に銘じなければならないと思いました。
2022年10月15日

No.220
房州へ一泊旅行

 千葉県の県民割の最終日、夫婦で館山市白浜の野島崎灯台に行ってきました。宿は灯台近くのホテル「南海荘」です。
 旅行の1日目は雨でした。夕方には少しの間雨があがりました。傘をさして灯台の周囲の磯を散策しました。
 夕食はバイキングでした。テーブルで焼いて食べるサザエとハマグリ、寿司がおいしかったです。私は塩分を制限されているので減塩しょうゆを持参しました。バイキングは自分で選べるので楽しいです。その他、てんぷらや焼き肉に人気がありました。
 2日目は快晴、朝食はバイキングです。私は主に、パンとミルク、おかゆですませました。テーブルで焼いて食べるアジの開きに人気がありました。おいしかったのですが、私には塩がきつかったので少しにしました。
 遊覧船が運航していたので、せっかくなので乗ってみました。一人800円でした。大きなレトリバーがいたのでびっくりしました。船長の飼い犬でした。
 船底がガラス張りで海底の様子を見ることができました。カジメなどの海藻の間を泳ぐ魚が見えました。海は穏やかで揺れも小さく、およそ20分の気持ちの良い遊覧でした。
 次は野島崎灯台に登りました。螺旋階段をぐるぐる登ってようやく最上階につきました。そこからは360度見渡すことができました。遠くの海上には先ほどの遊覧船が見えました。
 しばらくあたりを散策したり、記念写真を撮ったりした後、館山市の佐藤バナナ店に向かいました。佐藤バナナ店は以前にテレビで紹介されたバナナの専門店です。ずっと行ってみたいと思っていましたが、ようやく願いが叶いました。台湾バナナとエクアドル産のバナナを買いました。そして途中の道の駅で昼食をとり、家路につきました。
 私は心筋梗塞を患い、退院してから3か月後の旅でした。色々と不安があったのですが近場であったのと一人1万円の割引と2000円のクーポン付だったのとで思い切って出かけました。何もかも忘れて食事をしたり遊覧船に乗ったりしたことなど一日一日の出来事が美しい写真のように心に残りました。
2022年10月3日

No.219
三年ぶりの秋祭り

 9月23日に三年ぶりに秋祭りが開催されました。1日限りですが、神輿が出て地区を回る村回りをします。三年ぶりにみこしを担いで、担ぎ手はみな生き生きとしていました。ホラヤッサ、ホラヤッサの掛け声とともに地区を回ります。
 二つの神輿が出会いました。互いに再会を喜び合って、神輿を高く掲げました。大原にとって祭は一年のかなめです。秋の収穫と皆の健康、コロナの終息を祈りました。
2022年9月23日

No.218
にぎやかなクマゼミ

 この夏はクマゼミがにぎやかでした。10年前には見かけなかったセミです。透きとおった翅と黒くて大きな体で堂々としたセミです。庭のトネリコに朝からやってきてシャンシャカと大声で鳴いています。一匹捕まえてみました。名前の通り大柄で頑丈な体です。
 近所のトネリコでは沢山のクマゼミが大合唱です。トネリコを好むようです。シャンシャンシャンという大きな鳴き声が暑い日差しの下で響き渡ります。何処に止まっているのかとつい探してしまいます。
 クマゼミの声を聞けるのは、夏の短い期間です。夏が終わってすっかり静かになると元気な鳴き声が恋しくなります。
2022年9月21日

No.217
今年もこんにちは!ナナフシさん

 夏に必ずナナフシがやってきます。足をまっすぐに伸ばした姿勢で薄茶色のナナフシがガラス戸や網戸に止まっています。どうやら庭のトネリコに住んでいるようです。
どうやってここに来るのだろうと不思議に思っていたところ、小さな羽をパタパタと羽ばたかせてナナフシが飛んでくるのを見ました。網戸にじっとくっついている様子は割りばしが張り付いているようにも見えます。半日くらいするとどこかへ行ってしまいます。
 悪いことをするでもなく割りばしのようにじっとしているナナフシ。来年も来てよとそっと声をかけます。
2022年9月14日

No.216
スマートウォッチで心電図

 スマートウォッチの戦国時代と言われるほど多種多様なスマートウォッチが販売されています。
 私は心筋梗塞をやったこともあり、自分の心電図を見たいと思って、心電図計付きのスマートウォッチを購入しました。購入したものは、心電図、血圧、心拍数、血中酸素濃度、呼吸数、体温測定、その他、スポーツ関係に対応したもので6000円台のものです。SmartHealthというアプリが対応していて、QRコードでインストールできます。
 心電図はアプリから起動するときれいに心電図が取れます。AI診断で分析もしてくれます。退院以来、初めて自分の心電図を見ました。
 血圧計は血圧校正で合わせます。そのためには基準になる測定器が必要です。私は市販の手首血圧計で合わせています。それでもかなり大まかに自分の血圧の変化が分かる程度です。血圧校正は血圧の上と下を別々に設定しますが、なかなか満足な設定ができません。従って、ある程度のところで妥協します。朝昼夜で設定のパターンを変えるのもよいと思います。
 心拍数は警戒値を設定しておけばその数値に達したときに通知してくれます。これが一番役に立つと思います。
 「座りすぎ注意」では、設定した時間を超えると時計に警報が出ます。これは重宝しています。私は1時間に設定しています。
 充電はUSBコードで行います。時計側にはマグネットでパチンと付く端子がついています。私はパソコンのUSBを使っています。頻繁に使うので週に1回は充電します。電池の持ちはよいと思います。
 測定結果は時計の表示で見ることができますが、スマホやアイホンにアプリを入れて同期させるとデータの管理や細かな設定ができて便利です。
 スマートウォッチ数千円から数万円のものまであるので使用目的に合わせて購入するとよいと思います。
2022年9月10日

No.215
4回目のコロナワクチン接種

 4回目のコロナワクチン接種を受けました。ワクチンはモデルナです。接種から3時間程すると頭痛がしてきました。接種部位も熱を持ってきました。この時点でカロナールを2錠飲みました。その後、熱が上がることはありませんでしたが、接種部位が腫れて痛くなりました。夜中に発熱するといけないので、念のためにカロナールを2錠飲みました。
 翌日、熱はほぼ平熱でしたが、接種した左腕に痛みと熱があり、上半身がだるかったのでカロナールを1錠飲みました。しばらく横になっていると午後には体が軽くなり、夕方には回復しました。早目にカロナールを服用したのがよかったと思います。
 コロナワクチン接種は、人によっては40度も熱が出たりと副反応が強いので、敬遠したい人も多いと思います。本来は、もっと副反応のないワクチンが開発されるべきだと思います。5回目のワクチンがあるとしたら遠慮したいと思います。
2022年9月4日

No.214
庭にシラサギがやって来た

 朝、駐車場に白い大きな鳥がいました。シラサギでした。高さが40pほどもあるでしょうか。真っ白な羽毛でした。首が長く、黄色い円い目と細くとがった黄色い長い嘴を持っていました。サギは細くて長い足を交互に動かして玄関にやってきました。そしてプランターをつついて芋虫のようなものを食べました。またゆっくりと戻って庭の入り口に来ました。入り口には網が張ってあり、動物が出入りできないようにしています。サギは網の前でじっと考え込んでいるように見えました。庭に入りたいのだろうと思って、網を外してやりました。
  サギはゆっくりと庭に入っていきました。時々立ち止まっては何かをじっと見つめています。まるで庭を探検しているようです。ひとしきり歩き回って裏庭の入り口に来ました。ここにも網が張ってあります。サギは網を通り抜けたそうにしていました。そこで網を外してやるとススッと足早に裏庭に入りました。裏には柿の木とビワの木があるだけです。ちょっと間をおいて裏庭に目をやるとサギの姿はありませんでした。飛び去ったようです。
       サギを見つけてから飛び去るまで、およそ10分くらいでしょうか。この間私と妻は何枚も写真を撮りました。警戒心の強い野生の鳥が庭を探検していったのはとても珍しいことだからです。私とサギはツーショットにも収まりました。白い鳥が来るのは幸運の印だそうです。どんな幸運があるのでしょうか。この日一日、幸せな気分でした。
2022年8月26日

No.213
プラリペアを使ってみた

 プラスチック製の部品が欠けてしいまって困ることがあります。力のかかる場所は接着剤では無理です。こんな時、プラリペアを使うと破損した部分を作り直したり頑丈に接着したりできます。私はこれでエアガンのバネの力が加わる部分の欠けた部品を補修したところ頑丈に接着することができました。接着する部分にV字の切込みを作り、そこに溶液と粉を混ぜた造形剤を流し込む仕組みです。造形剤はプラスチックを溶かしつつ5分で固まります。非常に強力です。商品には材質ごとの接着方法の説明書がついています。説明書の通りにやれば簡単にプラスチック部品の補修ができます。
2022年8月8日

No.212
センチメーター 10禁電動ブローバック

マルイ センチメーター 10禁電動ブローバックの紹介です。 対象年齢10歳以上、HOP UPで飛距離25m以上、単4アルカリ乾電池4本使用(別売)、0.12gBB弾100発、安全キャップ、クリーニングロッ付属
 説明書通り単四アルカリ電池を使用しています。安全装置とハンマーはダミーで動きません。グリップを握ると安全装置が外れて発射できるようになります。その他、スライド以外は動きません。コンペンセイター(マズルブレーキ)は金属製です。下側にプラスチックを折った跡がありますが、全体的にはきれいな仕上がりです。値段的に見ればよい方だと思います。
 ブローバックはカシャンカシャンとよく動きます。音がうるさいので夜間は使用を控えています。
 初速はネットの参考ですが38から39くらいです。屋外で撃ったことはないので25m以上飛ぶかどうかは分かりません。パワーは段ボールに跡がつく程度です。
 レビューによると1ヶ月くらいでピニオンギヤが割れて、発射できなくなる場合があるようです。このセンチメーターもやがてはピニオンギヤが割れると思います。その時はギヤを購入して自分で直します。
 エアガンでちょっと遊んでみたい人にはよいと思います。
2021年7月22日
 

No.211
ススキにヤマトコマチグモの巣
 ススキの葉が折りたたまれているのを見つけました。開けてみると茶色いクモがいました。ヤマトコマチグモというクモの巣でした。よく見ると巣はたくさんありました。近い種類にもう少し大きいカバキコマチグモがあります。どちらも噛まれると非常に痛いそうです。
2022年7月21日

No.210
トネリコに群がるミツバチ
 ブーンと何かがうなる音がするので音のする方を見てみるとトネリコの花に沢山のニホンミツバチが群がっていました。大きなクマバチもいました。蜂たちは一生懸命に花粉を集めていました。この蜂(虫)たちがぶんぶん群がる様子が「バズる」の語源です。
 このトネリコは10年近く前に犬に日陰を作ってやるために植えたものです。
 トネリコは街路樹や庭木として植えられています。昔は田んぼの畔に植えられて、稲を干す稲架木として利用されていました。枝が太く弾力性があることからバットやテニスのラケット、家具の資材として利用されてきました。
 名前の由来には、樹皮を煮詰めて粘り気のある状態にしたものを「共練濃(トモネリコ)と呼んだとする説や、木につくイボタロウムシが分泌するロウを塗って戸の滑りをよくする「戸塗り木」と呼んだことに由来するという説などがあります。
2022年7月11日
 

No.209
サルナシの実
 サルナシの実がたくさんつきました。緑色でソラマメくらいの大きさです。鉢植えを買ってきてその後、植え替えたものです。数年してようやく根付いたようです。実は食べられますが、まだ食べたことがありません。山の動物が好んで食べるようです。
 「サルナシ」 マタタビ科の雌雄異株または雌雄雑居性つる植物です。仲間にはマタタビがあります。
 キウイフルーツはサルナシを品種改良したものです。ビタミンCなどの栄養価が高く、たんぱく質分解酵素を大量に含み、疲労回復、強壮、整腸、補血などの効能があると言われています。 
2022年7月8日

No.208
内蔵HDDを外付けに

 PCのSSD化によって余った内蔵HDD500GBを外付けにして使うことにしました。使ったものは次の通りです。
@ USB3.0 SATA HDD 接続ケーブルと補助電源アダプターを購入
A HDD管理ソフト AOMEI Partition Assistant , MiniTool Partition Wizard 各無料

 まず、HDDをフォーマットして利用可能なドライブにしておきました。これはUSB2.0別のケーブルでやっておきました。
 USB3.0 接続ケーブルが到着したので、繋いでみましたが不明となっていて認識されません。レビューにも「認識されない」というのがいくつかありました。USB]を抜いたり刺したり、再起動をかけたり、シャットダウンをしたりと色々やりましたが認識しません。別のケーブルでやると認識します。
 そこでUSB3.0のソケットを隣に差し替えるとポンポロポーンと音がして認識され500GBのドライブが認識されました。どうやら機器の相性の問題であるのかもしれません。また、USBの接点をきれいにすることも大事だと思います。接触不良の場合があります。
 500GBの外付けHDDとして使えるようになりました。パーティションを分割しました。
 パーティションのチェックをしましたが、不良セクタはありませんでした。健康状態は正常でした。
 起動回数や使用時間を見るとかなり長く使われたものでした。
 「AOMEI Partition Assistant , MiniTool Partition Wizard」この二つの無料ソフトはよく使われています。AMOMEIにはできなくても、MiniToolにはできたり、その逆もあるので二つ持っていると便利です。
 ちなみにクローン作製には「Macrium Refleci 8」、HDD診断には「Crystal Disk Info」を使っています。どちらも無料です。
2021年7月16日
 

No.207
HDDからSSDへクローン作製

Fujitsu Esprimo D752/E搭載の500GB・HDDのクローンを240GBのSSDに作ってみました。ちなみにCPUはi7です。

使用したものは以下です。
@PCとSSDをつなぐ専用ケーブル
A240GBのSSD(クルーシャル製)以前使っていたもの
Bクローン作製ソフト 「Macrium reflect8」 無料ソフト

〇SSDをフォーマットして空にします。新品では必要ありません。
〇SSDをUSBでつないでMacriumを起動すると全ドライブが表示されます。
「コピー元ドライブ」と「コピー先ドライブ」を選びます。
〇HDDとSSDのボリュームが違うので「ドライブに合わせてパーティションを拡縮する」という項目を選びます。これで自動的に500GBパーティションを240GBに合わせてくれます。ちなみにこの項目は左隅にある縦のツールバーの下から三番目の「コピー」にあります。
〇各種設定ごとに「次に」で先に進みます。最後は「終了」を押します。
エラーで3回失敗しましたが、その都度対策を講じて4度目に成功しました。
およそ1時間半でクローンが完了しました。

PCで動作を確認しましたが、不具合はありませんでした。
効果としては、起動時間が半分ほどになりました。画面の表示が速くなりました。爆速というほどではないですが、動作が速くなったのは確かです。
「Macrium reflect8」は、個人利用の場合が無料です。基本的には英語表記ですが日本語表記を選べます。操作が簡単で使いやすいです。
HDDでも不満はなかったのですが、遊びでやってみました。
これでi7、SSD、グラボ付きのPCになりました。
2022年7月9日

No.206
心筋梗塞闘病記

心筋梗塞闘病記 はじめに  心筋梗塞になり死の縁まで行ってきました。これからその闘病記を書きますが、まだ安定していないので少しずつ進めたいと思います。心筋梗塞は致死率の高い怖い病気です。ある程度の年齢になられた方は心配している方も多いと思います。そういう方々に何かしらの参考になればと思います。

「心筋梗塞のサイン」
 今思えばいくつか思い当たりますが、それらは皆ごく普通のことばかりでした。これは間違いなく心筋梗塞の前兆だと思えたものはありませんが、いくつかあげてみます。
@ 疲れやすくなったこと。 散歩中に下半身が異常にだるくなりました。一休みすると治るのでした。朝からだるくてゴロンと横になることが多くなりました。何か変だと感じましたが、疲れがたまっているのだろうと思いました。
A 強い胸やけを感じた。   これは、散歩に出て歩き始めたときに二回ほど感じましたが、直前にヤクルトを飲んだり、茶まんじゅうを食べたりしたので、そのせいだろうと思いました。
B 歯が痛くなった。   虫歯はないのですが、歯根がびりびりと痛みました。これは以前にも時々あったので特に重大とは思いませんでした。
C 右肩の痛みがひどくなった。   右肩にしつこい痛みが出たので湿布を張っていました。パソコンのやりすぎで腱鞘炎を起こしたのだと思いました。

 どのサインも、個々に見れば特別なことには思えません。しかし、@ABは発病の直前になって起こったことでした。これらのことをジグソーパズルのように組み合わせたら、あるいはもっと早く異変に気付けたかもしれません。

「死が突然扉をたたいた」
 その晩は、昼間の胸やけのよう痛みもおさまり、普通に夕食を食べて過ごしました。22時ごろ床に就くときにかすかな胸やけを感じました。薬を飲んだ方がよいかなと思いましたが、軽かったのでそのまま寝ました。
 夜中の2時ごろに思い胸の痛みで目が覚めました。寝ているのも苦しくなったので起き上がってじっとしていました。胸の痛みは次第にはっきりとした痛みにかわりました。胸の底から灼熱のマグマが噴出して胸を焼くような拍動性の痛みでした。よく言われる胸を締め付けられるようなとか圧迫されるようなという痛みではありませんでした。もしかしたら死ぬかもしれないという恐怖感も出てきました。水を飲んでも胃薬を飲んでも収まる気配がありませんでした。思考を高速でスクロールさせました。もし血管が詰まりつつあるのなら降圧剤が有効だろうと思って普段使っている降圧剤を一錠服用しました。そうこうしているうちに夜が明けました。妻と二人で朝一番でかかりつけの○○内科に行きました。
 胸が痛いと告げると医師は「胸が痛いと訴える方は多いのですが、ほとんど肋間神経痛ですよ」と軽い気持ちでした。「しかし、一つ一つ確かめればよいのだから心電図と血液検査をします。10分で結果が出ます」と言いました。
 10分後に結果が出て診察室に呼ばれました。ドアを開けるや否や「心筋梗塞です。すぐに入院です」という言葉が耳に突き刺さりました。
 「亀田総合病院に連絡を取ります。救急車を手配します。この辺りでは亀田総合病院が一番いいのです。救急車は5ア分後に到着します。亀田総合病院が受け入れてくれます。」と医師はてきぱきと動いていました。救急車を待つ間、「バイアスピリン10mg」を二錠服用させてくれました。この措置は適切だったと思います。
 ストレチャーに乗せられて救急車に運び込まれました。バタンとドアが閉まるとそこはもう違う世界でした。救急車は亀田総合病院に向かって走り出しました。ゴーゴーガタガタと猛スピードです。「救急車が通ります。道を開けてください」というアナウンスが時折聞こえました。私は時折かすかに見える窓の外の風景を見ては今どのあたりを走っているのだろうかと思いました。しかし、ほとんどは天井を見つめていました。時々、救急隊員が「痛みはどうですか。10の内どれくらいの痛みですか」と話しかけてきました。そして私の目じりの涙を拭いてくれました。南房総の鴨川市にある亀田総合病院までは、普通なら60分ほどの距離ですが、とても長く感じました。やがて救急車のスピードが落ちてきて到着したことが分かりました。
 救急車のドアが開けられると数名の病院スタッフが待ち受けていました。若い男女の医師と暗赤色のユニフォームを着たオペ看の姿が見えました。オペ看とは手術専門に従事する看護師です。この時、これからすぐに手術室に向かうことが分かりました。「せーの」の掛け声でストレッチャーから搬送用の台に乗せられ、長い廊下を何度も曲がりました。いったいどうなるのだろうと不安でした。しかし、もう身を委ねるしかないと覚悟を決めました。

「ステント手術」
 「せーの」で手術台に乗せられると、素早く衣服を脱がされ、素っ裸になりました。短い浴衣のような衣服を着せられると検査が始まりました。MRI、X線などであったと思います。意識が朦朧としていたのではっきり見えませんでした。心臓の造影検査に続いてカテーテルによるステント留置の手術が始まりました。カテーテルは右手首から挿入されました。細長いものが腕の中を通っていくのが分かりました。痛くはありませんでした。
 医師は二人いたようです。会話が聞こえました。
「先端の曲がりが悪い、交換しよう」「3.4mmにしよう」「到達した、ここに置く」「開きが悪いな、硬いのかな」「血流が再開したが、流れが悪いな」など。朦朧としていたので記憶違いもあると思います。右側の冠動脈が一本、完全に詰まっていたそうです。手術はとても長い時間に感じられました。

 手術後はICUに移されました。担当の若い女医が「どうですか、痛みはありますか」というようなことを話しかけてきたように思いますが、はっきりしません。私の顔をのぞき込む大きな黒い瞳をはっきりと覚えています。このころには痛みが10の内の1くらいになっていました。晩には痛みはほとんどなくなっていました。左腕には点滴の管が2本、下には導尿の管、胸には心電図の電極がついていました。
 動けない私を暗赤色のユニフォームの看護師が世話をしてくれました。採血、血圧測定、体温測定が頻繁にありました。空腹を覚えたので夕食について尋ねると検査の結果による医師の判断ですと言われました。食事ができたのは翌日の昼でした。夜になって、明日は一般病棟に移ることを伝えられました。9時ころには電気が消され、ICUにポツンと残されました。寒くてよく眠れませんでした。家族のことパソコンのことなど色々なことが頭をよぎりました。

 一般病棟に行く前に看護師が体を拭いてくれました。先ず上半身を拭いてそれからおむつを外して下半身でした。下半身は少し恥ずかしい気がしました。そんなことを言うと「大丈夫です、見ていませんから」という答えが返ってきたのでほっとしました。つまんだり、裏返しにしたりして洗われている感じがしました。清潔になった感じがしました。次に「導尿の管を抜きます、少し変な感じがするかもしれません。」と言って管を引っ張りました。スルスルッと抜けるのかと思ったら、ズズズッと結構痛かったので息を止めて我慢しました。それから紙おむつをはかせてくれたようです。ようですというのは、覚えていないのです。 午後に車椅子で一般病棟に移動しました。押してくれたのはICUにいた男性看護師でした。「気長に治療してください」と彼が言いました。焦ったからといって早く治るものでもないと思いました。

 いよいよ一般病棟での生活が始まりました。私は二人部屋に入りました。
「心臓食」
 「心臓食」というカードに献立が書かれていました。とても薄味でしたし、食欲がなかったのでおかずは全部食べましたが、ご飯は半分残しました。でもデザーでスイカが出ました。スイカがとてもおいしかったのでスイカだけでもいいと思いました。しかし、医師からきちんと計算されて作られているので全部食べたほうがいいと言われました。
 デザートには、バナナ、パイナップル、リンゴ、オレンジが出ました。私はデザートから食べ始めました。副食としては、ヒレカツ、豚の生姜焼き、餃子、中華丼風、酢の物、味噌汁、野菜の煮物、半熟卵などが出ました。ソースや醤油は塩分50%減の物でした。主食は主にごはん、週一、黒糖パンとロールパンが計二個、チャーハン、蕎麦が一度だけ出ました。病院食にしては豪華でおいしかったと思います。一週間もしないうちに薄味になれました。体調が回復してきたのでしょうか、腹が減るようになって残さず食べるようになりました。廊下を歩けるようになってからは、その日の献立を確認するようになりました。

「リハビリ開始」
 入院二日目からリハビリがありました。はじめに理学療法士が血圧と心電図を計測します。それから医師の前で30秒間立ちます。もう一度血圧と心電図を見て終了です。これに合格すると歩いてトイレに行くけるようになります。無事に合格しました。この時点で洗面所もいいだろうと気楽に考えるようになりました。ところが洗面所から帰ってきたところを看護師に見つかり、「言われたことを忘れたのですか」と叱られました。自分の認識の甘さを反省しました。心筋の損傷した部分がまだ弱いので最悪の場合には裂けてしまう恐れがありました。細心の注意が必要でした。
 二回目は50m歩くというものでした。リハビリ前後に血圧と心電図を計測するのはいつも同じです。理学療法士と医師の立ち合いのもとにフロア内を50m歩きました。これも合格でした。これで洗面所と給湯所もOKになりました。  三回目はフロア内を200m歩くというものでした。これに合格するとフロア内をどこでも歩くことができます。今度は不合格でした。心電図にわずかに不安な点があったというのが理由でした。
 四回目は再度の200m歩行でした。これは合格しました。これでフロア内をどこでも歩けるようになりました。海が見える所に行って広い海を眺めました。翌日から二日間は土日だったので自主的に歩き回りました。日曜日には朝から結構歩き回ったと思います。ところがその晩の就寝時に胸に軽い痛みを感じました。あの時と同じような痛みでした。しまった、心臓に負荷をかけすぎたか、ナースコールをしようかとためらっていましたが、幸い10分程度でおさまりました。翌朝、巡回の看護師にそのことを告げると「そういう時はどんなにに小さなことでもすぐに知らせてください。それが重大なことにつながるかもしれないのですから」ときつく叱られました。担当の医師からも同様に叱られました。
 5回目はリハビリ室で自転車こぎでした。決められた回転数で6分間ペダルをこぎ続けました。苦しくなることはありませんでした。心電図もOKでした。
 6回目は手でぐるぐるとハンドルを回す上半身の運動でした。少しずつ抵抗を増やしながら一定の速さで6分間ハンドルを回し続けました。心配でしたが苦しくなることもなく無事に終わりました。今回はもう一度自転車をこいで終了しました。立ち会っていた担当の医師から「今日以降、退院していいですよ」と告げられました。予想もしていなかったので少々当惑しました。妻と相談の結果、明後日の午前中に退院と決めました。
 7回目のリハビリが退院の前日にありました。コーンが置かれた20メートルの距離を6分間歩きました。リハビリの仕上げだったと思います。はじめは軽かった足がだんだんと重くなり、少し息が切れてきましたが、何事もなく終了しました。明日は退院です。

「奇妙な夢を見た」
 病棟は21時には消灯でした。入院していると夜が長くて厄介でした。 眠りにつこうと静かにしていると、昼間には感じなかった胸の違和感がはっきりと現れました。何かが胸につかえているような少し重い感じです。寝ている間に痛くならないかと不安がよぎります。
 2時ごろに目を覚ますことが多くて、これも困りました。夜中に起きてトイレまで歩き用を足すのは体にとって負担であったし不安でした。それで時々尿瓶を使いました。
 いったん目が覚めると寝つけなくなりました。明け方の5時ころまで寝ているのか覚醒しているのか分からない状態が続きます。
 入院してからは、ずっと心電図計をつけていました。これで離れたナースステーションのモニターで常時心電図を確認できるようになっていました。波形に異常があるとすぐに医師がやってきました。心電図計にも小さなモニターがついていたので暇があると自分の心電図を見ていました。
 三日目の夜は睡眠時の状態を調べる装置を胸に付けて寝たので、余計に寝苦しくなりました。両手の人差し指には心電図計のパルスオキシメーターと睡眠を調べる装置のパルスオキシメーターがついていました。そして案の定、2時ころに目が覚めました。半分眠ったような状態で朝まで耐えなければなりません。こんな時は色々なことが頭に浮かびます。暗闇の中で指先の二つのパルスオキシメーターが赤く輝いていました。まるでホタルイカのようでした。
 寝ているのか覚醒しているのか分からないような状態でも夢を見るのでしょうか。そういったものを二つ紹介します。

「自分の命を見た」
 真っ暗闇の中でした。掌中に白く輝く光を見ました。それは自分の魂か命ではないかと思いました。輝く光を覆っていた殻のようなものがはがれていくのが見えました。この殻は自分が大切に思っていた職歴、学歴、名誉、財産等でした。もはや自分には命しかないことを悟りました。

「お迎えが来た」
「じゃあ、もう行こうか」と妻が言う声に促されて車に乗りました。運転する妻に何か普段と違う雰囲気(違和感)がありました。 「それにしてもこんなに夜遅くどこに行くのだろうか、でもついて行ってみるか」と思いました。闇の中を車がゆっくり動き出しました。夢はここで途切れました。目が覚めてからもその情景を何度も思い出しました。ちなみに「キリマンジャロの雪」は、ヘミングウェイの小説です。この夢と重なり合う部分があります。
 夢はいつも奇妙なものですが、この二つの夢はとりわけ奇妙でした。しかし、自分の置かれた状況やこれからの生き方について考えさせられました。

「隣人との交流」
 退屈な入院生活の中にも交流が生まれました。私のベッドの隣は小山(仮名)さんという高齢者でした。その人と看護師たちとの会話が聞こえていきました。その人は首から下を動かすことができませんでした。近くの障害者施設から来て、もう二か月入院していることが分かりました。食事は看護師から食べさせてもらっていました。楽しそうに会話しながら食べていました。ベッドはカーテンで仕切られているので姿を見ることはありませんでしたし、言葉を交わすこともありませんでした。私自身、それどころではありませんでした。
 病室に来てから二日ほど立った日の夜中のこと、隣からギシギシという音が聞こえてきました。
「どうかしましたか」と声をかけてそっと隣へ行ってみました。すると「体が痛くなってきたのでベッドの角度を低くしてもらいたいのでベルを押しているけれど来てくれない」というのです。夜間は看護師も手薄になり、ナースコールが通じにくくなります。
「私がやってあげましょう」と言ってボタンを押して角度を下げてあげました。 「これで寝られる」と言って彼は眠りにつきました。
 また、ある夜明け近くのことでした。隣からガサゴソと音が聞こえました。
「どうかしましたか」と声をかけると「手が冷たいので布団をかけてもらいたいのだけれどなかなか来てくれない」と言いました。
 前夜、気温が高かったので窓を少し開けて寝たのでした。明け方になって窓からはひゅうひゅうと冷たい風が吹き込んでいました。布団の外に出ていた小山さんの両腕はすっかり冷たくなっていました。私は窓を閉めて、肩のところまで布団をかけてあげました。窓の外はもう明るくなりかけていて鴨川の山々が見えました。 「何の恩返しもできないけれど・・・」と小山さんが言いました。
「恩返しは無事に退院してくれることです、動ける人がやればいいのですよ」と私は返しました。
 そういうことが何度かあるうちに、私と小山さんは仲良くなり、よく話をするようになりました。
 2か月の入院生活で会話に飢えていたのでしょうか。小山さんはよくしゃべりました。若いころは自衛隊にいて北海道にいたことがあること、自衛隊をやめて運送業をしていた40歳の頃に交通事故で半身不随になり、それから35年間寝たきりの生活をしていることなど自身のことをたくさん話してくれました。
 小山さんとの話の内容は食べ物のことが多かったです。特に昔の食べ物のことでした。子どもの頃にはたくさん食べたけれども今は食べられないものが結構ありました。クジラは小学校の給食によく出ましたが、今は全く食べません。そしてお互いの病気のことなどもよく話しました。

「誰と話をしているの」
 私が来る前は看護師以外とは会話が無かったのでしょう。ある時「小山さん誰と話しているのですか」と看護師が不思議そうに入ってきました。そんな時「隣と話しています」と私が答えました。またある時、回診に来た医師が「小山さん誰と話しているのですか」とまた尋ねました。死期が近づくと妄想を見て会話をすることがあるそうです。そんな心配をしたのかもしれません。ある日のこと看護師が小山さんに「仲良しさんでよかったですねえ」と言っていました。私が小山さんと仲良く話をするなんて誰も思っていなかったのでしょう。
 小山さんが危機に陥った時が二度ありました。一度目は、移動式レントゲン装置でレントゲンを撮ろうとベッドを起こした時でした。技師が小山さんに何度も呼びかけましたが応答がありません。技師は慌てて助けを呼びに部屋を飛び出しました。隣で聞いていた私はびっくり仰天しました。死んだのか、人間はこんなにあっさり死んでしまうのかとうろたえました。小山さんと長時間話をしたのがいけなかったのだろうと後悔しました。幸い数分後に意識が戻りました。ベッドを起こしたことにより急激に血圧が低下したようでした。
 二度目は夕食の時でした。ご飯を二口食べたときに意識を失い応答が無くなりました。看護師が慌てて廊下に飛び出し、「〇〇号室に来てください」と叫びました。すぐに看護師が数人と医師がやってきました。この時も私と小山さんは直前まで長話をしていました。この時は、私はひどく動揺しました。私の長話が彼の心臓に負担をかけたからに違いないと思ったからです。「もっと人のことを考えるべきだった、もし彼が死んだら自分は一生十字架を背負わなければいけない」と思いました。この時も彼は数分で回復しました。原因は一回目の時と同じ急激な血圧の低下であったようです。しかし、私の長話がそれを招いたのだと思うと後悔の念が収まりませんでした。そして涙が出てきました。それからは気を付けるようにしました。
 小山さんが退院する日になりました。午前中にはひげをそってもらい気持ちよさそうでした。昼近く、私がリハビリから帰ってくると小山さんは赤いシャツと黒いズボン、オレンジ色の靴下に着替えて待っていました。もうすぐ退院だという感じになりました。
「おっ、着替えましたね」と声をかけるとニコリとしました。
 看護師たちが小山さんの退院を聞きつけてやってきました。カーテン越しに聞こえる会話からは小山さんは涙ぐんでいたようです。
 昼食後は迎えが来るまで話をしていました。退院したら風呂に入りたい、頭を洗いたい、ビデオを見たいとかいう話でした。やがて迎えの介護タクシーが来ました。ストレッチャーに横たわった小山さんは看護師たちに見送られて去っていきました。  一人になると病室が急に静かになりました。「さあ、明日は自分の番だ」という気持ちになりました。

「神の姿」
 今日は退院の日です。3時半ころ目を覚ましました。6時ころから洗顔、髭剃りなどどんどん準備を始めました。朝食後にテレビを見ていると掃除に来たおばさんが、使いきれなかったテレビカードは受付で清算してもらえると教えてくれました。そこで清算するために一階の受付に向かいました。その途中で妻と出会いました。手続きを済ませて病院を出たのは11時近くでした。
 車の中で10日間の入院中に見たり聞いたり感じたりしたことを話しました。その異常な体験が出口を求めて止めどもなく溢れてくるのでした。 隣にいた小山さんのことを話しました。首から下を動かすことがでないので35年間も寝たきり生活を続けてきたこと、食べることから下の処理まで何から何まで看護師の世話になっていたこと、その小山さんが困っていた時に私が助けてあげたこと、それをきっかけに親しく語らうようになったことなどでした。
 そのことについて気持ちを率直に妻に語りました。
「おじいさん(小山さん)の姿は神の姿だったと思う。神が一番弱い者に宿り自分の前に現れて語りかけたのだと思う」と。妻は黙って聞いていました。答えようがなかったのだと思います。
 1時間ほどで自宅につきました。庭は草木で鬱蒼としていました。入院前に植えていった朝顔も蔓が元気に伸びていました。
 夕食は久しぶりに家族で食べました。しかし、朝早くから活動して疲れたのでしょうか、寝床につくと胃にじわじわと痛みを感じました。あの恐怖が蘇りました。幸い胃薬を飲むと収まりました。以来、食べ過ぎないように気を付けています。 自宅での療養生活が始まりました。毎朝6種類の薬を飲み、塩分控えめな食事をし、適度に散歩をするという生活です。弱った心臓を少しずつ生活に適応させなければならないのです。血圧を朝昼晩と記録しています。
 心筋梗塞になったことは、平和な日常から死の淵まで滑り落ちたように衝撃的でした。今思うといくつかのサインが出ていましたが、その一つを見ても気が付かないものでした。これらのサインは時間の差はありますが発症までの短い期間にほぼ同時に現れました。これらをパズルのピースのように組み合わせて総合的に見ると心臓の異変を知ることができたように思います。
 私の「心筋梗塞闘病記」が皆様の健康生活の道標となれば幸いです。
2022年7月8日

No.205
i3からi7へCPUの交換

 「FJITSU‐ESPRIMO D752/E」という PCを使っています。二年前にヤフオクで購入しました。CPUはi3搭載ですが筐体にはi7のシールがついています。つまりCPUがi7からi3に交換されています。CPUがi3であることは承知していたので騙されたわけではありません。ネットの閲覧が主ですが、表示がもう少し速ければよいと思っていました。
 このPCの標準のCPUはi5ですが、上位バージョンにi7を搭載したものがありCPUはi7-3770であることが分かりました。そこで思い切ってGPUをi7に交換することにしました。i7-3770とCPUの放熱グリスはヤフオクで購入しました。
 PCのケースを開けるとCPUクーラーがあります。冷却ファンとヒートシンクには多量の埃がついていたので外して掃除をしました。ヒートシンクとCPUケースについているCPUグリスはきれいにふき取ります。
 続いてi3-3240 3.4GHzと書かれたCPUを慎重にはずします。台座には多数のピンがあるのでCPUを落とさないように気を付けます。次に慎重にi7-3770をのせて固定します。ここまで来ると一安心です。
 次にすることはCPUに放熱グリスをつけることです。小豆一粒ほどの分量の放熱グリスをCPUの上にのせます。多量にのせたり塗広げたりする必要はないとのことです。ヒートシンクをのせてネジで固定する時に圧力で自然に広がります。ヒートシンクと冷却ファンを付けたら終了です。
 電源とディスプレー、キーボードをつないでスイッチを入れると冷却ファンが回りました。画面にBIOSが新CPUを認識したとの表示が出ました。
 さらに続けるとWINDOWS10の読み込みが始まり数分後にはいつもの画面が表示されました。ホームページ、ヤフー、ブログを開いてみましたが問題なしでした。キビキビと動きます。音質もよくなったように感じました。
 CPUの交換は大成功でした。これまでi3がのっていたPCに今はi7がのっていると思うと愉快です。今回の交換にかかった費用は6000円弱でした。
2022年6月3日

No.204
部活動の強制について

 学校で部活に強制的に加入させられることの是非に関する記事を目にしました。私が中学生、高校生の頃は部活をやるやらないは自由でしたが、私が教職に就いたときには全員加入という決まりになっていました。この変わりようを非常に不思議に思ったものです。

 ところで部活動は、教育基本法にも学校教育法にも規定のない、言わば教員のボランティア活動・善意の活動です。それがいつの間にか勤務の一部であるかのようになっています。勤務内容は法令によって定められていますが、部活動が教育活動の名のもとに行われている自由な活動です。設立も廃止も自由です。 部活動は元々こういった性質のものですから、生徒に加入を強制したり、教員に顧問を強制したりすることはできないと考えます。このことは教職のブラック問題とも大きくかかわっています。つまり学生たちには問題を正しく認識しているのです。

 学校側は部活動について明確な意見を示せないようです。校長は早ければ二年で異動します。波風を立てたくないので旧習を踏襲するのが常です。また、かつて部活動で成果を上げた者で部活動に肯定的な者が管理職に登用される傾向があります。勤務と部活動の分離は全国の学校を巻き込む大変革になります。とても一学校の手に負えることではありません。「さわらぬ神に祟りなし」と考えても不思議ではありません。

 私の住む地域では生徒数の急激な減少により部活が維持できなくなっているので生徒を柔道部や剣道部に強制的に割り振るといった事態さえ起きています。柔道部と剣道部は地域の要望が強くてなくせないというのです。ここまで来ると生徒にとっては大迷惑です。

 子どもたちを鳥かごに入れて餌を食わす(管理する)のではなく、自由に大地を歩き、大空を飛べるようにしてあげたいと思います。それが日本の教育に望まれるていることではないかと思います。
2022年5月30日

No.203
提灯学校復活

はじめに
 昭和の時代に提灯学校という言葉を聞いたことがあります。提灯学校と言っても提灯を作る学校のことではなく、夜遅くまで明かりがついている学校のことです。つまり、遅くまで職員が仕事をしているのが常態となっている学校です。
 遅くまで学校で仕事をしている理由としては次のことが考えられます。
1.仕事量が多くて勤務時間内にこなせない。
2.仕事を家に持って帰れない。
3.部活動に時間をとられる。
4. ボランティアである仕事
5.急な仕事ができた。
6.管理職が帰らせない。

1について
 学級担任の大切な仕事は授業です。午前8時に出勤して一日6時間の授業があります。その後、次の授業の準備、週案の作成※1、校務分掌の企画実行等※2、各種調査報告文書の提出、保護者への対応等、様々な仕事があります。特に4月、5月は一年間の各教科の全体計画の作成、県等への調査報告文書の作成が多く繁忙を極めます。
 今は小学校でも全学年で6時間授業が実施されており、児童の下校は早くても午後4時になります。そして午後4時45分が勤務終了時刻です。児童下校後には部活動が割り振られていますから、仕事をする時間が全くないわけです。

2について
 仕事は学校貸与のPCで行います。PCは情報漏洩防止のために持ち帰りできません。USBの持ち帰りも禁止です。従って学校で仕事をしていくしかありません。私は教員になったころから仕事を毎日持ち帰っていました。そうしなければ仕事が終わらないからです。PCのない時代は手書きで、PCが普及してからはいち早くPCを取り入れました。夜10時、11時まで家で仕事をするのが日課でした。部活でくたくたになり、遅くまで眠い目をこすりながらの毎日、健康によいはずがありません。

3について
 小中両方に言えることですが、教員には部活動が割り振られていて小学校では勤務時間終了まで、中学校では勤務時間を超えて部活動に従事します。
 部活動は教育基本法、学校教育法などの法令には規定のない言わば教員のボランティア、善意による活動です。これが教員の時間を奪い、健康を損ねるので問題になっています。放課後すべて、土曜、日曜を部活動に取られたら教員は仕事をする時間、休む時間がありません。児童生徒の勉強・健康維持のためにも考えなければいけないことです。部活動は教職ブラック問題の中心点です。

4について
[PTA奉仕作業]
 保護者の皆さんが学校の草刈りや校内の整備にほうししてくださる作業です。教職員の参加する2〜3時間程度の作業です。土曜か日曜に行われます。
[郡市陸上競技大会]
 郡市の全小学校が参加する陸上競技大会です。土曜に準備、日曜に実施されます。
 そのほかに地域のイベントへの参加があります。

5について
 登下校中に交通事故は発生した等、緊急事態が発生した時です。その対応に追われることになります。校長をはじめ全職員が関係します。

6について  以前は校長が個人的にそのような方針を打ち出して職員を遅くまで残す場合もあったようですが、今はないと思います。職権乱用で問題です。
 私が管理職であった時は、夜7時には校内を巡回して、声がけをして帰らせました。特に部活動を持っている若い教員は仕事が山積しているので気の毒であったのですが終了させて一緒に学校を出ました。職員が遅くまで学校に居ることは電気代等の諸費用がかさむことや安全上からも好ましくありません。

おわりに
 働き方改革が叫ばれる中、改善されるどころか悪化をたでる職場もあるのではないかと思います。特に教職はブラックと言われて敬遠されるようになって何年もたちます。
 文科省をはじめ教育行政には時間や労働量という観念がありません。文科省、県教育委員会、地域の教育委員会が真剣に考えなければ、教職はますますそっぽを向かれるでしょう。
 最近、提灯学校が復活しているようです。いすみ市の某小学校が提灯学校であるという噂を耳にしています。
 教育現場の仕事量は分かりにくいものです。そこで時間を追って学校の仕事を見たところ学校現場の問題点が見えるようになりました。
 教職には素晴らしい点があるにもかかわらず、諸問題がブラックホールとなってそれらを飲み込んでいます。灯学校という昭和の亡霊がいつになったらいなくなるのかと思う今日この頃です。

※1 一週間の授業計画を作成して提出すること。
※2 例えば安全主任では、交通指導計画の企画運営、校内の安全点検の企画運営など。役割が細かく決まっており全教員に割り振られている。
2022年5月25日

No.202
今年初の草刈り
 5月も半ばを過ぎて我が家の土地にセイタカアワダチソウが伸びてきました。そこで今年初めての草刈りです。セイタカアワダチソウは大きくなると硬くなって刈るのに手間がかかります。いま刈っておくと後が楽なのです。
 使う刃はプロペラ型の二枚刃です。この刃は丸刃では手を焼くような繁茂したセイタカアワダチソウをバリバリと切り倒すので作業が速いのです。刃の切れ味がおちたらヤスリをかければ回復します。
 刈り方も工夫しました。去年から「高刈り」といって根元から10pほど上を刈るようにしました。この刈り方の方が根元から刈るよりも速いし楽です。
 高刈りにはもう一つ良い点があります。残った下草が元気になって地表を覆うようになるとセイタカアワダチソウのような草が生えにくくなります。
 草丈が低かったので作業が順調に進んで、1時間で全体の半分ほどを刈ることができました。
 二日目は9時から初めて、休憩を入れながら11時半ころにはすべて終了しました。今後は10月にもう一度予定しています。
2022年5月21日

No.201
マイクロソフト・エッジをリフレッシュ

 マイクロソフトエッジを使っていると表示が遅くなってきました。色々調べた結果、エッジの設定を変えてみることにしました。
 エッジの設定→「プライベート、検索、サービス」→「閲覧データのクリア」と進むと削除できる選択項目が四つ表示されます。「閲覧の履歴」「ダウンロードの履歴」「クッキーおよび他のサイトデータ」「キャッシュされた画像とファイル」です。どれもいっぱいだったので四つの過去分すべてを削除してみました。するとエッジの表示が速くなりました。不具合は出ませんでした。
 もう一つ良いことがありました。ホームページを更新がすぐに反映されるようになりました。それまでは更新が反映されるまでに長い時間がかかりました。これは閲覧の履歴をクリアした成果だと思います。
 マイクロソフトエッジの表示(動作)が遅くなったと感じている方は試してみたらいかがでしょうか。
2022年5月18日


No.200
FTPのつながりにくさを解消

 ホームページを更新するときにはFTPでファイルをアップロードします。この時にすぐに接続できないことが多くなりました。今まではすぐに接続できたのに変だと思っていました。私はFC2というサイトの無料サーバーを使っています。
 FTPの設定を確認したり変えたりしてみましたがうまくいきません。ネットで調べるとFTPの設定をパッシブモードからアクティブモードに変えてみてはどうかという解説がありました。そこでFTPの設定をアクティブモードに変えてみました。するとすぐにつながりました。今までが嘘のようです。何度試しても100%すぐにつながりました。
 どういう理由でつながりにくくなったのか分かりませんが、ロシアのウクライナ侵攻が始まってからひどくなったように思います。FC2のサーバーはアメリカにあります。戦争のせいかと推測しますが、確かなことは分かりません。 アクティブモードは、現在ではあまり使われないそうですが、現状では役に立っています。
 すぐにつながるようになったこと以外にもよいことがありました。更新がすぐに画面に反映されるようになったことです。同じ悩みを持っている方は試してみたらどうでしょう。
2022年5月13日

No.199
退職一年前に考えたこと、10年後に思うこと

 59歳の誕生日を迎えると退職が目の前でした。人生の一区切りを迎えるという何か荘厳な気分でした。しかし、ホームページでネット上の活動が長かった私は次の世界である第二の人生に何かしら希望を感じていました。
 最後の職場となる地元のA小学校に転勤しました。学年一クラスしかない小規模校でした。一年目に女性教諭の退職を見送りました。二年目は自分の番になりました。退職の二文字が現実味を帯びてきました。退職に備えてどうするのか具体的に計画を描くようになったのは5月ごろからでした。
 私は方針を三つ立てました。
@ 自分の花道を作る。
A 最後まで教師として生きる。
B これまでのことやこれからのことをゆっくり考える機会を持つ。

 新学期が始まると学校は一気に忙しくなりました。忙しい中でも三つの方針を常に念頭において確認しました。

@ 自分の花道を作る
私は管理職(教頭)でしたが、かねてより千葉県科学作品展自作教具の部に何度も応募していました。この年は電子部品を使って葉で光合成の度合いを計る装置を考えました。理科が専門なのでこの辺はお手の物でした。8月に装置を作り、実験を重ねてデータをとりました。それをまとめて9月には装置とともに応募することができました。
この作品は優秀賞を受賞ました。千葉県総合教育センターで開かれた表彰式には最後の記念にと妻と二人で出席しました。何百人もの前で表彰されて大変名誉なことでした。

A 最後まで教師として生きる。
 管理職(教頭)ではありましたが最後を教員として締めくくりたかったので3年生の理科を受け持ちました。担任の小山(仮名)先生は山形県からきた新採用の好青年でした。小山先生は私の授業によく協力してくれました。
 子どもたちに分かりやすい楽しい授業にしようとある工夫を考えました。それは段ボール箱を利用した「なにかなBOX」です。この中に面白そうな教材を入れていきました。たとえば自分で作った電磁石や強力な磁石、豆電球の装置などです。子供たちは何が出てくるかなと楽しみにしていました。外での活動や植物栽培にも力を入れました。見たり触ったりして学ぶことはとても大事です。
 磁石の勉強で校庭の砂場で砂鉄を採ったことがありました。ビニール袋に磁石を入れて砂の上を動かすと黒い砂鉄がついてきます。磁石を袋から出すと砂鉄が落ちるので簡単に砂鉄を集めることができます。ここでネオジムという強力磁石を使って見せると驚いていました。この授業はとても楽しかったようです。
 一年後、担任の小山先生から子供たち一人ひとりのお礼の言葉が入ったファイルをいただきました。一人ひとりの文章に目を通しました。砂鉄を採ったことが楽しかった、私が作った教材がすごかった、理科が好きになった、私たちのことを忘れないでくださいなどと書かれていました。どれも一生懸命に書かれていて一人ひとりの顔が目に浮かびました。私が教えたことは地層のように幾重にも層をなし、子供たちの心の中に生き続けるに違いないと思います。

B これまでのことやこれからのことをゆっくり考える機会を持つ。
 大学を卒業後、株式会社セイユーストアに2年勤めていましたが、生物学を勉強したくて早稲田大学教育学部生物学専修に学士入学しました。実験とレポートに追われましたが何とか乗り切りました。また新しい世界が広がりました。3年間学んだ後に千葉県で義務教育学校の理科の教員として採用になりました。

 ここで一波乱ありました。当初は中学校での採用でしたが、直前になって小学校へ行ってくれと言われました。わざわざ恩師の山杉(仮名)先生が家まで相談に来ました。多分、急に他の人と交換になったのでしょう。いわゆる政治力が働いたのでしょう。政治力とは議員等の有力者による働きかけのことでよく耳にしました。 私は臨時免許で小学校に行くことにしました。幸いなことに私の周りは集まってくる子どもたちでいつもいっぱいでした。楽しいことがあった半面、仕事をいつも持ち帰りで、夜遅くまで次の日の準備をしました。しかし、中学校よりは、はるかにましだったと思います。

 一年後に生徒数1200人のO中学校に異動になると非常に大変でした。ここは部活動中心の学校でした。当時の私には伏魔殿のように見えました。疲れていて朝からやる気がなく騒がしい生徒、部活動が最も大切だと言ってマウントをとる大酒飲みの先輩教員達、朝練、午後練、土曜も日曜もない部活動、次から次へ続く行事で平常日課の週が一度もないないなど、ブラックと言われる学校の原型がすでにありました。疲労がたまり年に数回鬱状態になりました。10日ほど続く鬱状態はつらいものでした。その後、隣の長生郡への異動も経験しましたが状況は似たようなものでした。法令に定められた勤務の中に、ボランティア部活動があたかも勤務であるかのように存在する悪しき慣習がはびこっているのです。思考を根本的に変えなければ解決できません。

面白いこともありました。
「千葉のテレビ教材研究に出演」  テレビ教材研究として「地層と堆積岩」という理科教材を作る話がありました。O中学校は切り崩した山の上にあるので周囲に地層が見える部分(露頭)がありました。O中学校の理科教師5人が協力して出演することになりました。何度も打ち合わせを繰り返し時には遅くまで打ち合わせと練習をしました。甲斐あって立派の作品ができました。このテレビ教材は何度も放送されました。まだ30代前半の頃でした。

「校長がコーヒーを入れてくれた」  O中学校は生徒数1200人もの大規模校でした。学年ごとの常駐の部屋があったのでみなそこで仕事をしていました。結果、職員室には誰も寄り付かなくなりました。校長はそれを嘆いていました。ある日たまたま職員室で仕事をしていると麻山(仮名)校長が「よく来てくれた」とたいそう喜んでコーヒーを入れてくれました。大げさだなと思いましたが校長にとっては切実な問題だったのでしょう。麻山校長のことでもう一つ思い出があります。当時私はこの学校のあり様に悩んでいました。麻山校長はそんな私に声をかけてくれました。「人間、時には清濁併せ呑むことも必要だよ」
 なるほどと思いました。確かに世の中はきれいなことばかりではありません。変なことや汚いことがたくさんあります。生きていくには「清濁併せ呑む」ことが必要なのかもしれません。

 さて時が流れて教頭になるとPTAに関わる仕事が大きな負担でした。例えばPTA大会、PTA評議員会、PTA歓送迎会、PTA会計の資料作成はなどです。新年度の忙しい時にPTAのことに膨大な時間を費やさなければならないのには大変困りました。 その中でPTA会計の処理は特に大変な仕事でした。私はEXCELを駆使して会計処理を自動化することができました。「芸は身を助ける」でした。

 楽しいこともありました。そのほとんどが児童・生徒たちと過ごした時間でした。授業中、休み時間、放課後、彼らと過ごした時間は楽しくもあり幸福な時間でした。朝早くから夜遅くまで、時には土曜も日曜もない日々に耐えてこられたのは児童・生徒たちとの楽しい時間があったからだと思います。それともう一つは私がキリスト教徒であることです。

 「飛ぶ鳥跡を濁さず」と心に決め、後任に迷惑をかけないようにと残務整理にスパートをかけました。毎日仕事を持ち帰りました。すべてをやり終えたときには本当に晴ればれした気持ちでした。この後に楽しみがありました。

 4月から東京大学教養学部後期課程の聴講生として勉強することになっていました。暇を見ては情報を集めて手続きを進めていました。無事に審査を通り4月から週一回駒場の東京大学に出かけました。静かな環境に身を置いてこれまでのことやこれからのことをゆっくり考える機会にしました。週一回にしたのは他にも仕事があったからです。
 東京大学の雰囲気は静かで落ち着いていました。私は駒場の植物を調べることにしました。ここには大きな樹木がたくさんありました。それもの山にあるような珍しい樹木です。駒場は元々農学部があったところです。調べた結果はホームページとブログで発表しました。

 一番のお気に入りは学食前の広場にあるヤマナラシの大木です。この木は5月にふわふわとした白い綿毛のある種子をあたり一面に降らせます。
 もう一つのお気に入りは裏門のそばにある一二郎池でした。窪地にあるこの池は水が流入することも流出することもないのに一年中水をたたえていました。本郷の三四郎池に対して一二郎池と呼ばれていました。授業が終わると池の周りを散策して虫や草花を観察して過ごしました。

 この他に小学校で初任教員の指導にも携わりました。授業を観察してよかったところや改善すべきことなどについて話し合いました。一年目は小学校3年の初任者、二年目は中学校理科の初任者を指導しました。三年目は後補充といって初任教員が研修に出かけた日の補助として一日学級で授業を行いました。それぞれ有意義でした。聴講生のこと、初任者指導のことは「蜩庵たんたん日記」に記述しています。

「その他の学び」
  早稲田大学オープンカレッジ、放送大学修士選科生、神田外国語大学聴講生として学びを深めました。放送大学では千葉大を退官された植物学理学博士の西野先生のゼミに参加しました。メンバーは4人いて、隔週で開かれたゼミには各自が写真や資料を持ち寄りました。私は地元の草花を採集して持っていくのが常でした。幸福なひと時でした。西野先生との交流は今も続いています。

「予想外の手術」
 予想外のことがありました。68歳の時に右足の股関節を人工股関節に交換する手術を受けました。以前から具合が悪く、痛くて歩くのに苦労していました。今は普通に歩けるようになってQOLが向上しました。とても良い選択でした。感謝しています。

「退職後10年たって思うこと」
 退職前後を想定した計画でしたが、あっという間に10年が過ぎました。そして次の10年を考える時になりました。

 私は60歳から70歳までを人生の第三期、70歳から先を人生の第四期として区分しています。一般に第四期には体力が衰えて病気がちになり介護を受けるようになります。第四期の終着点はつらいことですが死です。ただし第四期の始まりは個人差があり、心がけ次第で始まりを遅くすることができます。次の10年は難しいものになるだろうと予想しています。

 「死ぬまで教師でありたい」
 市で運営する「竹の子塾」という放課後塾があります。コロナで2年間中止されていましたが再開されるとの知らせがあったので講師に復帰することにしました。また子どもたちに教えることを楽しみにしています。 私たち高齢者にはコミュニティーに貢献しているという意識(気持ち)がアイデンティティーを保つ上で大切です。自分にできることを大切にして第四期の旅路を歩こうと思います。

「おわりに」  退職と退職後10年いう人生の大きな節目にあたって過ぎ来し方を振り返ってみましたが、旅路の出発点は若き日のある一日のできごとでした。  休日に狭山湖を訪れた私は漠然と将来のことを考えながら歩いていました。5月の爽やかな日でした。
「退職したら好きなことをやろう」ふと、こんなことを考えました。 しかし次の瞬間、「もう退職のことを考えているのはおかしい、まだ20代前半ではないか」という強烈な思いが湧き上がってきました。そして、やりたいことを我慢して一生を終えることは恐ろしいと感じました。いま行動しなければ一生後悔するだろうと感じました。この1年後、会社を辞め生物学の勉強を始めました。2年勤めた会社を辞めるのは不安であったし、寂しくもありました。以後、無我夢中でした。それからは退職したらなどと考えることはありませんでした。30年後、退職は穏やかに訪れました。
 振り返ってみれば、ああすればよかったこうすればよかったと思うことがたくさんありました。思うようにならないことが多かったように思います。しかし、過去に思いを馳せるよりも今を大事にして未来に歩を進めることが大切であると思っています。
 旅路の終点までには、予想もしなかったことがたくさんあるに違いありません。人生は生きてみなければ分からないと思っています。
2022年4月28日

No.198
公立中学校の部活問題

 スポーツ庁の有識者会議で休日の部活動指導を地域や民間に移行するとの提案がありました。中学校の部活動指導による教員の負担を減らすためです。そもそも部活動は教育基本法にも学校教育法にも規定されていません。従って、教員のボランティアで行われているものなのです。
 私も経験があります。朝練、放課後の練習、土日の練習で生徒も教員も休む暇がありません。生徒も勉強どころではありませんでした。たくさんの業務を抱えながらの部活動は本当に大変でした。心と体が蝕まれました。若い教員がこの負担を負うのが常です。
 「土日の部活動を地域や民間に移行する」という点が引っかかりました。生徒は中学校に入学すると部活に入るよう割り振られますが、土日も練習することを望んでいるでしょうか。土日はゆっくりしたい、好きなことをやりたいのではないでしょうか。家族と過ごしたいでしょう。外部に移行してまで土日を部活で拘束されるのは迷惑でしょう。何よりも子供たちの心と体の健康に配慮しなければならないでしょう。この点は保護者も考えなければいけないことです。
 学校はずっと部活動問題をなおざりにしてきました。アンタチャブルでした。バブルのように部活動が膨み教員・生徒の負担が増大しました。今や学校はブラックとみなされて若者に敬遠されています。若者が学校に見切りを付けたのです。その結果、学校は教員不足に悩んでいます。
 根本的な間違いは勤務にボランティアが混在している奇妙な勤務形態にあります。本来、ボランティア活動は勤務時間内に行うべきものではありません。部活動は教員の善意で行われてきた慣習であり、見た目は教育活動です。しかし今や肥大化して教育を蝕んでいます。勤務と部活動を分けない限り問題は解決できません。
2022年4月27日

No.197
たけのこ塾再開に期待

 市が主催する放課後塾である「たけのこ塾」が再開されることになりました。そのための研修会が五月上旬に開かれるので参加する予定です。
 たけのこ塾はコロナ禍により2年間中止されていました。私はそれ以前からたけのこ塾の講師を続けてきました。地域社会に貢献することは自分が元気に生きる上で大切だと考えているからです。
 実に2年ぶりの社会復帰となります。少し不安もありますが頑張ろうと思います。
2022年4月22日

No.196
早大の体育授業の思い出

 早大に入学した4月、選択科目体育の抽選会がありました。体育の授業は各種スポーツの中か自由に選ぶことができました。学生たちは思い思いに好きなスポーツの前に並びました。しかし、定員があるので抽選が行われます。福引でおなじみのガラガラが使われました。
 私はボクシングに並びました。10人目くらいに並んでいました。いよいよ抽選が始まり、先頭の学生がガラガラっと回しました。一瞬置いて「外れた。外れた。」と叫びました。私の番が来ました。ガラガラっと回すとポトンと赤い球が出ました。当たりました。こんな光景があちこちの列で見られました。
 
 体育のボクシングの教室は、文学部キャンパスの一角にあるボクシング場でした。先生は30代くらいの快活な男性でした。私はエンジ色のジャージ上下と体育シューズで参加しました。学生はおよそ30人でした。奥にはリングがありました。

 柔軟体操を行うために近くの人と二人組になりますが、女子学生が一人いてあぶれていました。私がその女子学生と組みました。先生がやってきて「どうしてここに来たの」と聞くと女子学生は「相撲を選択したのですが断られたのでここに来ました」と答えました。相撲は色々と無理だろうなと思いました。
 床に座って背中を押したり、開脚して向き合い両手を引いて伸ばしたりする柔軟体操をしました。先生は心配そうに離れて見ていました。

 週一回の授業では回ごとにボクシングのかまえ、足の運び方(フットワーク)、ストレート・フック・アッパー・ボディーの打ち方などを教わりました。少しずつボクシングの動きができるようになりました。私は体育の授業が楽しみでした。

 先生が時々面白い話をしてくれました。いくつか思い出してみます。

[甘味が好きだった]
 店でお汁粉とかアンミツとか甘いものを食べるときには恥ずかしいので顔を隠して食べていた。

[チンピラに絡まれてKO]
 お汁粉を食べて帰るときにチンピラに絡まれたことがあった。チンピラが殴りかかってきた瞬間に反射的にストレートがでてKOしてしまった。やばいと介抱していると目を覚ました。少しボーッとしていたが、やがて正気に戻って「お前らがやったな」と怒り出したので走って逃げた。

[寝ている間に湿疹]
 朝起きると太ももの内側とかに何かに刺されたような赤い湿疹が出るようになった。キンカンヲ塗ったが治らなかった。
 ある夜、寝ようと電気を消すとカサカサと何かが近づいてくる音がした。パッと電気をつけるとササッとゴキブリが逃げるのを見た。その速いこと。結局、寝ている間にゴキブリが皮膚の柔らかいところをかじっていたのだった。

 パンチの打ち方を一通り教わると、今度はそれらを組み合わせたコンビネーションでした。ワン・ツーストレート、フック、ストレートというように打ちます。アッパーとボディーも取り入れていくつかの組み合わせを作ります。これにフットワークをつけるとシャドーボクシングができます。シャドーボクシングができるようになるとボクシングらしくなって、さらに楽しくなりました。

 パンチングボールとサンドバックの打ち方を教わりました。パンチングボールは両方の拳でリズミカルに打つのですが、結構難しいです。これで目や反射を鍛えるのだそうです。サンドバッグを打つと本格的に練習しているような気持になりました。しかし、安易に打つと怪我をします。フックを打った時に拳がバッグをかすりました。すると拳の皮が一瞬でペロンとむけてしまいました。手の皮膚は弱いものです。それからは気を付けました。

 リング上でシャドーボクシングを披露することになりました。5名ずつリングに上がって3分間のシャドーボクシングです。初めてのリングです。フットワークを使いながらのコンビネーションブローです。3分間でへとへとでした。実際にやってみると大変でした。

 授業の最終日に感想を書きました。楽しくも充実した授業であったことに感謝しました。こうして一年目の体育が終わりました。  二年目の体育は合気道を選択しました。合気道に興味がりやってみたかったからです。教室は武道場でした。
 合気道は関節を決めて相手を投げたり抑え込んだりする技です。本を買ったりして研究しました。
 初日は、授業の初めと終わりの礼儀作法を教わりました。学生数は20人くらいでした。

 いくつか簡単な技ができるようになると先生が高度な技を見せてくれました。流れるような円の動きで繰り出された技に相手が前転のようにくるりと回ってひっくり返りましら。柔道の投げ技とは全く違うものでした。これには見ていた全員が感動しました。私もこういう技ができるようになりたいと思いました。

 刃物を持った対手に対処する技を教わりました。ナイフを持った手を制してナイフを落とし、抑え込む方法です。先生がやると簡単に見えますが、実際にはうまくできません。みんな四苦八苦していました。全員が座っているときにナイフを渡してくださいと先生が私に言いました。私は刃の部分を持ち、柄を先にして先生に渡しました。先生は「今、柄の方を向けて渡してくれましたね」と言って褒めてくれました。刃物を渡すときには刃の部分をもって柄を前にして差し出すものだと父から教わっていました。

「先生の体験談」  練習がひと段落してみな正座していました。先生がこんな話をしてくれました。 「ある夜中に目が覚めた。変だと思って窓からそっと外を覗いてみた。すると外套の下を男が向き足差し足で近づいてくるのが見えた。まるで芝居の場面を見ているようだった。男は泥棒だった。待ち構えていて忍び込んできたところを捕まえた。」
 その後警察に引き渡したそうです。鍛錬した人はただならぬ気配を察するのだろと思いました。

 ボクシングと合気道以外の授業のことは分かりません。当時、金属製の弓矢を二本持っている学生をよく目にしました。これは体育のアーチェリーでした。昔のことなので今はどうなっているのか分かりません。   
2022年4月16日

  No.195  
  庭の花たち  

 

 庭の花たちです。レンギョウの明るい黄色、ムスカリの清々しい青、ピンクのカイドウがにぎやかです。小梅もたくさん結実しています。小さな庭に大きな春です。しかし、駈け足で初夏がやってきます。  
2022年4月3日

  No.194  
純米吟醸「作」
 「作」SAKU 恵の智 純米吟醸 米(国産)米麹(国産米)アルコール度数15度 精米歩合60% 杜氏:内山智広 三重県鈴鹿市若松東3-9-33 清水清三郎商店株式会社
 一口含むとふくよかな果物の香りが広がりました。たとえるなら南国のフルーツ「ポポ」の香りに近いです。甘くて口あたりがよいです。香りを楽しめるお酒です。

 吟醸酒がいくつか手に入ったので飲み比べました。みなトロピカルフルーツのような芳香がしました。すっきりとした甘さがすっと消えていきます。 夕食前に少量飲むようにしています。適度のエタノールは血圧を下げるので血圧が高めの人にはよいと思います。
 酒は百薬の長といわれます。末永くつき合おうと思います。   
2022年4月9日
 

No.193
桜満開八鶴湖
       

 昨日、桜の名所である東金市の八鶴湖に行ってきました。桜が満開でちょうどよいときでした。
 湖畔を散策していると千葉県立東金高校がありました。伝統的な門をくぐって見学しました。ピンク色に塗られた古い建築様式の小さな建物がありました。通りかかった先生に尋ねると明治時代の建物で今は記念館だそうです。生徒が気持ちよさそうに部活に励んでいました。眠り猫も気持ちよさそうでした。
 湖畔の通りには出店もあってにぎやかでした。私が住むいすみ市とはまた違った雰囲気の八鶴湖周辺でした。
 昼近くになり少々疲れて足が進まなくなりました。外房の白子町まで戻り「川岸」という店で昼食をとりました。
 満開の桜、伝統ある東金高校見学、「川岸」での昼食と気持ちよく楽しみました。  
2022年4月3日

  No.192  
  白血病に倒れた3人の同僚を悼む  

 長い教員生活中に3人の同僚が白血病に倒れました。3人を偲んで書きたいと思います。なお仮名を使用します。

「鶴田先生(女性)」  私が中学校の教員として働き始めたころのことです。ある日、校長から呼ばれました。白血病で入院している鶴田先生の容体が悪化して緊急に輸血が必要になったので、血液型が同じ私に協力してもらえないかというのです。他校の校長であるA先生の旦那さんから要請があったというのです。鶴田先生とは面識はありませんでしたが、人命を救えるならと快諾しました。

 数日後、千葉大学病院で分画採血という方法で白血球と血小板が採血されました。他の血液成分は体に戻されました。ベッドに横たわりチューブに流れる血液を眺めていました。採血は40分ほどで終わりました。バッグ内の血液は少し赤みを帯びた乳白色でした。

 血液はすぐに病室に運ばれました。待っていた鶴田先生は文字通り青菜色でした。輸血を受けている鶴田先生の表情は安らかでした。安心したのでしょう。鶴田先生の回復を祈りながら帰路につきました。

 それから一年後のある日、鶴田先生が我が家を訪ねてきました。退院したのでお礼に来たのでした。元気そうな顔を見てほっとしました。わざわざ訪ねてくれてうれしく思いました。しかし、この一年後に鶴田先生は亡くなりました。白血病が再発したのでした。

(2)
「田原先生」  田原先生との面識はありませんでしたが、友人から彼のことを聞いていました。管理職登用試験に何度も挑戦して合格を勝ち取った努力の人でした。私はこの人を手本にしました。後に何度かお会いする機会がありました。

 新教頭になって張り切っていた田原先生は体の不調にみまわれました。この時白血病の病魔が彼の体を蝕み始めていました。田原先生は夏休みを待たず鴨川市の大病院に入院しました。そして本格的な治療が始まりました。

 年が明けてしばらくの後、治療の甲斐なく田原先生は亡くなりました。葬儀では高校生の長女が人目もはばからず大声で泣いていました。大切な父を亡くした辛さを思い、ただ見つめるほかありませんでした。

 田原先生が亡くなってからしばらくして田原先生が夢に現れました。私は彼と並んで話しながら歩いていました。すると前方に一本の菩提樹がありました。菩提樹の下を通りすぎたとき、彼はついて来ませんでした。彼は菩提樹の手前でたたずんでいました。そこから先には進めないように見えました。目に見えない境界があるかのようでした。もしかすると菩提樹が生きている人と亡くなった人を隔てる堺なのかもしれないと思いました。夢はここで途切れました。
道半ばにして白血病に倒れた田原先生とご家族の悲しみを思うと気の毒でなりませんでした。

(3)
「本荘先生」
 本荘先生は教頭会の仲間で、一緒に旅行に行ったりお酒を飲んだりした仲でした。気さくでお酒の好きな人でした。お酒を飲んだ折には、私が家まで送ったりしました。

 本荘先生は管外で数年校長を務めたのちに管内のO小学校の校長として戻ってきました。この時すでに自分の体の不調の正体が白血病であることを知っていたようです。

 この年、O小学校は近隣の二校と統合するための準備で多忙を極めることが予想されました。本荘先生は、この職務に自分の体力が持たないと判断したようです。そして残りの時間を家族ともに過ごそうと退職しました。

 その年の秋祭り(これは「大原はだか祭り」といってこの町の人達が一番楽しみにしている盛大な祭りです)の折のこと、私は線路脇の小道を歩いて祭りの会場へ向かっていました。その時、前方からはだか祭りの衣装を身に着けた本荘先生がやってきました。懐かしい顔を見て数年ぶりに挨拶を交わしました。内心は病気のことが気になりましたが、あえてそのことには触れませんでした。

 私は本荘先生の顔に不思議な違和感を覚えました。何かを伝えたいよう静かに私を見つめる目には寂しさが漂っているようにも感じました。別れた後も、この違和感がずっと気になりました。今思うと本荘先生は最後の祭りを楽しんだのだと思います。

 年が明けて数か月後に本荘先生はなくなりました。病床の本荘先生は看護をする奥さん「ありがとう、ありがとう」と何度も感謝を伝えたそうです。

 亡くなった方はもう歳をとりません。心の中に当時のままに生きています。私はどんどん歳をとってお爺さんになっていきます。私が怪我無く大病もせずにこの年まで来ることができたのは運がよかったからだと思います。 心より鶴田先生、田原先生、本荘先生のご冥福を祈ります。   
2022年4月3日
 

  No.191  
  教え子の同窓会  

 今から4年前のことです。教え子たちから同窓会の招待状が来ました。彼らが二十歳の時の同窓会にも招待されましたからこれで二度目です。40歳になるのを機に第二の成人式をやろうと計画したのだそうです。第二の成人式とは面白い発想だと感心しました。学年主任であった私と担任が招待されました。
 いすみ市国吉の会場には50人ほどが集まっていました。20年ぶりの懐かしい顔でした。しかし、誰かわからない人もいました。無理もありません、皆40歳になっているので風貌が大きく変わった人もいました。特に女の子の変わりようにはびっくりしました。名前を聞いて「えっ」思うことが何度かありました。教師は、子供たちのことは必ず覚えています。ただ、目の前にいる人と当時の生徒が結びつかないだけなのです。私はその人がっかりしないように受け答えしていました。そのうちに昔の面影を見つけてだんだん思い出しました。
 しばらく団欒していると担任であった人が到着しました。女教師の太山(仮名)先生でした。太山先生は膝を悪くしたようで隣に用意した椅子に座りました。座りやすいように椅子を整えてあげました。大柄な太山先生が余計に大きく見えました。挨拶を済ませ、しばらく懐かしい話をしていましたが、T先生が「先生、よく頑張りました。先生に悪いことを言ったりしてごめんなさい。」と言うのでした。
 私は、"はて何のことだろう"と考えました。お互いの考え方の違いから悪口めいたことを言ったり言われたりするのはよくあることです。些細なことは気に留めません。しかし、彼女には何か後悔するような場面があったのだろうと想像しました。彼女の苦労話も聞きました。先輩教員との人間関係に苦しんだようでした。
 「よく頑張りました」は、私が苦労のすえ管理職になったことを言ってくれているのだろうと思いました。それはそれで有難く感じました。
 彼女は一足先に帰りました。帰り際に「よく頑張りました」と叫びました。彼女の気持ちをとても嬉しく思いました。同時に人生にはこんな事もあるのだなとも思い不思議な気持ちになりました。
 あんなことがあった、こんなことがあったと楽しく語らいました。教え子たちは40歳を迎え、立派な社会人となって活躍している様子でした。何か夢を見ているような心地でした。
「また20年後にやろう」と幹事が言いました。
「20年後では俺がもういないかもしれない。もっと早くやれよ」と私は言いました。本当にそんな気がしたのです。
 次の同窓会がいつになるかわかりません。その時まで元気でいようと思います。太山先生もその時まで元気でおられることを祈っています。   
2022年3月30日
 

No.190
退職の黙示録 U 追記

 本編は、先に発表した「退職の黙示録」にいくつかの書き加えをした改訂版です。

はじめに
 新約聖書の中で黙示録は特異な存在です。そこにはこれから人間に訪れる恐ろしい未来が描かれています。タイトルはこの新約聖書から借りました。ちなみに私はキリスト教徒です。

T
 もう20年も前になります。教員の私は管理職選考に挑戦しては何度も失敗していました。もともと教員になったのが遅かった私は、先輩教員から「君は教頭にはなれないよ」と何度か言われました。つまり順番が回ってこないという意味でした。私は最後尾を歩いていました。しかし、負けるものかチャンスが来たら全力でぶち当たろうと思っていました。

 今振り返ると教員になりたての頃に家庭訪問中に自動事故を起こしたことも原因であったかもしれません。もうだめかもしれないと何度も思いましたが、年齢制限がくるまでとにかく頑張ろうと歯を食いしばりました。

 ある晩、不思議な夢を見ました。眼の前に高い灰色の壁が長くそびえていました。壁には何か呪文のような文字かたくさん書かれていました。私のいる世界と別の世界を区切るような不思議で不気味な壁でした。

 何とか壁をよじ登って向こう側を覗くことができました。見えたのは何もない灰色の地面でした。無味乾燥で空っぽでした。ただ、道が一本あり、その先の土饅頭のような小山まで続いていました。小山には粗末な木の柱が立っていて「校長」と書かれていました。

 道は小山をぐるりと迂回して後ろに続き、端まで行きつくとぷっつりと途切れていました。境界線ははっきりとしていて向こう側は霧に覆われたように何も見えませんでした。小山を迂回して続く道が、もしかすると自分の道なのかもしれないと何となく思いました。

 この数年後、努力の甲斐あって壁の扉をこじ開けることができました。誰も予想しない番狂わせであったようです。出張所の所長が佐竹(仮名)先生ってどんな人ですかと聞いたといいます。ちなみに管理職選考には推薦順位というのがあって順位が低いと合格できません。しかし、成績がトップであれば順位に関わらず合格させるという不文律があったようです。

 合格しても昇任できない不運もありますが、合格から一年後に管理職(教頭)に昇任しました。その後は夢の通り小山を迂回する道を歩きました。

 この道中で不可解なことがありました。私と同年代の教頭たちがみんな校長選考からに外れたのです。つまり「よほどいい成績でないと合格できないよ」とか「優先順位が低いからやっても駄目だよ」とか校長から宣告されるのです。私も言われましたが、癪に障ったので最後の選考を受けました。しかし、気持ちが萎えたのは事実です。本当に失礼な話ですが、私たちの力の及ばないものがありました。

 教頭になってから定年退職するまでの9年間にはいろいろありました。

「胆嚢摘出手術」
 私は2007年に胆嚢の摘出手術を受けました。教頭になって4年目のことでした。具合が悪いのをずっと我慢していました。腹腔鏡手術だったので傷跡は小さくて済みました。直径2cm近くの胆石が3個も出てきました。腹腔鏡手術ということで軽く考えていましたが実は大変なものでした。胆嚢が度重なる炎症により肝臓に癒着していました。本来は開腹するもののようですが、腹腔鏡で頑張ったとのことでした。3日入院したてあとは自宅で安静にしていました。冬休みをかけた3週間近く療養ましたが、1月にはまだ傷口に縫合の金具を付けたまま出勤しました。本当は一月ほど休みたかったところでした。
 手術の影響で味覚が変わったり、物忘れがひどくなったりと苦労しました。
 味覚障害としては、チンゲン菜が雑草のようなひどい味に感じました。初めはそれに気づかず料理がまずいと言って妻とのなかが悪くなったりしました。また、苦味に非常に敏感になりました。お茶やビールが苦くて飲めなくなりました。
 物忘れにも苦しみました。大事なことを2,3日は覚えていても1週間たつとすっかり忘れてしまうのです。記憶が空っぽになるという感じでした。こんな状態が1年ほど続き不安な日々を過ごしました。その他にも手足の軽い麻痺なども残りました。

「速度違反で赤切符」
 手術から一月ほどたった2月の下旬の出張帰りのことでした。この日は調子が悪かったので家路を急ぎました。通りなれた道でしたが速度違反の検問に引っかかりました。60キロで走行して20キロオーバーでした。赤切符を切られました。千葉県教育委員会では赤切符を切られると3か月間車の使用が禁止されます。この取り決めには常々疑問と不満を感じていました。交通違反の法的制裁を受けた上にさらに任意に制裁を上乗せされるのには納得できないからです。〇町教育委員会に呼び出されて直々に指導を受けました。幸い指導だけで済みました。実のところ手術から間がないのに歩かされるのはきついと思っていました。

「海辺のT小学校に異動」
 この年の4月に勝浦市のT小学校に移動しました。私はもともと勝浦中学校の卒業であり、父も勝浦警察署に勤務していたことがあったので多少の親しみがありました。海辺の学校なので心配でしたが子供たちがすごくよかったのです。着任式では子供たちが整然と静かに並んでいました。荒くれたところが全くありませんでした。
 不運なことにT小学校は100周年記念をやるとのことで毎晩PTAとの話し合いや準備に多忙を極めました。毎日多量の痰がでるなど不調が続くなか何とか盛大に100周年記念行事をやり切りることができてホッとしました。正直に言って病み上がりの躰にはきつかったです。T小学校の2年間に二人の校長に仕えましたが、両名ともに同級かつ知り合いであり良くしてくれました。この2年間が一番良かったと思っています。

「農村のA小学校に最後の異動」
 この後いすみ市のA小学校に移りました。今度は農村の小さな学校でした。ここが退職する学校になりました。退職するときは元の市町村に戻すという慣習があります。
 私は最後まで教師でありたいと思っていました。そこで3年生の理科の授業を受け持ちました。毎回、なにかなBOX」という箱に面白そうな教材を入れては授業に臨みました。今日は何が出てくるのだろうと子供たちはいつも興味津々でした。
 2年目の担任は山形県からやってきた新任の小山(仮名)先生でした。北海道教育大を卒業した聡明で誠実な好青年でした。最後には子供たちのお礼の手紙と写真をくれました。これは私の宝物です。
 小山先生には特別な思い出があります。私はT小学校を去る二日前に自分の下足箱を掃除していました。実は赴任してきたときに私の下足箱の中が泥だらけで汚かったのです。そこで新しく来る人にはそんな思いをさせないようにと思ったからでした。
 たまたま通りかかった小山先生がそれを見ていたので事情を話しました。小山先生はじっと聞いてうなずきました。
 3月29日の夕刻、私がすべての仕事を終えて帰ろうと玄関に立った時小山先生が現れました。挨拶の後「赴任して来る人達の下足箱をぜんぶ掃除しておきました」と言ったのです。私が昨日言ったことを覚えていて実行したのでした。これほどの人であったのかとびっくりしました。後にも先にもこういう人を知りません。
 小山先生は数年後に教員として山形に帰りました。寂しくもあり残念でもありましたが、それでよかったと思っています。今もあの時の心構えを覚えていてくれたら嬉しいと思います。

 「教職員科学作品展自作教具の部優秀賞」
 T小学校で定年前の最後の年でした。出品した簡易光合成測定装置が教職員科学作品展自作教具の部で優秀賞を受賞しました。12月の忙しい時期でしたが、妻と千葉県総合教育センターで行われた受賞式に出席し、壇上で賞状を頂きました。常々、自分の花道は自分で作らなければならないと思っていました。よい思い出でになりました。

U
 定年退職前の一年間は退職後にどう生きるか計画を考えました。いろいろなことをゆっくり考えてみたいとも思いました。落ち着いた環境で考えてみたいと思い東京大学教養学部の聴講生になる計画を立てました。いくつかの審査を経て入学が認められました。
 次にやることは残務整理でした。卒業式の準備、PTA会計と学校会計を閉めること、そして来年度の入学式やPTA大会の準備等、やることが山ほどありました。これらをすべてやり終えたのは最後の日の前日でした。これで次の人に迷惑をかけなくて済むとホッとしました。

 さて、多忙な校務の中にも「忙中閑あり」といえることがありました。私は昼休みには毎日玄関前に立って子供たちが校庭で遊ぶ姿を見ていました。そういう義務があったわけではありません。ただ子供たちが遊んでいる様子を見ているのが楽しかったし、ホッとできる一時だったのです。そんな様子を子どもたちは「自分たちを見守ってくれている」と受け取っていたようです。もちろんそういう意味もありましたが。 離任式の時に子供たちがそのことに触れて感謝の言葉を贈ってくれました。思いもかけなかったうれしい言葉でした。この時期、私は自分が校長であったらどうするだろうかという意識をもって行動するように心がけていました。

 最後の日の仕事は教育事務所で表彰を受けることでした。退職者全員がそろって一人一人が表彰とねぎらいの言葉を受けるのです。これは名誉なことです。
 在職中に何か不祥事があると表彰を受けることができません。 退場するときには事務所の職員が並んで拍手で送ってくれました。これがとてもうれしく清々しい気持ちになりました。
 3月31日の日曜日の夜、今日一晩寝て明日の朝は本当に退職だなと思いつつ床に就きました。
 
 朝目覚めると目を閉じてあの塀の中の道を思い起こしました。 道は途切れたままでした。しかし次の瞬間、テレビ画面のように映像がパッと出たのでした。穏やかな緑の野原(草原)の中をまっすぐな一本道が見えました。道は遥か遠くの山並みの向こうまで続いていました。あまりにも遠いのでその先の様子は見えませんでした。非常に驚くと同時に、これからはこの道を歩いていくのだろうと思いました。

 さて大学の授業が始まるまでの間にもう一つ出来事がありました。教頭会主催の表彰式と祝賀会があったのですが私は出席しませんでした。この会は教頭・校長に昇進した人と退職する教頭・校長を表彰し祝う会でした。この件で教育委員会に表彰状が届いているので取りに来てほしいというのです。面倒でしたが近くなのですぐに出向きました。賞状を渡されるだけだろうと思っていたところ、教育長が職員の前で表彰状を読み上げて手渡してくれました。表彰状を受け取ったその時、立ち上がった数十人もの職員から一斉に拍手が起こりました。これにはびっくりしました。本当にありがたく思いました。

V
 退職後一週間していよいよ大学の授業が始まりました。忙しい毎日から解放されて駒場東京大学の静かな雰囲気を味わいました。私は3年生の授業に参加していましたが、教育者としての立場から大学と学生を眺めていました。東京大学の学生たちはとても興味深いものでした。彼らの授業態度はとてもまじめでした。先生が入ってくると話し声がピタッとやみ、講義が始まるとカツカツとペンの音が聞こえてくるのでした。これはとても印象的でした。
 授業以外でもう一つ印象に残ったことがあります。ある風雨の強い日のことでした。私は学生食堂の出入り口に近いところで昼食をとっていました。ドアが開いたときに入り口付近の棚に置かれていたパンフレットが5〜6枚風に飛ばされて床に落ちました。きっと踏みつけられて泥だらけになってしまうのだろうと思いました。すると近くのテーブルにいた数人の学生が立ち上がりそれを拾って棚に戻してくれたのでした。その様子にとても感心しました。すばらしい学生たちだなと思いました。
 妻と駒場際に出かけたことがありました。大勢の人が訪れてにぎやかでした。 1号館そばのベンチに座って出店で買った焼きそばを食べました。科学の発表も見ました。係の学生が丁寧に説明してくれました。後日、その場を通るたびにその時の思い出がよみがえりました。
 私は駒場校内の植物を調べてみました。ここには野山にあるような珍しい樹木がいくつもありました。一番のお気に入りは学生食堂わきの広場にはえているヤマナラシの大木でした。この木は5月ごろにふわふわとした綿毛のついた種子を飛ばすのです。その周囲は雪が積もったように白くなりました。ほかにもいろいろありますが、ホームページ(michiyax.jp)に記載しました。
 私が大学生であったのは数十年前のことです。今となっては旧い大学の姿しか知りません。しかし、現在の大学と学生たちの様子を直接見ることができました。

 東京大学のほかに早稲田大学オープンカレッジ受講、放送大学大学院修士選科生、神田外国語大学聴講生、地域の小学校の放課後塾の講師、合唱サークルへの参加を経験しました。また、道徳教育に関する論文を1本書きました。

 放送大学はテレビ画面を見ながら一人で勉強するので根気がいりました。かなり頑張って13科目の単位を取得したところで終了にしました。
 放送大学でも良い思い出があります。それは千葉大学を退官した西野先生が主催した植物研究のゼミでした。隔週で開かれたこのゼミには私を含めて毎回4人ほど集まりました。それぞれが持ち寄った植物の写真やサンプル、資料をもとにして話し合うのでした。ゼミの前日になると私は植物集めに出かけました。
 西野先生は理学博士でした。ご自分の経験と知識を気さくに話してくれました。皆が集まって話し合うこの2時間は幸せなひと時でした。放送大学でこんな素晴らしい経験ができたのは幸運でした。また、西野先生からは貴重な古来の朝顔の種子をいただきました。今も大事に育てています。

おわりに
 退職の黙示録に示された道のまだ半ばにも達していないだろうと思います。これまでに見たり経験したりしたことはホームページ(michiyax.jp)に記載しました。これからの道中で更に多くの経験をするだろうと思います。ちなみに遥か遠くの山並みは自分の生と死の境だろうと思っています。

 人生の第三期にあたる退職後9年間は健康であったおかげで様々なことができました。しかし、同じことをもう一度やれと言われてもできそうにありません。
 次は人生の第四期に入ります。第四期には病気がちになり介護を受けるようになります。そして最後に死を迎えます。
 第三期と第四期の期間の長さは、その人の健康の度合いによって違ってきます。長く健康で生きられるように努めています。
2022年3月23日

[追記] 2023.6.13
 退職してあっという間に11年が過ぎました。これを機に教頭試験と校長試験で経験したことをもう少し詳しく書き残したいと思いました。すでに関係する人もいなくなった思います。
「教頭試験」
 私は教員になったのが他者より5年遅かったのでかなり遅れをとっていました。さすがにこれではいけないと思いあちこちに頭を下げて回り、愛想笑いもしました。これを最後と臨んだ試験で集団討論・ペーパー試験・面接をクリアして奇跡的にパスすることができました。私が教頭になった時、誰もが驚いたそうです。
 試験に何回も望むうちには、胸糞悪くなる面接がありました。当時私は夷隅郡の視聴覚教育センターという部署に努めていました。ここは学校に籍を置いたまま出向した形になっていて、このことは県に対しては内密であり、ばれたら大変なことになります。視聴覚教育センターは周辺のいくつかの町と共同で運営されていました。ここに1年間勤めたころ、財政難を理由に視聴覚教育センターを縮小する流れになりました。このあおりで私は隣町のO中学校と視聴覚教育センターを兼務することになってしまいました。これが教頭試験の面接に思わぬ影響を及ぼしました。某面接官が「中学校を1年で異動していますがどうしてですか」と質問したのです。「視聴覚センターにいるからです」とは答えられないので四苦八苦しました。おそらく何か問題のある人物に違いないと怪しんだのでしょう。運が悪いことに次の年にもこの面接官に遭遇しました。私は意を決して校長ににこのことを話しました。すると翌年は、この人物は面接官から外されていました。しかし、部屋の奥で疑り深く私を見つめていました。
 この面接ではこんな質問がありました。
「児童生徒の登校についてはどんな法律によって定められていますか」
実は、どこからを登校とみなすかについて直接に定める法律はありません。学校保険関係の法律で救済を目的にして幅広く登校時と認めているものがありますが、どこからが登校になるのかは、実際には判例によって決まるのです。なので登校途中空とか校門を入ってからとかいう決まりはありません。
「どこからを登校とみなすかを定めた法律はありません。それは判例によって決まります」
このことについては関係する法律を詳しく調べてあったので自信をもって答えました。そんな答えが返ってくるとは思はなかったのでしょう。面接官は目を白黒させていました。これが最後と思って思い切りやろうと思っていました。
 先輩教員のことで、こんなエピソードを耳にしたことがあります。面接で面接官から「あんたは実力で来ているのではないのだから・・」と言われたというのです。さもあらんと思いました。こういうのは初めから出来レースなのです。
 ともあれ成績が良かったのと根回しが効いたのか、奇跡的に教頭試験を突破することができました。ここに至るまでには何年にもわたる苦難の日々がありました。
 「校長試験」
 さて、教頭になってから数年がたち、「校長試験」に挑戦することにしました。しかし、この数年間に試験のシステムが変わっていました。県内の各地域にできた教育事務所が選考にあたりプレ選考を行うことになりました。この制度は私にとって大きなマイナスになりました。つまり、出来レースにのっていない人間は、ここではじかれてしまします。元々は選考の簡素化を図る目的があったのかもしれませんが、こんなふうにも使えるわけです。それでも何度か挑戦しましたが、一度もパスすることができませんでした。仕舞には、よほど成績がよくない限り合格できないよと引導を渡される始末でした。努力による一発逆転はなりませんでした。
 学校を退職して11年たった今、当時とは事情が大いに異なります。団塊の世代が大量に退職して教員不足の時代に突入しました。特に管理職になる世代が不足しており、短い期間で教頭・校長へと昇任するようになりました。背に腹は代えられないのでしょう。私たちの時代とは大違いです。
 私も心に悔いが残りましたが、不利な条件の中でも、できる限りのことを精一杯やったという自負があります。
 現在、小学校で放課後塾の講師をしていますが、当時仲間だった人たちが教頭・校長になっており大変良くしてくれます。私は下の人達をいつも大切にしていました。そのおかげだと思います。
 人生を長いスパンで考えると教員生活はほんの一時のことにすぎません。人生は退職後も長く続きます。
 さて、校長になった人たちは十中八九、心を病みます。自分が何か特別な存在であると錯覚して精神が変質してしまうようです。かつての仲間が人を見下すようになったり威張りちらしたりするようになったのを何度も見てきました。なかにはストレスのせいか心の病が重くなり退職した人もいました。変質した心は元には戻らないようです。
 私がかつて管理職選考に備えて私的な研修を受けた時のことです。校長経験のある講師からこんな話を聞きました。
「校長をやると命が縮みます。私はは先生方がすぐお茶するのが許せなかったのでお茶するのを禁止しました。ある時、私がが出張したすきに先生方がお茶をしていたのです。それを知った時、私ははらわたが煮えくり返りました」
 ※お茶するとは休憩時間にお茶を飲みながら話をすること。小学校ではよくありました。
 この話は校長が心を病んだ一例として今も心に残っています。校長になると職員の一挙手一投足が気になって仕方がないようです。

 当時は腹立たしくも思いましたが、退職から長い年月を経て、ようやく当時のことを一歩離れて冷静に見られるようになりました。今だからこそ感じられる自分の思いを素直に書いてみたくなりました。

No.189
空からふわりと落下傘
 不思議なものが空からふわりと降りてきました。白い毛の下に種子がぶら下がった落下傘のようなものでした。こういうものを見つけるとワクワクします。はじめはテイカカズラの種子だと思いましたが、知人である元千葉大の先生の西野さんの意見によるとサカキカズラの種子だろうというのです。早速、樹木図鑑とネットで調べてみました。すると、種子の形状からどうやらサカキカズラのようでした。サカキカズラを知らなかったのでびっくりしました。テイカカズラもサカキカズラも千葉県全域に分布しています。花、葉、果実の形等に違いがあるので区別がつきやすいと思います。夏から秋にかけて探してみようと思います。身近にはワクワクするものがまだあります。
2022年3月19日

No.188
手首式血圧計

 血圧の治療を始めて20年以上になります。職場の健康診断で要精検がでたので病院を受診したのが始まりでした。以来、降圧剤を服用しています。血圧は下を90以下に保つことを目標にしています。
 使用していた上腕式血圧計が壊れたので新たに手首式血圧計を購入しました。手首に着けてボタンを押すだけで自動的に測定してくれます。さらに、測定値が60回分記憶されるので、メモをとらなくてすむので楽です。
 早速使ってみると何と下の血圧が92と目標値の80を大幅に越えていました。何度やっても9-0越えでした。油断していたことを反省しました。
 高血圧のままでいると心筋梗塞や脳梗塞のリスクが高まるそうです。私は上を120前後、下は80前後に維持しています。医師からは体重を下げることが大事だと言われています。それで毎日散歩を欠かしません。血圧が私の健康のバロメーターです。
2022年3月15日

No.187
純米吟醸45「獺祭」(だっさい)
 清酒 国産米 米麹(国産米) 精米歩合45% 16度 山口県岩国市周東町 旭酒造(株) 獺祭とはカワウソが捕らえた魚を岸に並べた様子が祭のように見えることに因みます。南洋の果物のような芳香があります。まず甘みを感じ次にピリッときます。やや辛口でありそれが清涼感をもたらします。爽やかな気分になります。
2022年3月5日

No.186
高梨沙羅さんW杯ジャンプで優勝

 沙羅さん優勝おめでとう。こんなに嬉しそうな顔を見たのは久しぶりです。オリンピックでは服装規定により失格になってしまって泣きじゃくる姿が気の毒で見ていられませんでした。しかし、そこから強く立ち上がった姿を見て勇気づけられました。これからも応援しています。
2022年3月3日

No.185
羽生選手の言葉に感動

 
 北京冬季オリンピックではいくつもの感動的な場面がありました。その中で特に心に残ったことがあります。それはフィギアスケートエキシビション後に羽生結弦選手が会見で語った言葉です。
 色々なことを考えさせられたという羽生さんは天を仰ぐように一言ひとこと続けました。「人生って報われることがすべてじゃないんだなと・・ただ、報われなかった今は、報われなかった今で幸せなんだなって。不条理なことはたくさんあるけれど少しでも前を向いて歩いていきたい」
 ここに来るまでに羽生さんはどれだけ努力を重ねてきたことだろうか。願いはかなわなかったけれど幸せだと思えるくらいに頑張ってきたのだと思いました。また素晴らしい演技を見せてくれるのを楽しみにしています。
2022年2月26日

No.184
ウクライナのハリコフに思い出

 ウクライナ第二の都市ハリコフで侵攻してきたロシア軍とこれを迎え撃つウクライナ軍とで激しい市街戦が行われました。
 ハリコフという地名は中学生以来ずっと忘れたことのない地名です。中学1年生の時に社会科の授業で中村先生が自分は戦争で捕虜になりハリコフというところにいたことを話してくれました。ハリコフは日本からずっと離れたところでした。この時のことは私のホームページ「母は戦争の思い出を忘れな草に」の中の「戦争の残り香」に記述しています。
 ハリコフと聞いて中村先生を思い出しました。中村先生は私の母と仲の良い同僚でした。恐らくもう旅立たれているでしょう。
 テレビでハリコフと聞くたびに中村先生がここにいたのだなと思って親しみを感じます。そのハリコフが再び戦火に見舞われました。ロシア軍とウクライナ軍双方の血が流されました。亡くなった兵士たちを気の毒に思います。
 ウクライナに平和がもどることを祈ります。
2022年2月28日

No.183
ウクライナ首都キエフ陥落迫る

 防空システムを破壊されて制空権を失い、ウクライナは首都キエフが数時間以内に陥落すると予想されています。ロシアにとってウクライナの首都キエフを制圧することはウクライナを無力化するうえで重要な目標です。ベラルーシから近いこともあり、もっとも狙われやすい標的であると思っていましたが、ロシア軍の動きは予想以上に速く、あっという間にキエフ陥落が迫ってきました。ロシアはウクライナ占領後の要人殺害リストを作ってあるということです。今後残虐な殺害計画が実施されるでしょう。
 ロシアの軍事行動は世界の批判を無視して行われたなりふり構わぬものでした。どんなに批判されようと占領してしまえばこっちのものだという考えです。こういう考えがやがては中国の台湾侵攻や尖閣占領につながると思います。
※国連の常任理事国であるロシアが進んで戦争を仕掛けるというのは考えられないことです。このようなことであれば国連は欠陥商品です。国連改革が必要であると思います。

 国連の常任理事国であるロシアが進んで戦争を仕掛けるというのは考えられないことです。このようなことであれば国連は欠陥商品であり、国連改革が必要であると思います。

 中国は遅かれ早かれロシアに呼応して台湾侵攻を行うでしょう。その時中国は尖閣は中国領だと主張して尖閣周辺に軍を展開するでしょう。日本は損害を出しても軍事的にこれを阻止しなければなりません。
 この時にロシア軍が後方から日本の動きを牽制するでしょう。中国はロシアと内通していて台湾侵攻の際には支援を受ける確約をもらっているでしょう。ロシアは北方領土を足掛かりにして北海道に侵攻するかもしれません。今のロシアと中国はこれほどまでに危険に思えます。
 以上はあくまでも推測ですが、一般人の私でもこれくらいのシナリオは考えます。最悪の事態を想定しておいた方がよいと思います。後になって想定外だったでは情けないです。
2022年2月25日

No.182
ロシアがウクライナに軍事侵攻

 かねてより着々と準備を進めていたロシアの軍事侵攻が始まりました。これはウクライナ東部だけでなく全土で行われると予想します。ロシアはこれを機会にウクライナ全土を制圧して支配下に置くつもりでしょう。西側の国々はロシアとの軍事的直接対決を避けたい国ばかりです。従ってロシア軍が圧倒的に有利です。経済制裁を受けてもウクライナを占領を目指すでしょう。ウクライナはNATOに加盟していないのでNATOの支援が受けられません。厳しい戦いになります。アメリカをはじめ西側の国々は経済制裁をちらつかせて口をパクパクするだけです。この結果は中国による台湾侵攻、尖閣侵攻につながると思います。日本にとっても明日は我が身です。

 ロシア軍はウクライナ南部とベラルーシからも侵攻しています。これは全面戦争です。 中国はロシアがウクライナに軍事侵攻することを前もって知らされていたと思います。従って中国はどこかでロシアと呼応すると思います。今思うとロシアが最近北方四島で大規模な軍事訓練を行ったのも、中国とロシアの軍艦が一緒になって日本周辺を航行したのもウクライナへの軍事侵攻の伏線であったと思います。これは台湾侵攻や尖閣侵攻への伏線であるとも思います。
2022年2月24日

No.181
ワリエワさんのドーピング疑惑について
 
ワリエワさんのことは本当に気の毒だと思っています。15歳の少女が自ら禁止薬物を摂取するとは思えないからです。周囲の大人たちや組織の働きかけがあったに違いないと思っています。
 第一の過ちはドーピング疑惑のある選手をオリンピックに参加させたことです。
 第二の過ちは疑惑のある選手に演技することを許可したことです。これによって当該選手が三位以内に入るならば表彰式は行わないという何とも奇妙な事態になりました。その結果、フィギアの団体戦ではオリンピック期間中にメダルを受け取れなくなりました。
 今後このようなことが起こらないようにするためにはドーピングにかかわった選手はオリンピックに参加させないというルールをきちんと実施することが大切であると思います。
 ロシアは国ぐるみのドーピング問題でオリンピックへの参加を認められていません。しかし、たっての願いでドーピングをしていない選手の個人参加が認められました。それにもかかわらずこのような事態をひき起こしました。今後は個人参加も認めない方がよいと思います。
2022年2月19日

No.180
フキノトウに春の香り
フキノトウが顔をだしています。こちら房総の南では一足早く春の訪れです。 味覚の春さがしとでも言いましょうか、フキノトウを食べると何とも言えない独特の香りがして春を感じます。追って菜の花、桜の季節がやってきます。コロナ禍の中でささやかな楽しみです。
2022年2月17日

No.179
羽生結弦さんの記者会見に思う

 羽生結弦さんが記者会見するというから引退発表かなと思っていましたが違いました。失意のどん底で苦しんでいるのだろうと想像していましたが元気そうなので安心しました。これからもフィギアスケートを続けて自分の思いを貫きたいということだったので安心しました。実は引退してしまうのではないかと寂しく思っていたのです。
 羽生さんの姿に勇気づけられたり励まされたりした人はたくさんいると思います。ぜひフィギアスケートを続けてほしいと思いました。
 会見の冒頭で羽生さんはリンクが滑りやすく跳びやすい気持ちのよいリンクだったとリンクを作った人たちや応援し支えてくれた人たちに対して感謝の言葉を述べました。羽生結弦は大した男だなと思いました。今までにこういうことを言ったスケーターはいなかったからです。記者からの質問には礼儀正しく丁寧に答えていました。
 これからもフィギアスケートを通じて私たちを楽しませたり勇気づけたりしてほしいと思います。そして自分の目指す頂上を極めてほしいと思います。
「羽生の前に羽生なし 羽生の後に羽生なし」と思っています。
2022年2月14日

No.178
純米吟醸 大多喜城

「大多喜城」純米吟醸  清酒 国産米 米麹(国産米) 精米歩合60% 15度 千葉県夷隅郡大多喜町 豊乃鶴酒造(株)  口あたりはすっきりとして甘口です。果物のような芳香があります。誰にでも飲みやすそうです。  大多喜町は江戸時代初期に、本田忠勝の城があった城下町です。この酒蔵は私が子どもの頃からありました。この酒蔵のそば通るととても良い香りの排水が流れていました。  ここのお酒を飲んだことがありませんでしたが、たまたま手に入りました。味わってみるとほのかな香りとともに子どもの頃に住んでいた大多喜町のことが思い出されました。  若いころは日本酒が苦手でした。しかし今はおいしいと感じて嗜むようになりました。きっとよいお酒が造られるようになったからだと思います。
2022年2月13日

No.177
スノーボードハーフパイプで平野歩夢金メダル
 スノーボードハーフパイプで日本の平野歩夢さんが一位金メダルに輝きました。圧倒的な強さでした。すかっとしました。スノーボードは新しい競技です。日本人にはとても親しめる競技です。私はスノーボード競技が一番面白いと思います。
 アメリカのホワイトさんがスノーボード競技の世界を開拓し一流の競技に育てました。その背中を追ったのが平野歩夢さんです。スノーボードの次代を託す天才が現れたのを見てホワイトさんは本大会をもって引退しました。平野さんの背中を追って、日本の子どもたちから次の天才が現れることを望みます。
2022年2月11日

No.176
純米吟醸

 お酒はあまり飲みませんが、最近は時々晩酌をしています。焼酎、ウイスキー、ワイン、ジン、日本酒など季節や気分に応じて選んでいます。
 この日本酒はたまたま友人からいただいたものです。
「稲魂一滴」 九十九里の地酒 梅一輪酒造(株)山武市産山田錦100% 16度 すっきりとした癖(雑味)のない爽やかな味わいです。お酒に弱い人にも飲みやすいと思います。これで晩酌すると食事がおいしくなります。
 お気に入りの地酒を楽しむのもよいと思います。
2022年2月10日

No.175
17歳のモーグル女子選手健闘

 日本の17歳のモーグル女子選手が5位に入賞しました。しかし、彼女はインタビューで"優勝できなくて申し訳ありません"と謝っていました。
 でも優勝できなかったからと言って謝る必要は全くありません。世界中の強い選手が集まる中での5位とはすごいことです。17歳でこれだけの成績を出せたのは大変なことです。これまでにどれだけ努力を重ねてきたことでしょう。
 また、失意の中で"寒い中で支援・応援してくれてありがとう"と感謝の意を述べたのも立派だと思いました。
 目標には届かなかったけれど、まだ17歳です。これから何度もオリンピックを目指せるでしょう。"ご苦労様。よく頑張ったね"と言いたいです。
2022年2月8日

No.174
ナビの電源が入らない→解決

 一難去ってまた一難です。今度はナビの電源が入らなくなりました。午前中は普通に動いていたのに午後には電源が入りません。画面が真っ暗なままです。パソコンの場合も、こういう場合は手に負えなくて修理でした。一応、KEIYOエンジニアリングにメールで相談を入れました。何か対処法があるのか、修理になるのかと。保証書はあります。
 品物は気に入っているのですが外れをひいたみたいですね。しかし我慢強く対処しようと思います。動きがあったらお知らせします。

追記 解決しました。このナビはOSがアンドロイドなのでアンドロイド携帯での対処法を参考にしました。それによると”電源スイッチを30秒長押しして2分待つ”でした。 実行すると12秒の長押しで起動できました。保存データ等に異常はありませんでした。 トラブルはもうたくさんです。
2022年2月7日

No.173
ナビのカチャカチャ音解決

 分解するしか方法がないと思っていたナビの異音ですが、思いもよらぬところから解決の糸口が見えてきました。
 ナビを縦にしたり横にしたり表にしたり裏にしたりしてゆすっているとある場所を持った時に音がしなくなることに気づきました。よく調べてみると電源ボタンでした。電源ボタンをおさえると音がやみました。原因は電源ボタンの振動音でした。
 そこでon/offに差し支えない程度にセロテープでおさえました。これで解決しました。分かって見ると本当につまらない理由でした。早まって分解しなくてよかったです。分解していたら最悪の場合、壊していたかもしれません。
 早まって行動し失敗するのを避けるためには何でも事前によく調べることが大切だと思いました。
 ところでナビを設置するためには通常粘着テープの付いた土台を使いますが、私の車はダッシュボードの表面にデコボコとカーブがあるために外れやすいのです。そこで吸盤が吸い付きやすいアクリル板で土台を作りダッシュボードにねじと両面テープで固定ました。しっかり固定できました。
2022年2月5日

No.172
ナビの中からカチャカチャ音
 前回ドラレコ付きナビを買ったことを書きました。結構気に入っているのですがナビ本体の中からカチャカチャと音がします。何かが外れているようなゴミが入っているような。車の振動で音を出すので気になります。ナビの動作には異常ありません。"すり替え対策店"なので相談すると警戒されるだろうと思ったのですが、問い合わせのメールを送ってみました。返事が来るまでに4〜5日かかると注意書きがありました。返事が来るかどうかわかりませんがダメモトです。ケースを自分で開けてもいいのですが、ケースのツメを割ってしまったりするので厄介です。とにかく返事が来るまで待とうと思います。
 ところでこのナビ、アマゾンで注文したと思ったらいつの間にかマーケットプレイスの別の店の受注になっていたという不可解なところがあります。最近はアマゾンでも油断できません。品物はきちんとしたものが届いたから我慢しますが、もしかしたらバッタモンかもしれないなどという疑いが湧いてきました。どの程度サポートしてくれるのかも疑わしく感じてきました。以前草刈り機購入で詐欺にあってから疑り深くなりました。サポートが無くても適当な時期に自分で直そうと思います。ケースを開けて確認するだけなのでリスクは小さいと思います。結果が出たらお知らせします。
 後日、問い合わせに対する店からの返事がきました。販売しているだけなので対応できません。メーカーに直接問い合わせてくださいとのことでした。
2022年2月2日

No.171
コンタクトレンズ超音波洗浄機

 私はもう40年ほどコンタクトレンズを使っています。はじめはハードレンズ、今は2ウィークの遠近両用ソフトレズです。メーカーはボシュロム・メダリストです。他のメーカーも色々試しましたが、一番遠近のバランスがよかったのがこれでした。PW‐4.00、BC9.0を使っています。満足度は10段階の8〜9です。
 ところでソフトレンズの洗浄保存は慎重に行はなければいけません。含水率が高くて使いやすい反面、洗浄保存をいい加減に行うとカビや細菌が繁殖して重篤な目の病気をひき起こすからです。
 洗う時には掌にのせて指で慎重にこすり洗いをします。しかし2週間もすると汚れや傷みが蓄積して装用感が悪くなります。これがいつも気になっていました。
 そんな折、メガネ店で超音波洗浄機を使ってメガネを掃除してくれたことを思い出しました。コンタクトレンズにも超音波洗浄機がないだろうかと思ってネットで検索してみるとなんとありました。使いよさそうなのを早速購入しました。
 USBで充電でき、振動時間は3分と5分が選べます。通常は3分、汚れがひどい時は5分だそうです。まずは3分で試しました。洗浄ケースに洗浄液とレンズを入れてスイッチを入れると青いインジケーターが点灯してビーンと作動音がしました。3分経つと自動的に停止しました。レンズを装着前に生理食塩水ですすぎました。装用感は滑らかでした。こすり洗いをしなくてよいのは安心感があります。
 この超音波洗浄機が本当によいかどうかは、しばらく使ってみないとわかりません。結果は改めてお知らせしたいと思います。
2022年1月31日

No.170
ドライブレコーダー付きカーナビを購入

 高齢者の事故やあおり運転が頻発しているのでドライブレコーダーがあった方が安心だと思いました。ちょうどカーナビが古くなったのでドラレコ付きにしようと思いました。これなら地図が古くなってもドラレコとして使えると思いました。
ア○○ンで検索するとKEIYO という日本メーカーのもの(X‐DRIVE)が53%オフの9,300円で出ていました。OSはアンドロイド1.3GHZ、ゼンリン地図、200万画素ドラレコ、単漢字入力可能という性能でした。しかし、やけに安いので大丈夫か不安でした。1日考えたあげく、エイっと決断して購入しました。
 商品到着後、すぐに検品しました。付属品はそろっていたし新品で問題はありませんでした。ダッシュボードに張り付ける台座は中央が盛り上がっていてナビの吸盤と密着しやすい工夫がされていたのには感心しました。しかし、ダッシュボードとの接着が弱くてすぐに外れたので、この部分はアクリル板で作り直しました。
 早速取り付けて電源スイッチを押しましたが何度やっても起動できません。初期不良だと思って目の前が暗くなりましたが、一応取説を見ると充電してからでないとON/OFFできないと書いてありました。充電をすると無事起動できました。
 デジタルTFTの液晶画面は明るくて見やすいですが、少し青っぽいです。スマホと同じような操作ができます。図形や文字はギザギザがなくきれいです。漢字入力もできました。
 ナビとして必要な機能はすべてそろっています。ワンセグは画質が少しモヤッとしていますが感度はよいです。田舎でも快調に受信しました。
 さてナビの裏についている200万画素のドラレコですが、鮮明に映りました。KEIYOはドラレコのメーカーでした。お世話にはなりたくありませんが安心です。
 取説は全部目を通しました。丁寧で分かりやすい取説でした。取説を見ると会社の姿勢が分かります。しばらく使ってみてまた感想を書きたいと思います。
2022年1月29日

No.169
新型コロナの第6波

 連日第6波による急激なコロナ感染者数の増加が話題です。もはやどこにいても感染の危険性があり、感染するのはある程度仕方のないことのようです。
 しかし、感染により抗体保有者が増えるという良い面もあるので悪いことばかりではないと思います。私の希望的観測では感染の急激な増加カーブは急激な下降に転じるのではないかと予想します。際限なく増え続けることはないと思います。したがって第6波の期間は短いのではないかと思います。
 幸いなことにオミクロン株は重症化することが少ないようです。医療も社会の体制も進歩しました。対処方法の工夫によって医療の逼迫が避けつつ、うまく迎え撃つことができるかもしれません。
新型コロナのパンデミックは未曽有の世界的な大災害です。しかし、人類の英知によりこの大災害を乗り切る日は近いと思います。
2022年1月25日
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No.168
バイオハザード

 新型コロナのオミクロン株による感染拡大が急速です。これまで比較的に安全であった田舎の我が街にも感染が及んできました。児童生徒や教員にも感染者が出てきました。いったんは収束するかに見えた新型コロナが再び勢力を盛り返してきました。  以前、私は「ノストラダムスの大予言」(五島 勉 著)に出てくる「恐怖の大王」について書いたことがあります。この本は今からおよそ50年前に出版されました。少しおさらいします。次のように書かれています。
「1999の年、7の月 空から恐怖の大王が降ってくるだろう。
アンゴルモアの大王を復活させるために。
その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配するだろう。」(五島 勉 著大予言P145)
 当時、この恐怖の大王が何なのか話題になりました。巨大隕石、核ミサイルではないかと想像されました。
 ところでノストラダムスは「恐怖の大王」について別の言い方もしています。
「姿は見えません。・・・姿そのものはあるのかもしれません。しかし、見えないのです。恐らく非常に高い空の上におり・・・目にもとまらぬ速さで降ってくるのでしょう。そのためか、それだけはわたくしにも見えませんでした」
「ともかくそれが降ったあと、すべてが変わり果てておりました。未来の都や街々も、男とも女ともわからぬ人々も」
「・・・何でもないものが降るのです。・・・それが恐怖の大王です。それによってすべては消え、失われ・・・元の形をとどめなくなるのです」
(五島 勉 著 ノストラダムスの大予言Up62〜65)
 これらの記述から恐怖の大王と現在の新型コロナウィルス災害は驚くほど一致していると思いました。当時は大きな物理的な破壊が起こるのではないかと考えました.しかし、現状は目に見えない新型コロナウィルスという生物による人間に対する直接アタックであり社会の破壊です。世界的な感染拡大は航空機の発達によるものです。あらゆる場所に高速で人を運びます。もちろんウィルスも。南アフリカで確認されたオミクロン株はあっという間に世界中に広がりました。
 ところで1997年7月には何も起こりませんでした。大予言は当たらない、でたらめだと言われました。しかし、「1999の年、7の月」が西暦ではないとしたらどうでしょう。私はこれを西暦とは別の宗教的なスケールだと考えました。"7の月"に2019年を当てはめて考えてみました。すると2024年が一区切りの年になります。
 あくまでも私の想像であり遊びです。とはいえ、世界は不気味な方向に向かっているように思えてなりません。
2022年1月23日

No.167
早大での強烈な思い出

 これは私の「”忘れな草”に残した戦争の思い出」の中の「戦争の残り香」に掲載した文章です。学生運動が激しかった頃の思い出です。
<1 燃え上がる正門> 世間は大学紛争の真っただ中にあった。キャンパスにはあちこちに立て看板があった。黒い太文字で何やら書かれていた。ヘルメットをかぶった男たちの声が一日中大音量で響いていた。そのわきを通りながら授業に向かった。ある日、午後の授業を終えて正門に向かうと閉鎖された門に椅子だの机だのが積み上げられてバリケードが作られていた。あたりの雰囲気は緊迫していた。門の外側には灰色に塗られた機動隊の車がたくさんいた。どうしたのだろうと思ってと離れて見ているとボンという音とともにバリケードから大きな炎があがった。ガソリンに火がつけられたのだった。正門は黒い煙とともに燃え上がった。
 機動隊が発射する催涙弾がポンポン飛んできた。催涙弾にあたったら大けがをする。建物の陰に隠れた。催涙弾はシューッと花火のように炎と煙を吐き出した。煙は化学的な嫌なにおいがした。煙を浴びると目がとても痛かった。そして激しくせき込んだ。
 授業を終えた学生たちが大勢集まってきた。その時法学部脇の南門から機動隊が突入してきた。10人くらいの隊員がジュラルミンの盾を前に構えて2列の隊を組んで走ってきた。先頭に指揮者らしい隊員がいて旗を持っていた。その隊員は必死の形相であった。機動隊に守られながら無事に校外に出ることができた。催涙ガスのにおいが体に染みついていた。機動隊員の靴音と催涙弾のにおいは今でも忘れられない。

<2 アジ演説> 立て看板とアジ演説は日常的であった。いつもその前を通って授業に向かった。ある日、立て看板の前の椅子に座って友達とアジ演説を聞いたことがあった。私は不用意にも友達に向かってカクマルがどうの民青がどうのと話しかけた。カクマルと民青は当時の二大勢力だった。近くにいたカクマルのヘルメットかぶった男がじろりとこちらを見た。その目つきが異様であった。危ないと直感して無関係を装ってその場を離れた。

<3 セクトの対立> 演劇博物館前のを青ヘルの一団が隊列を組んでデモ行進していた。時々見かける風景だった。すると突然カクマルのヘルをかぶった集団が鉄パイプを振りかざして襲い掛かった。たちまち鉄パイプで殴りあう乱闘になった。乱闘はすさまじく互いにメッタ打ちであった。乱闘が収まるとメッタ打ちにあった学生が放心したようにふらふらと歩いていた。上着の袖がもげていた。乱闘現場を目撃したのは一度きりだったが同様のことは何度か耳にした。またある時、裏門脇の路地を歩いていると数人の奇妙な集団に出会った。身をかがめて前方を探りながら用心深く歩いてくる男たちだった。一番前の男の顔には白い包帯がまかれていた。包帯には赤く血がにじんでいた。男の目はきょろきょろと動いていた。そして安全だから来いというように合図をした。多分、反対派の学生の襲撃から逃れていたのだろう。思想が違うというだけで相手に対して容赦なかった。

<4 学生たちが立ち上った> カクマルはと民青の抗争が激しくなり、授業妨害が頻発した。こんな状況に対して一般学生が立ち上がった。各学部の学科の学生たちがそれぞれの旗を立てて大隈講堂前の広場に集結して座り込んで抗議した。私も私もこれに加わった。
 周辺ではカクマル派の学生たちがデモをして駆け回って不穏な動きをしていた。突然カクマル派のデモ隊の一団が「あそこに民青がいる!」と叫んだかと思うと隊列を組んだまま座り込んでいる学生たちを容赦なく踏みつけながら突進してきた。あちこちから悲鳴が上がり大混乱になった。デモ隊は学生をドスンドスンと踏みつけながら私の方に向かってきた。学生たちが覆いかぶさるように崩れてきた。それに押されて私はあおむけに倒れた。空が見えなくなりあたりが暗くなった。私は覚悟をした。その時、倒れた私の上で懸命に両手を踏ん張って支えている男子学生がいた。彼の顔は苦痛に歪んでいた。彼のおかげでけがもなくすんだ。混乱のさなかで彼の名前も学部も確認できなかった。お互いに体を張った仲間だった。余計な言葉はいらなかった。

<5 嵐が収まった大学> 学生運動のあらしが吹き荒れた早大を卒業し私は2年間会社勤めをした後「生物学」を学ぶために再び早大に戻った。キャンパスは立看板もアジ演説もなく静かだった。2年間に何があったのだろうかと不思議に思った。早大を二度卒業したが無駄をしたとは思っていない。早大でなければできないことだった。
 それから理科の教師として生き、管理職を経て定年を迎えた。定年と同時に東京大学教養学部の聴講生になった。これは1年前から準備をしていた。ゆっくりといろいろなことを考えてみたかったからだ。
 その後、早大のオープンカレッジを受講して早大を訪れた。大隈講堂はあの時のままにたたずんでいた。大隈重信像は行き交う学生たちを穏やかに見守っていた。
2022年1月21日

No.166
夢は神様からの贈り物

 夢は心地よいものもあれば不快なものもあります。ここでは心地よい夢について思いを述べたいと思います。
 私はある目的地に向かって歩いていました。はじめは手ぶらでしたが途中からチャチャのひもをひいていました。
 チャチャは3年前に死んだ我が家の犬です。14年間、家族と共に暮らしました。仕事から帰るとチャチャを連れて散歩に出ました。チャチャはこの散歩を一日中心待ちにしていました。散歩から帰ると餌を食べさせたりダニがいないか調べたりしながらひとしきり遊びました。よくじゃれついてきました。
 そのチャチャが私と一緒に歩いているのです。嬉しそうにじゃれついてきました。懐かしさと嬉しさで頭をなでたり体をなでたりしました。柔らかくふわふわとした毛の感触が伝わってきました。しばらくすると夢はすっと消えてしまいました。目が覚めて夢だったのかとがっかりしました。楽しい夢も目が覚めると寂しいものだなと思いました。
 午後に散歩に出ました。チャチャがいてくれたらなと思いつつ、昨夜の夢を反芻しました。そして夢であってもチャチャに会えたのは素敵なことだ、がっかりすることはないと思いなおしました。心のスイッチが切り替わりました。チャチャの夢は神様からの贈り物のように思えてきました。
 以来、嬉しい夢は神様からの贈り物と思って大切にしています。
2022年1月20日

No.165
新型コロナのオミクロン株増加

 新型コロナの第6波が到来し千葉県では感染者数が大幅に増えてきました。およそ9割がオミクロン株だそうです。知事によれば今のところ蔓延防止法の適用は考えていないとのことです。社会の動きを維持しつつ対応することが求められています。マスクと手洗い、蜜を避ける等の対応策はこれまでと変わりません。感染力が強いようなのでこれまで以上に注意が必要です。
 居住地の"いすみ市"でも感染者が出始めています。昨日、娘あてに3回目のワクチン接種の案内が市役所の保健課から届きました。わたしも3回目のワクチン接種が始まったらすぐに接種しようと思います。飲み薬が承認されたのも心強いです。
 私は小学校で放課後の学習塾の講師を続けてきましたがコロナのためこの2年間仕事がありません。今の状態だと今年も駄目だろうと思っています。再開されたとしても講師の顔ぶれがすっかり変わっているだろうと思います。
 また子どもたちに会えるのを楽しみにしています。
2021年1月14日

No.164


サザンカに来るお客様

 今年もサザンカに蜜を求めてメジロがやってきました。寒さが厳しい真冬は小鳥たちも食べ物がなくなるせいでしょうか、晴れの日も曇りの日も小鳥たちは毎日やってきます。
 メジロはサザンカの中を動き回ってじっとしていません。なかなかいい写真が取れません。メジロを驚かせないようにガラス越しに写真を撮りました。
 メジロのほかにヒヨドリやモズもやってきます。ヒヨドリはサザンカの花びらを豪快にむしって飲み込みます。
 コロナ禍で家にこもることが多くなった昨今、庭にくるお客様に会うのが楽しみです。小鳥たちを眺めていると心が和みます。
2021年1月12日

No.163
昨日は大雪警報

 昨日は千葉県南部の"いすみ市"にも珍しく大雪警報が出ました。8時ごろから雪がちらつき始めました。これは大変なことになるかもしれないと思いました。しかし、午前中にはうっすらと積もりはじめた雪も午後にはやんでしまいました。夜中にも降ることはありませんでした。
 今朝は車のフロントガラスに残った雪がカチカチに凍っていました。そこで早めに暖機運転をしてフロントガラスを温めました。20分ほどで氷が解けました。路面には雪がなく、少し凍結が見られるものの大丈夫そうでした。
 ほとんど雪が降らない当地方は少しの雪でも大混乱です。今回は大したことが無くてホッとしました。
2021年1月7日

No.162
去年の12月と今年の12月

 去年の12月は右股関節の手術が終わってから4ヶ月でした。ようやく杖なしで歩けるようになってホッとしていました。しかし、まだ長く歩くのは無理でおっかなびっくりでしたが、よい正月が迎えられると喜んでいました。
 新型コロナは収束するどころかますます感染が広がっていましたが、東京オリンピックまでには収まるだろうと期待していました。心身ともに不安が渦巻いていました。 今年の12月、股関節手術から1年4ヶ月経ちました。手術直後から人工関節が入ったという違和感はまったくなかったのですが、周辺の筋肉に痛みや衰えがありました。それも時間がたつにつれてよくなってきました。今ではバイクにまたがることも簡単にできるようになりました。以前はこれが容易ではなかったのです。
 今年は生け垣の剪定、庭の掃き掃除、ガラスふきなど、どんどん体を動かしています。気持ちが明るくなり、今日は何をしようかなと考えるようになりました。
 新しいことも始めました。「かけはぎ」です。かけはぎとは穴が開いた衣服を穴が目立たないように繕うことです。ユーチューブで動画を見てやったみたくなりました。しかし、動画で見るほどきれいにはできません。何度も動画を見て練習しています。
 12月下旬になって新型コロナのオミクロン株の感染が増加の兆しを見せています。新型コロナが一時下火になってきただけに心配です。
 今年一年懸命に生きてきました。そして残り一日となりました。皆様、よいお年をお迎えください。
2021年12月30日

No.161
Office2007をWPSに交換

 WPSはKingsoft社が発売しているオフィスでマイクロソフトオフィスとの互換性を売りにしています。私はこれを2000円で購入しました。Office2007と同じように操作できます。
 特に不便は感じませんが、ひとつ分からないことがありました。それは"名前を付けて保存"などのメニューの場所です。ネットで検索したところ左上のロゴをクリックすればよいことが分かりました。クリックするとプルダウンメニューが現れました。その中にちゃんとありました。
 この頃はOffice2007を使う機会がめっきり少なくなりました。ほとんどブログやHPへの投稿文の下書きを作る時くらいです。コスパを考えると互換ソフトで十分だと思うようになりました。
2021年12月24日

No.160
年賀状ソフトを更新

 「筆まめ」という年賀状ソフトを長く使っています。年賀状を書く以外に使用することが無いのでずっと同じものを使い続けてきました。しかし、長い間には機能も対応するOS(オペレーティングシステム)も新しくなります。古いソフトでは追い付かなくなります。そこで今年はVer.18からVer.31へと更新しました。一気に13年分の更新でした。
 ワクワクしながらさっそく使ってみました。いつもと変わらない「筆まめ」でした。しかし、デザインや操作性等の細かなところが改良されていて使いやすくなっていました。
 年賀状はすぐに出来上がりました。といっても、写真を変えたりフォントを変えたりするだけです。妻の意見を聞いていくつか訂正しました。印刷も順調でした。
 年賀状ソフトを新しくしただけですが、今年の年賀状が素敵なものに感じられました。
 これからは年賀状を作るだけでなく、もっと"筆まめ"になろうと思いました。
2021年12月23日

No.159


トトロの洞窟

 千葉県君津市の亀岩の洞窟は差し込む朝日が川の水面にハートを描くとして有名になりました。新聞や雑誌で紹介されることがよくあります。
 11月下旬の天気の良い日に妻と一緒にここを訪れました。ここに来たのはこれで三度目です。ここには楓やコナラ、コメツガなどの樹木があります。木でできた遊歩道があり紅葉を見ながら散策できます。夏には蛍も見ることができます。遊歩道脇の小川を覗くと蛍のえさとなるカワニナが生息していました。
 トトロの洞窟は通常は「亀岩の洞窟」と言われます。洞窟の中に亀の形をした岩があるからだそうです。ハートがあの反射波は朝日が差し込むときに見られるので、私たちが10時半ころについたときには駐車場が満車状態でした。
 遊歩道を上がると近くの店の店員がソフトクリームの味見をさせてくれました。ほのかに蜂蜜の香りがしました。気に入ったのでその店で私はソフトクリーム、妻は手作りプリンを注文しました。
 この公園自体はさほど大きくありません。トトロの洞窟を中心にして整備された場所だと思います。しかし、周辺には亀山湖や紅葉の名所があり、この一帯で一つの観光地をなしているようです。私の住むいすみ市大原からも近く、お気に入りの場所です。晩秋の一日を妻とのんびり過ごしました。
2021年12月3日

No.158
薬丸裕英さんのファミリーヒストリーに知人が出演

 11月23日のNHKファミリーヒストリーを心待ちにしていました。というのは出演者の薬丸裕英さんの遠縁にあたる鹿児島に住む知人の橋口満さんが鹿児島歴史研究家として出演すると聞いていたからです。薬丸さんと親戚であることを橋口さんは喜んでいました。私もびっくりしました。
 橋口満さんは千葉県いすみ市で小学校の校長をした方で私の教員時代の同僚でした。私に大変良くしてくれました。いつも穏やかでしたが鹿児島人気質を感じました。退職後は鹿児島にお帰りになりました。
 薬丸さんの母方の祖先が島の曽木家の出であると紹介されたとき、橋口さんが自分の祖先は島から移住してきたと話してくれたのを思い出しました。遠く千葉県にいてもこつこつと鹿児島の方言について調べておられました。
 私は妻と二人で鹿児島の橋口さんを二度訪れました。大変喜んでくれてあちこち案内してくれました。晩には焼酎を飲みながら遅くまで談笑しました。この時に初めて鶏の刺身をごちそうになりました。鹿児島独特の甘い醤油につけて食べました。臭みはなくさっぱりとして美味でした。とても酒に強い人です。
 橋口さんは本をたくさん書いており、なかでも鹿児島の方言の研究では鹿児島県の表彰を受けています。また、学校教育にも協力しており、あちこちの小学校を訪問しているとのことでした。
 薬丸家が橋口家とつながっていたことが分かり、人の歴史は不思議なものだと思いました。ちなみに私のルーツは名古屋です。名古屋の先祖はどうしているのだろうか、会ってみたいと思うことがあります。
2021年11月24日

No.157
SNSと「バズる」の心理学から

 雑誌ニュートン12月号に「SNSと「バズる」の心理学」という記事がありました。  「バズる」とは、SNSを通じてある話題が短期間で爆発的に広まる現象のことです。  この記事の中にアメリカ、ハーバード大学の心理学者ゴードン・オルポート(1897〜1967)が第二次世界大戦中に世間で広まったうわさの広まり方の分析や伝言ゲームなどの実験を通して導き出したうわさの公式「R〜i×a」というのがありました。 R(Rumor)はうわさの広まりやすさ、i(importance)は当事者に対する問題の重要さ、a(ambiguity)は証拠の曖昧さを表します。「〜」は非礼を表す記号です。
 「うわさの広まりやすさ(R)は、当事者に対する問題の重要さ(i)と証拠の曖昧さをかけたものに比例する」というものです。
 新型コロナウイルス関連でもさまざまなうわさやデマがSNS上で広がりました。「口伝え」とSNSの違いはありますが、うわさが拡散するときの人々の心理を考えると今でもこの公式に当てはまる部分があるようで面白いと思いました。
 バズっている話題に惹きつけられる心理として「バンドワゴン効果」と「エコーチェンバー現象」が紹介されていました。
 「バンドワゴン効果」のバンドワゴンとはパレードの先頭で楽隊が乗る車や馬車のことです。バンドワゴンの楽隊につられてついパレードに参加してしまいがちになることです。
 エコーチェンバーのエコーは反響音、チェンバーは部屋のことです。SNS上のつながりを通して入ってくる情報が自分の考え方に近いものばかりになり、自分の考え方が世の中で一般的であると思いこみやすくなってしまうことです。
 ちなみに日本ではこれに似た言い方で「付和雷同」や「類は友を呼ぶ」というのがあります。
 バズっている話題に遭遇したら、こんなことに気を付けながら分析してみるのも面白いと思って紹介した次第です。
2021年11月22日

No.156
境界裁判があった実家の土地を訪問

 庭に菊が咲いたのでそれをもって父母の墓参りに行きました。白、黄、ピンクの3色を混ぜて供えました。墓所が菊で彩られました。
 父、母、祖母、幼くして亡くなった長男を思い浮かべながら手を合わせました。
 真向いには無縁の小さな墓石があります。そこにも菊を分けてあげました。どこのどなたかは分かりませんが喜んでくれるといいと思いました。
 帰りに、子どもの頃に住んでいた大多喜町桜台の土地に立ち寄りました。ここは母の死後に兄が相続した土地です。
 しかし、相続から8年近くたったころ、兄が長く不在であったのに乗じて隣家が越境して土地広げていました。それで裁判になりました。この裁判には私もたいそう協力し、出廷もしました。最終的には裁判所の和解のすすめを双方が受け入れることになりました。
 和解の条件は次のようなものでした。
・こちらは相手側の土地の時効取得を認める。
・相手側は境界を侵犯したことを認め、その分の土地代金を支払うこと。
 結局、相手側は境界の侵犯を認め、土地代金を支払うことになりました。これが明記されたことは大きな成果であったと思います。
 ところで父は生前に測量を頼んで境界の杭を設置したのですが、残念ながら登記をしていませんでした。登記されていれば話は簡単でした。
 母が生きているうちはよかったものの相続から8年経過するうちに測量図を紛失していました。その上に測量した土地家屋調査士が亡くなっていたので当時の資料を得られなかったのは不運でした。
 父は後々土地問題が起きないようにと境界の杭を設置してくれました。しかし、こんなことになってしまったのは残念でした。
 先日、父が土地の境界に植えた欅の切り株の写真が見つかりました。1997年10月に私が撮影したものでした。この欅の存在が裁判の争点にもなっていましたが、証明するものがありませんでした。裁判時にこの写真があれば話は変わっていたかもしれません。
 穏やかな秋の日差しの中にたたずんでいると父母の笑顔が目に浮かびました。そして、いつまでも過去を悔やまないで未来に向かって歩いていくことが大切だと思いました。よい墓参りができたことを感謝しつつ帰路につきました。
2021年11月13日

No.155
探し物に苦労

 私はよく探し物に苦労します。今回は大切な記念のバッジとタイピンを二日間も探していました。どこにしまったのかすっかり忘れてしまったのです。
 この物忘れは、昨年の股関節手術による全身麻酔も一因であるかもしれません。私は全身麻酔を受けると記憶が曖昧になったり、忘れっぽくなったりします。
 以前の内科手術でもそういうことがありました。その時は在職中だったのでとても困りました。
 ここにしまったはずなのにと思って探してもありません。すべての引き出しや入れ物を調べつくし、探すところがなくなりました。
 一生懸命に思い出そうとするうちに、もしかすると缶に入れておいたのを忘れて燃えないゴミとして捨ててしまったかもしれないなどと思い始めました。確かに空き缶をいくつか燃えないゴミで出したことがありました。そして本当に捨ててしまったのだと思えてきました。あの時、中を確かめればよかったと後悔しました。けれども仕方がないと諦めました。
 「笑点が始まるよ」と一階で妻の声がしました。気分転換に「笑点」を見ることにしました。「笑点」が終わるころ脇のテーブルに置いてある置時計にふと目をやりました。この置時計は何か月か前に二階から持ってきたもので小さな引き出しが三つ付いています。この引き出しが気になって、まさかと思いつつも一番上の引き出しを開けました。すると何とバッジが入っているではありませんか。以前整理した時にこちらに移したのでした。すっかりあきらめていただけに宝物を見つけたような不思議な気分でした。よかったと心から思いました。
 さて、めでたしめでたしなのですが、それにしても記憶というのはあてにならないものだと思いました。忘れてしまうばかりではなく、誤った記憶が作られてしまうことも多いので厄介です。
 大切なものを仕舞なくさないようにするためには、中が見える入れ物に入れるか、中身を書いたシールを張って身近に置いておくのがよいと思います。それと物を減らして整理整頓するのもよいと思います。
2021年11月12日

No.154
一票の価値と自分

 選挙が終わり喧騒が去りました。与党が大敗すると言われていましたが、蓋を開けると与党が安定多数を確保したのに対し、野党の後退の方が大きかったようです。与野党ともに大物が落選しましたが、こうして世代交代が進むのだと思うとこれは悪いことではないと思います。
 近畿地方では維新の会の躍進が目立ちました。しかし、維新の会は大阪近辺での躍進ですから、これで頭打ちだと予想します。大阪の人たちが頑張ったのだと思います。
 千葉11区では、維新の会の多ヶ谷氏が健闘するかと思いましたが、自民党の森氏に7万5千票の差をつけられて最下位でした。
 ともあれ今回の選挙でしっかり自分の一票を行使できたことに満足しています。若い時には、それほど一票の価値を感じませんでした。いくらでも時間があったせいでしょう。今は一票の選挙権がとても大事なものに感じます。
2021年11月1日

No.153
セイタカアワダチソウを刈りに

 少々風が強かったのですが、草刈りをしました。育ちきったセイタカアワダチソウは花がチャイ色になっていました。木化した茎はかたくて切るのに骨がおれます。
 今日は刃を二枚刃に交換して高刈りで行いました。二枚刃は強力でかたい茎をバスンバスン切っていきます。刃にあたる音がカンカンと響きました。
 作業はおよそ一時間でしたが、前回のおよそ二倍の速さで進みいました。まだ手ごわいセイタカアワダチソウが半分強残っていますが、この二枚刃を使えばうまくいきそうです。
 今日の高刈りは根元から10pから20pの高さでで行いました。セイタカアワダチソウが密集したところでは高めに刈る方が楽です。
 ちなみに刈り払い機を両肩で支える用具を使っています。ベルトを肩にかけるよりも体への負担がずっと少なくなります。これはおすすめです。
2021年10月30日

No.152
小室夫妻への誹謗中傷を憂う

 これは151の記事に手を加えたものです。記事を育てるという考えで書いています。

 今日は小室圭さんと秋篠宮眞子さんのご結婚の日です。ようやくのゴールをうれしく思います。
 二人の会見は、話の内容は明確で理が通っていたと思います。しかし、めでたい日に、このような内容の話をしなければならなかったとはどういうことなのでしょう。この点、大変気の毒に思いました。辛いことにもかかわらず、穏やかに語る姿には好感が持てました。二人で力を合わせてよい家庭を築かれることを祈ります。
 この会見についてと質疑が無かったことがとやかく言われていました。しかし、質疑を無くしたのは宮内庁の判断です。そもそも結婚についてなぜそのような質疑が要求されるのでしょう。いくら説明しても悪くとる人は次々と攻撃を繰り返します。この種の攻撃的な人は統計上数%はいるものと推定されます。
 さて、ヤフコメは相変わらず二人に対する誹謗中傷・悪口雑言のオンパレードです。ほとんどが”小室憎けりゃ妻までも”の感情論であり非常に不快なものです。また、メディアがこれに同調する姿勢をとるのも異常です。そこには人権意識がなく恐ろしくもあります。
 しかし、誹謗中傷を言う人たちはほんの一握りであり(恐らく国民の1%にも満たない)、ほとんどの人は冷静に温かく受け止めているものと思います。  ネットのコメント欄は同様の意見が集まるので、国民みんなが自分と同じ考えなのだと錯覚するのかもしれません。
 しかし、国民すべてが同じ考えではありません。違う意見を持つ人がたくさんいるのです。学校におけるいじめにも似て、標的を作っては、寄ってたかって誹謗中傷するという集団ヒステリー(いじめ)の状態です。優越感に浸り鬱憤を晴しているのでしょう。
 誹謗中傷される人からは、誹謗中傷する側の人たちの姿が見えません。それ故に心理的に苦痛が大きいのです。誹謗中傷する人の多くは心理学的に見てサイコパスであろうと疑います。集団に紛れて誹謗中傷を繰り返し、特定の人が苦しむのを見て楽しんでいるのです。これは社会問題で社会に悪い影響を及ぼすでしょう。
 この状況よからぬ風潮に対してヤフーではAIを使って誹謗中傷コメントが一定数に達するとコメント欄を閉鎖するという措置をとりました。人権を侵す悪質なコメントから個人を守るためにも、社会への悪影響を防ぐためにも必要な措置であると思うので賛成です。
 ネットはとても便利です。しかし、誹謗中傷の強力な手段にもなり集団ヒステリーが起きやすいという落とし穴があります。このことをよく理解したうえで注意深く活用したいと思います。また、日本の社会が誹謗中傷の社会になることを憂います。
 やがて波が引くようにこの話題も消えてしまうでしょう。しかし、また誰かが標的にされて誹謗中傷されるのだろうと心配する今日この頃です。
2021年月日

No.151
小室夫妻の結婚会見について

 今日は小室圭さんと秋篠宮眞子さんのご結婚の日です。バッシングにさらされて大変な年月でしたがようやくゴールです。心よりお慶び申し上げます。
 お二人の会見を見ました。話の内容は明確で理が通っていたと思います。めでたい日に、このような内容の話をしなければならなかったのは、さぞ辛かったことでしょう。祝福の言葉もなく可哀そうに思いました。
 人生は山あり谷あり、苦しいこともあるでしょうが、お二人で乗り越え、よい家庭を築いてほしいと思います。多くの人が祝福してくれていると思います。
 この会見についてと質疑が無かったことに不満を言う人がいます。しかし、質疑を無くしたのは宮内庁の判断です。そもそも結婚についてなぜ質疑を要求されるのでしょうか。どう説明しても悪くとる人は統計上数%はいるもので仕方がありません。
 ともかくお二人はできる限りのことをしたのではないかと思います。言いたい人には言わせておけばいいのだと思います。
 さて、ヤフコメは相変わらず二人に対する誹謗中傷・悪口雑言のオンパレードです。ほとんどが小室憎しの感情論であり非常に不快なものです。誹謗中傷と感じるのは当然であると思います。また、メディアがこれに同調する姿勢をとるのも異常に感じます。そこには人権意識がなく恐ろしくもあります。
 しかし、誹謗中傷を言う人たちは恐らく国民の1%にも満たないでしょう。大部分の人たちは冷静に温かく受け止めているものと思います。
 ネットのコメント欄は同傾向の意見が集まりやすいので、国民すべてが自分と同じ考えなのだと錯覚するのでしょう。 標的を作っては、寄ってたかって誹謗中傷をして優越感に浸り鬱憤を晴しているのでしょう。
 誹謗中傷される人からは、誹謗中傷する人たちの姿が見えません。それ故に心理的に苦痛が大きいのです。誹謗中傷する人は一種のサイコパスであるかもしれません。相手が苦しむのを見て気軽に楽しんでいるのですから。ここに問題点があります。社会的に悪い影響を与えるのは間違いないと思います。
 この状況に対してヤフコメではAIを使って誹謗中傷コメントが一定数に達するとコメント欄を閉鎖するという措置に出ました。言論の自由との兼ね合いもありますが、人権を侵す悪質なコメントから個人を守るためにも、社会への悪影響を防ぐためにも必要な措置であると思うので賛成です。 
 ネットはとても便利で有難く思っています。しかし、思いもかけない落とし穴がありました。長所と欠点をよく知ったうえで便利に活用したいと思います。
2021年10月27日

No.150
衆院選投票祝い(記念)

 10月31日は衆院選投票日です。いつものように投票率の低いことが話題になっていました。政治に興味が無いというのが主な理由のようです。
私と妻はいつも投票には行きます。政治を人任せにしたくないという思いからです。
私は小さなことでもお祝いをすることが大切だという考えを持っています。そこで今回は投票祝い(記念)を考えました。4年に一度の投票を祝って、どこかで食事をしようと思います。
 小さななことを楽しんで生きる、「平凡な日々を面白く」がモットーです。
2021年10月25日

No.149
衆議院議員選挙戦始まる

 衆議院議員選挙が19日に公示され各党選挙演説に花を咲かせています。コロナ対策や経済対策を語るのに懸命です。
 しかし、教職員の労働改善について語る人は一人もいません。部活動や業務量増加により教職員の勤務は多忙を極め健康を損ねる、教育の質の低下を招くなどの問題が表面化しています。明治以来、日本は教育立国でした。働く教職員の労働環境を適正にすることが日本の発展のためには重要であると思います。議員の皆さんにはもっと関心を持ってもらいたいと思います。
 蛇足ながら、教職員の労働改善を取り上げれば教職員からの票が増えると思います。
2021年10月20日

No.148
セイタカアワダチソウを刈る

 昨年は股関節手術をしたために畑の草刈りをしないままでした。すると背丈ほどもあるセイタカアワダチソウにびっしりと覆われてしまいました。セイタカアワダチソウは茎が硬く、長く、重くなっていました。
 そこで初めて高刈りをやってみました。これは根元から10p以上の高さのところで刈るやり方で刈り払いのスピードが速くなるとのことでした。
 しかし、繁茂したセイタカアワダチソウは手ごわく、1時間も作業するとへとへとでした。1日1時間の作業で4、5日はかかりそうです。
  この事態を打開しようと刈り払い機の刃を丸刃から二枚刃に変えてみることにしました。これはプロペラのように回転する刃が林立する茎をなぎ倒す仕組みです。これなら作業が速そうです。
 さっそくネットで注文しました。刃が到着するまで次の草刈りは延期です。次回は2枚刃を使ってみた結果を報告したいと思います。
2021年10月17日

No.147
魚が見える粟又の滝

 癌の手術をして療養中の知人から、どこか魚が泳いでいるのが見えるきれいな川が千葉県にありませんかとメールがありました。彼の故郷では橋の上から泳ぐ魚がたくさん見えた思い出があるのだそうです。
 しかし、千葉県には魚が見えるきれいな川というのは思い浮かびません。大方の川は濁っていて魚の姿は見えません。房総の中央部の川の源流まで行かなければ無理でしょう。でもそういうところは山が深く険しい所です。
 そこで車で行ける所として大多喜町の「粟又の滝」を紹介しました。粟又の滝はなだらかな岩盤を水が滑り落ちてくる幅が広い滝です。川の流れに沿って遊歩道があります。水が澄んでいて川底が浅いので泳ぐ魚が見えます。夏に訪れたときにはナマズやハヤなどの稚魚が見られました。ここは11月半ばになると川沿いの紅葉が美しいところです。
 谷底に行くには少し急な坂がありますが舗装されていて手すりがあるので安全です。
 知人の回復を祈りつつメールを送りました。
2021年10月12日

No.146
教職員の超過勤務に思う

 私は民間会社から教職に転職した元教員です。教職員の残業について関心があるので、この問題についてさらに考えてみました。
 民間と比べると教職員の勤務にはおかしな点があります。例えば、平日ばかりか土曜も日曜も続く部活動の問題です。部活動というのは、本来教育課程にはない活動ですが、ほとんどの学校で実施されています。教職員の自発的な活動(ボランティア)という位置づけです。部活動等は法的な定めがないにもかかわらず、学校に赴任するとほぼ強制的に割り振られます。
 部活動は児童生徒の学校生活に楽しさと充実感を与えるものでもあります。しかし、長時間実施することにより児童生徒と教職員の多忙化を招きます。結果として児童生徒の健康を害するとともに学習意欲の低下にもつながります。
 また労働基準法を逸脱するような長時間勤務は労働者としての教職員の権利を侵害することになります。学校における過重労働は、教職員の精神疾患の増加の原因にもなります。
 私はといえば、学校ではやりきれない仕事をいつも持ち帰っていました。そして夜遅くまで明日の授業の準備をしました。すっきりした気分で出勤できたことは一日もありませんでした。
 ところで部活動の実施時間は学校によって異なりますが、終了時刻は、夏場は時18時30分、冬場は17時くらいです。ほとんどの学校ではこれに朝練が加わります。すると毎日12時間ほどの勤務になります。まれに朝練をやらない学校もあります。この場合は、学校として取り決めているので顧問の自由にはなりません。このように部活動の制限は、学校としてきちんと取り決める必要があるのです。
 しかし、地域全体のこととなると行政が法にのっとって取り決めを作りすべての学校を取り仕切ることが肝要です。労働基準法に基づいて労働者としての教員の権利が守られなければなりません。この視点が最も大切です。
 部活動だけでなく、時間外の交通指導、勤務時間を過ぎても行われる行事の準備作業、校庭の草刈りその他、ボランティアとして自分の時間を供出してきました。ボランティアとしてお願いしているのであるから命令ではないという理屈ですが、管理職からのお願いは命令と同義です。拒否すればどのような不当な扱い(パワハラ)を受けるか分かりません。
 また、部活動で恩恵を受ける教職員もいます。部活動は良くも悪くも教員の将来に影響を及ぼします。
 さて、教育現場が危機的な状況にあるにもかかわらず、勤務状況の改善について与党議員も野党議員も誰一人関心を示さないのは実に不思議です。教職員の仕事量は年々増加し減ることがありません。
 今回の裁判では現行法上、訴えは認められませんでした。しかし、現実的には違法状態にあり教職員の権利が侵害されています。判決での裁判長の付言(※1)は重いものです。文科省及び各地の行政はこの付言に真摯に耳を傾け、教育現場の違法状態を改善するよう望みます。

※1 裁判長の付言
「なお、本件事案の性質に鑑みて、付言するに、本件訴訟で顕(あらわ)れた原告の勤務実態のほか、証拠として提出された各種調査の結果や文献等を見ると、現在のわが国における教育現場の実情としては、多くの教育職員が、学校長の職務命令などから一定の時間外勤務に従事せざるを得ない状況にあり、給料月額4パーセントの割合による教職調整額の支給を定めた給特法は、もはや教育現場の実情に適合していないのではないかとの思いを抱かざるを得ず、原告が本件訴訟を通じて、この問題を社会に提議したことは意義があるものと考える。
 わが国の将来を担う児童生徒の教育を今一層充実したものとするためにも、現場の教育職員の意見に真摯(しんし)に耳を傾け、働き方改革による教育職員の業務の削減を行い、勤務実態に即した適正給与の支給のために、勤務時間の管理システムの整備や給特法を含めた給与体系の見直しなどを早急に進め、教育現場の勤務環境の改善が図られることを切に望むものである。」
2021年10月8日

No.145
教員の時間外勤務訴訟は敗訴

 時間外勤務は違法であるとする教員の訴訟に対する判決が2021年10月1日に出ましたが敗訴でした。しかし、裁判長は付言(※1)することにより教員の勤務状態に対して一定の理解を示しました。
 教員の業務量は膨大であり、しかも仕事が年々上積みされていきます。それに追い打ちをかけるのが部活動による時間外勤務です。部活動は教員の自由意思で行われているという理屈で顧みられることがありません。これらの問題は真剣に考えられることなく何十年もなおざりにされてきました。その結果、教職はブラックであるとのイメージが定着し、若者たちの教職離れを招きました。まさに自業自得です。このように日本の教育行政は未成熟です。
 今回の裁判は勝訴には至りませんでしたが、訴えには一定の理解が示されました。つまり、教育現場の労働環境は今後改善されるべきであるとの指摘がありました。その点で有意義な判決であったと思います。長時間勤務による過重労働が改善されなければ、教員が健康を損ねるばかりでなく教育の質も低下します。
 私も教員時代に過重労働に苦しみました。朝練から午後の部活まで一日十何時間と働きました。土曜も日曜もないような生活でした。朝起きると足の裏がピリピリ痛くて歩けなくなりました。また、疲れから来るのでしょうか、年に何度もひどいうつ症状が起こりました。こんな生活が十年も続きました。よく生き残ったものだと思います。
 息子はこの4月に小学校の講師になったばかりですが、部活動や草刈り等による時間外労働が多いのを非常に苦痛に感じています。授業の準備等ができず疲れ切ってしまうというのです。中学校勤務になった場合には勤務条件がさらに悪くなるのが目に見えているので教員を続けるかどうか非常に迷っています。
 近年教員採用試験の倍率は2倍を切るほど低調です。この現象はもう十数年前からありましたが、体裁を保つために隠蔽されました。それでも行政には、学校現場の労働条件の改善に取り組もうとする姿勢が見えません。それが現在の有様です。
 若い人たちから見れば学校はブラック企業と同等です。ブラックな職場でよい教育が行われることはないと思う今日この頃です。

「追記」
 今回の部活動訴訟は敗訴という結果でした。私は、時間外勤務の違法性を争点にしたことが敗因であると分析しました。
 部活動は法律上の規定がない、教員によるボランティア扱いですから、そもそも勤務とみなされないのです。まして残業代を請求する根拠がありません。ではどう対処したらよいのでしょうか。打開の鍵は部活動の起源にあります。部活動は元々、教員の善意による奉仕活動ですから、教育基本法・学校教育法・学校教育法施行規則などにも定めがありません。そもそも学校は部活動を行うべしとの規定が存在しないのです。早い話が教員の遊びと言ってもよいものです。なので本来は勤務時間外に行われるべきものです。
 従って、これがあたかも勤務として扱われて強制されるのは違法なことです。です。
 従って、教員に部活動を強制するのは違法であること(教員は部活動に従事しなくてもよいこと)、部活動に従事するしないは教員の自由判断にゆだねられることを判決として勝ち取ることが先決です。この判例があれば部活動を強制されたり、部活動を拒否したことによって不利益をこうむったりした場合には訴訟を起こして勝訴することができるでしょう。
 部活動問題は学校に絡みついた厄介な問題ですが、早急に正常化すべきでしょう。
 ところで私が居住する田舎では少子化が深刻になり小中の統廃合が進んでいます。生徒数減少によって既存の部活動が存続できなくなり消えています。遠からず部活動は地域への移行が必須となるでしょう。時代が大きく変化した現在、文科省が考えを改めて未来に向かって大きく舵を切らなければ、更なる混乱を招くことになるでしょう。

※1 裁判長の付言
「なお、本件事案の性質に鑑みて、付言するに、本件訴訟で顕(あらわ)れた原告の勤務実態のほか、証拠として提出された各種調査の結果や文献等を見ると、現在のわが国における教育現場の実情としては、多くの教育職員が、学校長の職務命令などから一定の時間外勤務に従事せざるを得ない状況にあり、給料月額4パーセントの割合による教職調整額の支給を定めた給特法は、もはや教育現場の実情に適合していないのではないかとの思いを抱かざるを得ず、原告が本件訴訟を通じて、この問題を社会に提議したことは意義があるものと考える。
 わが国の将来を担う児童生徒の教育を今一層充実したものとするためにも、現場の教育職員の意見に真摯(しんし)に耳を傾け、働き方改革による教育職員の業務の削減を行い、勤務実態に即した適正給与の支給のために、勤務時間の管理システムの整備や給特法を含めた給与体系の見直しなどを早急に進め、教育現場の勤務環境の改善が図られることを切に望むものである。」
2021年10月2日

No.144
新総裁決定するも寂しさ

 岸田氏が新総裁に決まりました。大方の予想通りでした。しかし、この瞬間、菅さんが総裁で無くなったのかと思うと、ふと寂しさを感じました。菅さんは歳も近いし誠実な人柄に、これまでのどの総裁よりも親しみを感じていたからです。
 一時代が終わり、また新しい時代が始まります。どのような時代が来るのでしょうか。期待と不安が入り混じった複雑な気持ちです。
2021年9月30日

No.143
総裁選への思い

 今日は自民党の総裁選挙です。誰を応援するというわけでもありません。しかし、誰がなっても菅首相ほどのことはできないのではないかと思います。
 菅氏はああいう朴訥な人柄で世間に受けがよくありませんでしたが、ああいう人だからこそできたことも多かったのではないか思います。
 コロナは未知の病気であり世界中で手を焼いています。神様のような人が現れて一朝一夕に解決してくれるわけではありません。この点、夢を見ている人が多いようです。
 現在では物事に対処するにあたりPDCAサイクルという手法を用います。計画し、やってみて、チェックし、改善するというサイクルを繰り返しながら進むというやり方です。
 コロナ対策にしてもこのPDCAサイクルで行われてきたと思います。ですからすべてが後手に回っていたという批判は必ずしも当らないでしょう。
 朴訥な人柄を揶揄され、いわれのない批判を浴びたことも多かったようですが、コロナ対策に明け暮れた一年、本当にご苦労様でした。
2021年9月29日

No.142
一票の投票権を大切に

 自民党総裁選挙が話題です。衆議院議員選挙も続きます。今後、私たちの暮らしを支える政治がどうなるか気になります。
 私は一票の投票権を持っています。日本国民としての権利です。衆議院議員選挙、市長選挙等、選挙の投票には必ず行っています。
 しかし、「何も変わらないから選挙にはいかない」という声をニュース等でよく耳にします。自分の一票では何も変わらないから言っても無駄だという思いからでしょう。これは自分の一票には価値がないと言うのと同じでしょう。
 仮に一票を一万円で売ってくださいと言われたらどうでしょう。投票には行かないという人たちも一万円で一票の権利を売るかもしれません。もっとも、これは犯罪です。
 投票権は日本国民に与えられた大切な権利です。投票の棄権は、自分の人生を人任せにすることにつながります。
 権利の上に胡坐をかいていると、やがて大事な権利を失いかねません。一票といえども自分だけに許された大切な権利です。人生を人任せにしないで生きようと思います。
2021年9月27日

No.141
ホームページは斜陽

 ひところ盛んであったホームページですが、この頃は開設する人が少なくなったようです。手軽に発信できる便利な手段が多くなったからでしょうか。
 もう10年以上も前になりますが、ホームページがはやった時期があり、無料でホームページを作れるサイトがいくつもありました。わたしもそういうサイトを利用しました。初めて自分のホームページを持ったときは非常にうれしかったのを覚えています。
 しかし、ホームページブームもやがて陰りが見えてきて、無料ホームページが停止されるようになりました。次のサイトに移行すると、そこもすぐに停止になるという具合で困りました。最後の移行先はヤフー・ジオシティーズでした。ここには10年くらいいましたが数年前に停止されました。
 今はFC2というところに着地していますが、ここもいつ停止されるか分かりません。有料サーバーを使う手もありますが、遊びでやっているだけなので高額の利用料を払う価値はありません。その時になったら考えます。
 今はSNS、ツイッター、ブログ等が手軽に使えるようになったので、面倒なホームページから離れる人が多くなったのかもしれません。
 しかし、ホームページには自分で自由に作れるという醍醐味があります。あれこれ工夫するのも楽しいものです。今やホームページは斜陽のようですが自分だけのページとして今後も維持したいと思います。
2021年9月23日

No.140
HDDにFドライブを追加

 私のパソコンは500GBのハードディスクを持っていますが、500GBをずっとCドライブだけで使っていました。
 しかし、もう一つドライブを作ってデータを保存するようにすれば、ウインドウズを再インストールすることになった時にデータが残るので安心だと思いました。
 こんなことをやっている人は大勢いると思います。外付けドライブを使っているのでずっとそのままにしていました。
 パーティションを切るためのツールがウインドウズにはついています。画面左下のウインドウズマークを右クリックすると"ディスクの管理(k)"という項目が現れるので、ここをクリックします。ここでディスクの分割、縮小、拡張、削除などができます。
 この機能を使って200GBの(F:)ドライブを作りました。データドライブとして使っています。こうすれば外付けドライブが壊れたときにも安心です。 
2021年9月18日

No.139
パソコンを修復

 パソコンの不調は突然おこります。それはいつも調子よく使っていたエディターが起動できなくなったことから始まりました。
 システムの復元などを利用して修復を試みましたが、"デバイスのエラーがあり修復できませんでした"と表示が出ました。何度も再起動とシャットダウンを繰り返しましたが、ウインドウズを開けませんでした。幸いいくつかの修復手段が表示されたので順番に実施してみました。
 そして最後に残ったのが、ウインドウズの再インストールとシステムの復元でした。再インストールは最後の手段にしました。そこで、復元ポイントを変えてもう一度システムの復元を試みました。すると、今度は復元が順調に終了しました。ホッとしました。パソコンが元に戻りました。
 今考えてみると不調を起こす前には、FFFTPの接続が悪くなったり、画面表示がひどく遅くなったりと気になることがありました。それでバックアップをとろうと思っていた矢先のことでした。
 どうやら何かの理由でウインドウズのファイルが壊れたようです。こういうことはウインドウズアップデートプログラムのインストールによっても起こります。たぶんこれだろうと思います。今回は復元できたので幸いでした。
2021年9月15日

No.138
雨の日は

さわさわと雨のふる日は
ひとり静かに庭をながめていようか
ドストエフスキーと過ごそうか
ぽたりぽたぽた雨のしずく
 
2021年9月9日

No.137
パラリンピックの贈り物

 パラリンピックが始まると毎日いろいろな競技を観戦しました。
中でも、車椅子ラグビーが印象に残りました。素早い動きで車椅子同士が勢いよくぶつかり合って何度もひっくり返りましたが、選手は自分で起き上がってプレーを続けるのでした。私の想像を超えた激しい競技でした。
 日本チームが勝つか負けるかの白熱したゲームになったときは、頑張れ負けるなと夢中で応援しました。
 どの競技を見ても、ハンディーを乗り越えて力いっぱいプレーする選手たちの姿がありました。それは、誰にも大きな可能性と素敵な未来があるよというメッセージのようにも思えました。
 困難に負けない勇気の大切さを教えてくれたパラリンピック、見ることができて本当によかったと思います。  
2021年9月8日

No.136
この夏一番の大仕事

 7月に土地区画整理組合から書類が来ました。保留地所有権移転が完了したので法務局で所有権移転の登記をしてくださいというものでした。そこには申請に必要な費用が78,000円と司法書士に依頼する費用が33,000円と書かれていました。
 司法書士に依頼すれば世話のないことですが、節約のため自分で登記することにしました。土地区画整理組合にその旨を告げると必要な書類を渡されました。申請書と記入例はダウンロードしました。
 申請書と書類を法務局に提出すると所有権の移転を証明する書類が足りないとのことで返されました。
 何度も記入例を確認すると「登記原因証明情報」であることが分かりました。法務局の説明によると土地区画整理組合はこれを出す義務があるのだそうです。土地区画整理組合に連絡すると司法書士から取り寄せてくれました。
 書類が全部そろい、無事に申請できました。数日後に「登記完了証明書」と「登記識別情報通知」を受け取ることができました。これで所有権移転の登記が完了しました。
 ところで平成17年度より前は登記済権利証をくれたのだそうですが、電子化の推進に伴って法律が改正され平成17年度以降からは登記識別情報通知に変わったのだそうです。登記識別情報通知には土地の所有権を証明する記号が記されていて、見えないようにシールで隠されています。それでこの記号は人に見られないように厳重に保管しなくてはなりません。
 わからないことが多くて四苦八苦しましたが、何とか自分で登記を済ませることができました。この夏一番の大仕事でした。  
2021年9月3日

No.135
コロナとの長い戦いを覚悟

 連日、新型コロナ感染者数の発表が気になりますが、このところ新規感染者数が減少しているようです。感染のピークを過ぎて減少に転じたのならよいと思います。
 統計学的に見れば、増加傾向は頭打ちになり減少に転じるはずです。
感染者が増えること自体はある程度仕方のないことですが、悪いことばかりではではないように思います。感染の増加によって免疫を持つ人も増えるからです。
 今のところ有効な対策はワクチン接種しかないと考えます。ワクチン接種によって感染した場合の重症化を防ぐことができるからです。
 コロナとの戦いは長くなりそうです。焦らずに着実に予防対策をとることが肝要だと考えます。
 
2021年8月31日

No.134
妻が二度目の新型コロナワクチン接種

 8月25日、妻が二度目の新型コロナワクチンの接種をしました。二度目は熱が出るからと解熱鎮痛剤"カロナール"を準備しておきました。
 注射は痛くなかったし接種部位の痛みもなかったようですが、接種からおよそ6時間後、夜になって37度の発熱がありカロナールを服用しました。
 翌日は朝は37度台の熱がありました。朝、昼、晩とカロナールを服用しました。頭痛とか筋肉痛とかの症状はありませんでした。
 三日目も朝から37度台の微熱が続きました。朝、昼、晩とカロナールを服用しました。体がだるいらしく横になっていることが多かったです。
 四日目、早朝から仕事をしている妻の姿がありました。熱が下がって体調がよくなったようです。熱は36度台になりました。この日はカロナールを飲むこともなく一日中36度台でした。あれこれと仕事をするくらい元気になりました。
 二度目の接種に備えてカロナールを用意しておいたことが功を奏しました。私自身は二度目の接種では少し頭が重くなったのとだるくなったくらいで、一度目の接種よりは軽かったくらいです。
 副反応の出方や症状は人によって様々です。人によっては38度以上の熱が出るようなので解熱鎮痛剤は準備しておいた方がよいと思います。
 現在は、家族全員が2度の接種を済ませました。しかし、当地域でもコロナ感染者が増えています。油断することなく手洗い、消毒、マスク着用をしっかりやろうと思います。 
2021年8月29日

No.133
ネットの闇に備える

 私は普段からネットを大変便利に使っています。分からないことは何でも調べることができます。
 しかし、ある事柄を一つ調べると同じような事柄がたくさん検索にかかるようになります。これはこれで便利です。しかしこれによって、いつの間にかその世界に引き込まれてしまうことがあるかもしれません

・アメリカの大統領はまだトランプだ。トランプは陰でアメリカを支配している。
・コロナは存在しない。ニュースではコロナがあるように演技している。
・コロナは存在しない。だから自分はマスクをしない。
・日本は毎年8万人が誘拐されている人身売買大国だ。これは報告されず隠蔽されている。
・自分はこの真実をみんなに知ってもらいたい。
・トランプにメールで質問すると必ず返事が来る。

 こういったことを千葉県いすみ市の某キリスト教会の牧師が言っているといううわさを耳にしました。
 コロナ感染が怖いからマスクをしてくださいとお願いしても聞く耳を持たず、会員たちは困っているとのことです。
 信じ込んでしまうと人の意見を受け付けなくなります。厄介な問題です。
 嘘も本当も入り乱れているネット世界、いつの間にか感化されてしまう危険な一面が見えてきます。
 ネットは大変便利です。しかし、 ネット記事を鵜呑みにしないように気を付けたいと思います。
 
2021年8月26日

No.132
去年の夏と今年の夏

 去年の8月下旬、右足の股関節手術を受けて3週間の入院の後、退院しました。 その日はうれしくて朝からそわそわしていました。10時半ごろになると、まだ迎えが来ないかと休憩室から駐車場を眺めていました。予定時刻より少し遅れて我が家の車きて妻と息子がおりてくるのが見えました。ナースステーションであいさつをすませ、病院を後にしました。
 途中で御宿町のメキシコ記念塔によりました。暑い日でした。私は杖をつき、足元を気にしながら歩きましたが、すがすがしい気持ちで苦になりませんでした。昼食は寿司を食べて退院を祝いました。
 こののち半年かけてリハビリをしました。当初の生活で一番困ったのは、非常にトイレ(排尿)が近かったことです。一晩に4度も目を覚まし、トイレに急ぎました。急がないと漏れてしまいます。素早く動けないので難儀しました。
 それが3回になり、2回になり、1回になり、しまいにはゼロになりました。半年くらいかかったように思います。
 今では普通に生活しています。庭木の剪定や畑の草刈りをしても痛みが出ません。去年だったら痛くて30分も作業できませんでした。痛み止めを飲んで1時間ほど休まなければなりませんでした。
 手術のおかげでQOL(生活の質)が明らかに向上しました。何よりもうれしいのは、痛みを気にせず普通に歩けるようになったことです。足をのばしたり曲げたり、正座したりが普通にできるようになったことです。
 去年の夏にはできなかったことが今年の夏にはできるようになりました。そんなことに喜びを感じています。
 
2021年8月24日

No.131
記憶の寄り道

 私が小学生のころでした。夕食後に家族みんなで相撲をとろうということになりました。母はよほど楽しかったのか珍しくはしゃいでいました。遊びが一段落した後、母が言いました。「ずっと小さいままだったらいいのになあ」と。
 私は半分わかるような気がしました。母は、この楽しい時がずっと続いたら幸せだと思ったのでしょう。このことはその後長く記憶の引き出しにしまわれたままでした。
 さて、子供たちは成長してやがて家を離れました。私は結婚して三人の子どもを育てました。子供は一人増え、二人になり、三人になったその時々を子どもたちとともに楽しく過ごしました。家に帰ればその日の苦労を忘れて楽しく過ごせました。こんな日がずっと続くような気がしていました。
 子供たちは、保育園、小学校、高等学校、大学と歩み、やがて自立していきました。静かになった家にいると子供たちと過ごした日々に戻りたいと思うこともありました。
 ある時、ぼんやりと考え事をしていると、母との相撲の情景が思い浮かびました。それは突然スクリーンに映し出された絵のようでした。母と私が共有した懐かしい情景でした。
 人間の脳の働きは不思議です。何十年もしまわれていた記憶が突然よみがえることがあります。
 私には、まだ孫がいません。けれど、もし孫ができたら、孫との日々を大切に過ごそうと思います。
 
2021年8月22日

No.130
2020 それぞれの東京オリンピック

 大喜びする人、嘆き悲しむ人、いつものオリンピック風景です。しかし、こういった勝った負けたの出来事は、やがてオリンピックの大波と共に流れ去ってしまうことでしょう。
 オリンピック東京2020は、新型コロナウィルスの感染拡大により1年間の延期されたのち未曽有の困難の中で実施されました。そんな陰鬱な雰囲気の中でも明るいニュースがたくさん生まれました。同時に、期待に添える結果が出せずに悲嘆にくれる人たちもいました。悲喜こもごもの風景がありました。
 そんな中でとても印象に残った3人の水泳選手がいます。萩野公介さんと瀬戸大也さんと池江璃花子さんです。
 池江選手は白血病のため長い入院生活をしました。萩野選手は心の不調のため長く練習から遠ざかりました。瀬戸選手は個人的な不祥事が原因で5か月もの活動停止処分を受けていました。
 萩野選手は競泳男子200メートル個人メドレーの予選でやっと決勝に残ることができました。この時、よきライバルであった瀬戸大也選手も何とか決勝に進むことができました。
 萩野選手は予選を通過した際に「瀬戸と決勝戦で一緒に泳げる。これは神様の贈り物としか思えない」と涙を流して喜んでいました。そして決勝戦、二人は力を尽くし、瀬戸選手は4位、萩野選手は6位と健闘しました。二人は抱き合って喜びあう姿が印象的でした。瀬戸選手は「東京オリンピックという夢の舞台で一緒に泳げたのは神様がくれた幸せな時間だった」と語りました。また、萩野選手は「最後に瀬戸と一緒に泳げた喜びに比べれば、金メダルなんて、これっぽっちのものだ」と語りました。
 池江選手は1年近くにも及ぶ闘病の末、新型コロナの感染拡大により延期になった1年間を練習に励みオリンピックに参加できました。そして競泳女子400メートルメドレーリレーのアンカーを泳ぎチームは8位になりました。彼女もまた、みんなと一緒に決勝のレースに参加できたことに感謝し、ユニフォームに顔をうずめて泣いていました。
 3人に共通するのは、メダルこそないものの仲間と共に東京オリンピックの決勝戦で戦うことができたことに、この上ない喜びと満足感と感謝の念を抱いていることでした。このような光景をこれまでのオリンピックで見たことがありませんでした。
 ここで私は、メダルとはいったい何なのだろう、オリンピック競技の意義とは何なのだろうと考えてしまいました。金メダルがもらえれば素晴らしいことです。私たちも誇らしい気持ちになります。しかし、この人たちはメダルが無くても競技できたことにこの上ない幸せを感じていました。
 結局、メダルそのものに価値はなく、艱難辛苦の末に競技に参加して戦う(競う)ことができることに価値があるのだと思うようになりました。それは選手のみに許された至高の価値であると思いました。
クーベルタン男爵の言葉「オリンピックは参加することに意義がある」とは、こういうことではなかったかと思いました。
 「勝った、負けた」という騒ぎはオリンピックが終わると人々から忘れ去られるでしょう。しかし、オリンピックの舞台に立って戦ったという素晴らしい思い出は選手の心に一生輝くことでしょう。
 新型コロナウィルスの感染拡大という未曽有の困難に苦しみながらも実施された2020東京オリンピックで多くのことに気づかされました。
2021年8月13日

No.129
サーフィン銀・銅獲得

 外房の一宮でオリンピック競技のサーフィンが行われました。日本が銀メダルと銅メダルを獲得しました。ここに来るまでにどれだけの努力があったのだろうと想像します。おめでとうございます。
 私は3年前から上総一宮釣が崎岸前の波乗り道路を走っていました。会場がだんだん整備され完成していく様子を見てきました。イベント会場が出来上がり、いよいよ本番という1か月前に無観客になってしましました。とても残念に思いました。観客数が5割でも心配なら3割、2割でもよいから観客を入れるべきだというのが私の考えです。少しでも人々の気持ちを汲むべきだったと思います。
 医学的には何もせずにじっとしているのがよいということは理解できます。しかし、理科脳だけではだめだ、文系脳が大切だと思うに至りました。
 残りのオリンピック期間、感染対策を行いつつ全うしてほしいと願っています。
2021年7月28日

No.128
2回目新型コロナワクチン接種

 7月24日 快晴   朝から強い日差しが照り付けるなか、無事に済みますようにと祈って家を出ました。会場まで電車でおよそ1時間、ぼんやりと考え事をして過ごしました。
 蘇我駅に着くと会場へと急ぎました。早く着けば早くやってもらえるからです。5分ほど歩きますが、すれ違った人たちが「2回目は必ず熱が出るぞ」と言うのを聞きました。
 会場に着くと流れ作業でどんどん進みました。おかげで20分ほどで会場を出ることができました。
 予定よりも早かったので1本早い快速に乗りました。途中の上総一ノ宮駅で乗り換えがあり、接続列車が来るまで30分の待ち時間がありました。暇つぶしに駅から出て土産物屋をのぞいてみました。すると一宮産の梨があったのでワクチン接種完了祝いにとこれを買いました。ワクチン接種のために遠くまで出かけたことに付加価値をつけたいとの思いもありました。満足した思いで帰宅しました。
 夕食には今日の梨が並びました。家族みんなで食べながら今日一日のことを思い出しました。
2021年7月7日

No.127
1回目新型コロナワクチン接種

 7月3日、千葉市の蘇我コミュニティーセンターで県主催の新型コロナのワクチン接種を受けました。会場にはスタッフがたくさんいたのでまごつくことはありませんでした。
 医師の問診を受けると看護師が注射を打ってくれました。筋肉注射は普通の注射より痛いように感じました。会場で15分ほど異常がないか様子を見ました。
 帰宅後の体温は34.7度で低めでした。夜になると接種部位が痛くなりました。体がだるかったので痛み止めを服用して早目に寝ました。

2日目 朝は接種部位に打ち身のような痛みがありました。少し腫れていました。生活に差し障りはないようでしたが、痛み止めを飲んで湿布を張っておきました。夜には痛みも腫れもかなりおさまりました。

3日目 接種部位は押すと痛みがありました。軽いだるさと眠気がありました。夜には痛みがずっと軽くなりました。

4日目 痛みは触るとわずかに感じる程度でした。朝から少し気持ちが悪く食欲がありませんでした。醤油がやけに塩辛く感じました。食事は軽めに抑えました。夜にはだいぶ良くなりましたが早めに寝ました。

5日目 症状がすべて消失して元の体調に戻りました。接種部位の痛みは全くなくなりました。

 総じて症状は軽かったものの何らかの不調はありました。接種後の注意事項に書かれていたものと同じでした。2回目の接種では重い症状が出ることがあるようです。体調を整えて臨もうと思います。
2021年7月7日

No.126
家族とアイデンティティー(identity)

 時々子供らが幼かった時のことを思い出すことがあります。そんなときはなぜかとても懐かしく心地よく感じます。生後1年たった長女を父母にお願いして保育園への送り迎えをしてもらったこと。夕方、長女を受けてって家に向かう車中で必ずウンチをしたことなど。その他、二女、一男が小さかった時の様子やしぐさなどがつい先日のことのように思い浮かびます。ある程度の年齢になるとこんな経験をする人は多いのではないかと思います。

 幼かった子共らの記憶は現在の子らと違和感なく重なります。生まれてから現在に至るまで内面も外形も大きく変化しているにもかかわらす我が子としての同一性には変わりがありません。マトリョウシカという入子型の人形があります。あたかもマトリョウシカのように子供たちの過去から現在までの成長の記憶が連続的に収められていて我が子としての同一性が保たれているように感じます。
 両親についても同様に感じています。若々しい両親、働き盛りであった両親、年老いて体が弱った両親など、どの時期を思い出しても変わることのない懐かしい両親です。
 私が20代のころ、ある日父が私の子どもの頃のことを思い出して「お前が箪笥の上で猫のまねをしてこんな仕草をした」と言ったことがありました。当時、父がなぜそんな昔のことを言い出すのか理解できずにいました。しかし、父と同じような年齢になった今、幼かった頃の子どもたちの仕草や様子をよく思い出します。それは過去が現在に二重写しに溶け込んでいて不可分なように感じます。自分自身にアイデンティティーがあるように家族という単位にもアイデンティティーがあるのだと感じています。

 家族のアイデンティティーの強さは共有する思い出の量によるのかもしれません。それで誕生日や入学、卒業、就職、結婚記念日など何か特別なことがあると家族みんなで食事をして祝うようにしています。家族みんなで食事をするという行為は思い出を作るばかりでなく家族一人一人の結び付きを強くする働きがあるように思います。「同じ釜の飯を食う」と言うのはこのような働きについて言っているのではないかと思います。
2021年6月26日

No.125
普賢岳大火砕流

 1991年6月3日に長崎県の雲仙普賢岳に大火砕流が発生し、山頂からもくもくとした黒い煙がおりてきた。私はこの様子をテレビで見ていました。大きな黒い煙の塊が襲ってくるような感じだった。実際には火砕流が下る速度はとても早く、内部は千度近い高温だという。巻き込まれたらひとたまりもない。
 報道の映像で私はとてもひどいものを見た。煙の立ち込める道を一人の消防団員が歩いてきた。両足を踏ん張ってやっと歩いている様子だった。上を向いた顔は灰で覆われ、見開かれた二つの眼は瞬きもしていなかった。ただぼんやりと空を見ているようだった。開いた口からは何本ものよだれの筋があった。両手はだらりと下がっていた。灰にまみれ紺色の制服の上着とズボンはあちこちが焼けこげ、まだ煙を上げていた。報道のカメラも目に入らず無意識に歩いているようだった。恐ろしい高熱にさらされ、やっと逃げてきたのだろう。恐らく口も喉も火傷を負い、やっと呼吸しているのに違いなかった。これを見て事態を理解するのに少し時間がかかった。この映像はこのあと放映されることはなかった。
 この火砕流で消防団員や報道関係者43人が犠牲になりました。30年前に起こった火砕流による犠牲者の追悼式の報道を見て、あの時のことを思い出しました。
2021年6月4日

No.124
メタスキル(マザースキル)

 ビジネススキル、コミュニケーションスキル、ITスキル、スキルアップなどスキルと言う言葉をよく耳にします。スキルとは訓練や学習によって培われた技能、手腕、技術、能力などを意味するようです。
 私たちは社会生活での向上を目指して様々な資格を求めます。自動車の運転免許は生活に役に立つ資格の一つです。資格を得ることによりスキルが向上し、目標を達成しやすくなるからです。
 ところでスキル向上のために資格等を取得するには土台となるスキルがあったほうが容易です。それはスキルを獲得するためのスキルでありメタスキルまたはマザースキルと言ってもよいかもしれません。
 ではメタスキルはどこで得られるのかといえば、ほとんどの人は学校での学びがもとになっているのではないかと思います。考えたり調べたり暗記したりという行為や人と人とのかかわりの中で培われるのだろうと思います。受験勉強中には「サイン・コサイン何になる。おいらにゃおいらの夢がある。」という歌も流行っていました。分かるような気もしましたが、将来きっと役に立つはずだとも思いました。
 ところで学んだり覚えたりした知識は頭の中に羅列されているのではなく、きちんと体系化されて認知構造に組み込まれていくのだと思います。あたかも柱や梁が一本一本ふえて建物が大きくなるように、あるいは木が成長して枝や葉がふえるようなイメージです。
 メタスキルによってスムーズに次のスキルアップにつながっていくのだろうと思います。
2021年5月24日

No.123
高齢者バイアス

 もう10年以上ネットの記事やコメントを見ていますが、この1年間ほど高齢者バイアスのかかった記事を目にすることはありません。ここでは「高齢者バイアス」を高齢者に対する偏見という意味で用いることにします。
 最近は新型コロナのワクチン接種の順番をめぐって高齢者に矛先が向けられることが多いようです。
 先日、新型コロナのワクチン接種に関する記事のコメントに「ぼけ老人、寝たきり老人、医療の無駄遣い」などとの高齢者を馬鹿にしたり軽んじたりする記述があったので、高齢者を擁護するコメントを出したところ反論の返信がいくつか来ました。
「上から目線で若い人たちのことが一言も触れていない。65歳以上の高齢者ですか。高齢者は年金をもらって家にいればいいのだから、外で働く年齢層を優先して当然だろう。それを忘れてもらっちゃ困る。」
 私が少し強い口調でコメントしたせいか「失礼ですが言葉遣いに気を付けてください。こういう公の場では感情的にならず理性的にお話しください。人格を疑います。」という慇懃無礼なものまでありました。
 原文通りではありませんが、大体このようなものでした。最終的にはコメ主から自分の考えを説明する丁寧な返信があり、それに対して私も丁寧に返信したことで終結しました。それにしても同じ人が書いたのかと思うほど元の記事の内容とは異なっていました。
 次のような内容でした。「年齢をカミングアウトさせてしまったことは申し訳なかった。身内や身近な高齢者のことでひどい事例をたくさん見聞きしてきた。それであのような表現になった。高齢者といっても60代、70代は現役世代だと思っている。短い文章ですべてを書くことはできないのですれ違いが起きるのは仕方がないことだと思う。コロナが早く終息して平常な生活に戻れるように願っている。」
 コメ主は働く世代の視点から、私は高齢者を擁護する視点から意見を述べたので食い違いが起きたのは当然かもしれません。ネット上での発言の難しさが分かりました。
 ところで高齢者には、ぼけ老人、寝たきり老人、年金でのうのうと生きている、役に立たないお荷物等のイメージが強いのでしょう。新型コロナの蔓延により誰もが明日に不安をもって生きているときだから高齢者に矛先が向かうのでしょう。
 私も現役世代から退職とともに高齢者と言われる仲間に足を踏み入れました。そして時は無情にもさらに高齢化を加速しています。昨今、ネット上で"高齢者は不要だ"というような発言を耳にするにつけ心が痛みます。
 高齢者には家族があり、家族にとっては大切な父や母であり、おじいさん、おばあさんであるはずです。そしてコミュニティーの一員です。寝たきり老人、ぼけ老人、医療の無駄遣いと揶揄することはあってはならないと思うのです。
2021年5月19日

No.122
新型コロナの抗原検査を受けた

 発熱をきっかけに抗原検査を受けました。前日に38度の発熱がありました。その晩は食事、洗面所、トイレまで別にされ家庭内隔離状態になりました。
 掛かり付けの病院に発熱外来が設置されていたので予約してすぐに出かけました。入り口や診察室は一般の患者とは別になっていました。
 医師から吐き気や気持ちが悪いことが無いかなど細かく病状を聞かれました。気になっていることを全部伝えました。私が頻尿と排尿痛があることを伝えると医師は何かピンときたようで、私の腎臓のあたりをトントンと叩きました。ある部分に痛みを感じて腰を引きました。
 抗原検査、血液検査、尿検査の3つを行いました。抗原検査と血液検査は20分ほどで結果が出ました。新型コロナは陰性でした。しかし、血液検査では白血球の値が異常に高く重症だと言われ驚きました。細菌感染による尿路感染症であり腎盂腎炎の疑いがあるということで点滴を受け、抗菌薬を処方されました。
 水分をとらずに作業を続けたりすると簡単になるのだそうです。思い当たるのは天気が良かった5日前に外作業をしたことでした。せいぜい2時間ほどでした。翌日からひどくだるくなりました。やがて排尿痛が始まり3日目に発熱しました。
 今は熱はなく排尿痛も収まってきています。コロナではなかったものの別の病気が見つかり危機一髪でした。水分を多くとることが大事とのことでした。今後は気を付けようと思いました。
2021年5月10日

No.121
少年革命家「ゆたぼん」について

中学校にはいかないと宣言した少年「ゆたぼん」のことがネット上で話題になっています。大方の意見はさぼりであると言って非難するものです。義務教育の義務を果たしていなしと父親を非難する意見もあります。
 ところで私は、この子が”さぼり”であるとは思いません。この子なりによんどころない事情があるのだと思います。ただ、不登校といってもあと3年きりです。3年過ぎれば不登校も何もなくなります。それまでは温かく見守ってあげればよいと思います。
 ほとんどの子供たちは学校の大切さを分かっています。この子のまねをする子はいないでしょう。学校不要論を唱える人たちは、学校を単に知識を学ぶ場だと捉えてます。それなら家でもできるだろうという理屈です。しかし、学校には各教科を教える意図的なカリキュラムと、文字では記述されていない非意図的なカリキュラムが存在します。これらが車の両輪ようになって進んでいきます。それによって「知・徳・体」のバランスの取れた人間として成長します。
2021年5月7日

No.120
陰謀論

・コロナウィルスやパンデミックは存在しない。これらはある支配層によって偽装されたものだ。だから私はマスクをしない。
・ヒラリークリントンは大変な悪人であり、軍事裁判にかけられている。もうすぐ絞首刑になる。
・ホワイトハウスの地下には大勢の子どもが監禁されている。
・トランプ前大統領は闇の政府と戦っている大変良い人だ。
・トランプ前大統領は今も軍を支配している。バイデンはトランプの操り人形だ。
 これらは千葉県南部の某教会の牧師が礼拝に集まった信者に語ったことです。たいへん怖いことだと思います。
 ある事件や出来事が誰かの陰謀であるとするのが陰謀論です。発生源はSNSの「Qアノン」やトランプ前大統領の熱烈な支持者であるといわれています。
 世の中にはこういう荒唐無稽なことを信じてしまう人と根拠のないことは信じない人がいます。
 根拠のないことを言いふらして人々を煽る記事をフェイクニュースと言います。SNSによって拡散され、社会問題になっています。
 ある意見や考え方を持ったり支持したりすることは自由ですが、他者にそれを押し付けて煽る行為は、大きな問題を起こす危険性があります。
 陰謀論はフェイクニュースの一種です。社会は膨大な情報があふれています。その80%はフェイクニュースかもしれません。情報を鵜呑みにしないで事実かどうか確認することが大事であると思います。
2021年5月6日

No.119
都の西北「大隈記念講堂」

 「新美の巨人たち」という番組で早稲田大学の大隈記念講堂の特集がありましたので懐かしく視聴しました。大隈講堂建設の経緯や裏話、講堂内部の工夫など、普段は見られないことがたくさん紹介されました。
 大隈講堂は歴史のある美しい建築物であると思います。学生の時、タオル、石鹸を入れた手桶を抱えて銭湯に通ったものでした。時計塔にはぼんやりと明かりがともって幻想的な静けさが漂っていました。

 それから40年近くがたち定年退職した私は早稲田大学のオープンカレッジを受講し再び早稲田の地を訪れました。校舎が近代的なビルに生まれ変わり、学生たちの身なりも雰囲気もすっかり変わっていました。
 しかし、大隈重信の銅像は行き交う学生たちを見守るように静かにたたずんでいました。その視線の先には大隈講堂の美しい姿がありました。 変化するものと変わらぬものが調和しながら未来を目指している。構内を歩きながらそんなことを考えていました。
2021年5月5日

No.118


モーターサイクルジャッキ

 五月の連休はオートバイの整備をして過ごそうと思い、モーターサイクルジャッキを買いました。これはオートバイを持ち上げる道具です。500sの重さまで耐えられますが、私のバイク(ハスラー125)は90sしかないので楽々です。
 早速使ってみました。オートバイの底に置き、支える場所を決めてレバーを回すと持ち上がります。前輪が地についているので3点支持になり安定しています。後輪が持ち上がるので整備がしやすいです。あちこち磨いて今日の整備は終了しました。
 モーターサイクルジャッキを使うと整備がとても楽でした。今までの苦労は何だったのかと思ったほどです。オートバイを整備する楽しみが増えました。
2021年5月1日

No.117


ワクチン接種クーポン

 毎日ニュースといえばコロナの感染状況、変種ウイルスの感染の拡大、繁華街の人出増加傾向、ワクチン接種の遅れなどのことが多くていささか食傷気味です。
 このことは反映してか、繁華街等での人出が増加しているようです。毎日家にこもっているのが嫌になった人が多いようです。
 そんな中、ワクチン接種のクーポンが来ました。接種する場所と曜日が分かりました。接種日は後に連絡されるとのことでした。ようやく具体的に一歩を踏み出せると感じました。
 ワクチン接種が最も有効なコロナ対策だと思います。速やかに実施が進むよう願っています。
2021年4月22日

No.116
不登校ユーチューバー少年

 中学校にはいかないと宣言しているユーチューバーの子がネット上で話題になっています。ネット上の意見は全体的には否定論が多いのですが肯定論もわずかにあります。
 この子の不登校は小学2年生の頃に宿題をめぐる学級担任とのトラブルに起因するようです。しかし、学校生活への反発(不適応)がもともとあって、これを機に噴出したとも考えられます。
 この子は中学校へは行かないという気持ちが固まっているので、どうすることもできないというのが現状です。中学校に来てくださいとお願いするようなものでもありません。父親への批判も多くあります。しかし、父親は家庭で教育していると反論しています。
 親子の言い分に耳を傾けると本来は学校に行ければ望ましいと考えているようにも思えます。そして多くの批判にさらされて大いに悩んだのではないかと推測します。批判にさらされながらも何とか自分たちの力で生きていこうと努力する姿勢を感じます。
 私は学校に行った方がよいという意見です。しかし、別の道を歩こうとする人がいるのも事実です。ここは温かく見守り支援してあげればよいのではないかと思っています。
2021年4月18日

No.115


心和んだ大多喜城の写真撮影

 大多喜町にある三育学院大学の桜並木を見に行った折のことです。小高いバイパスを走行中に桜に囲まれた大多喜城が見えました。バイパス際の何やらわからない施設の駐車場が最良の撮影スポットでしたが、勝手に入るのはためらわれました。そこで近くの中学校の校庭から撮りました。桜咲くお城の写真が撮れましたが、どうしてもあの駐車場から撮影したいとの思いが消えません。またいつかとればいいじゃないかと思っても、今でなければ後悔するのではないかという強迫観念のようなものが湧き上がってきました。しかし、面倒くさくてぐずぐずしていました。思い切って撮影に出かけたのは二日後のことでした。
 施設の駐車場入り口付近で男性が一人草取りをしていました。駐車場にはその男性のものらしい青色の車が一台きりでした。車を止めるとその男性が近づいてきました。二十歳すぎくらいに見えました。文句を言われるのかなと緊張しました。
「お城の写真を撮りたいのですが、いいですか」というと「いいですよ、どうぞ、どうぞ」と言ってくれました。
「ここは何をやっているのですか。以前はお店だったのですが。」「ホテルですよ。手前の建物がレストランですが、今は休業中です。」と、こんな会話をしました。彼は終始にこにこしていました。心配はなさそうでした。
 広くて見晴らしのよい駐車場からは樹木を交えた静かな町並みと山の上のお城が一望できました。思い描いていたアングルから写真が撮れて満足しました。
 駐車場から出ると先ほどの男性がまた草取りをしていました。彼はこちらを見て会釈しました。私も頭を下げ、手を上げて感謝の意を伝えました。 きっとこの人は一日中誰とも話をすることなく一人で仕事をしているのかもしれないと想像しました。小さなふれあいに心が和みました。
2021年4月1日

No.114
キックの沢村忠さん死去

 何十年か前、キックボクシングという格闘技がありました。キックボクシングでは、沢村忠はスターでした。私も毎週楽しみにしていました。しなやかな身体から繰り出されるパンチや蹴り、中でも高く飛び上がって放つ真空飛び膝蹴りという技は沢村の強さの代名詞でした。どんなに苦戦しても最後にはKOで勝つ姿に興奮したものでした。
 今でもタイの強敵選手と戦う姿が目に浮かびます。キックボクシングという格闘技を世に広めた人でした。
 その沢村忠さんが3月26日に癌により78歳で亡くなりました。癌が転移していたために手術はしなかったそうです。かつて私たちを夢中にさせてくれた人がこの世を去ったのは寂しいです。ご冥福を祈ります。
2021年4月1日

No.113
別れと出会いの季節

 桜があちこちで満開で明るく暖かく心がウキウキする季節ですが、就職、大学進学、転勤、退職など別れと出会いの季節でもあります。
 9年前、退職を目前にして自分はどうしていただろうかと振り返りました。私は学校で毎日遅くまでまだ残務整理をしていました。飛ぶ鳥あとを濁さずの思いでした。すがすがしく次のスタートを切りたいと思っていました。 それからあっという間の9年間でした。
 昨年は新型コロナのために地域活動が自粛されて私は放課後塾講師や地域合唱団の活動もできず、寂しい日々を過ごしました。
 それでも毎年約束したように桜は咲き、喜びと悲しみ、希望と不安を包み込んで心を和ませてくれます。
 コロナ禍はなお続いていますが、様々な活動が再開されるようにと祈っています。
2021年3月28日

No.112
卒業式と来賓

 卒業式に来賓は不要ではないかというネット記事がありました。保護者も子供たちも全然知らない人たちを招いても無意味だというのが主な理由です。
 私は小学校の放課後塾講師代表として来賓で招待されました。日ごろから学校には関わっているのでよろこんで招待を受けました。子供たちの卒業を見るのが楽しみでした。
 さて、保護者や子供たちが知らない来賓も多いことと思います。町の議員、子供たちに地域で芸能を教えてくれる人、小学校で読み聞かせボランティアをしている人、保育園園長、中学校校長、地域に尽くしている民生委員、放課後塾の講師等、地域で学校を支えてくれている人たちです。これらの人たちへの感謝の意を込めて招待しています。地域の学校はこういう人たちの支えで成り立っているからです。また、子供たちは地域の多く人たちに支えられていることが分かるようになります。
 ところでコロナ禍は学校行事のあり方にも一石を投じ、色々なことに気づかせてくれました。入学式、卒業式に限らず肥大化した学校行事はこれを機にもう少し簡素化できるのではないかと思います。
2021年3月21日

No.111
老害とヘイト

 この頃ネットで老害という言葉を目にすることが多くなりました。交通事故でのブレーキとアクセルの不見間違いや政治家の失言に至るまで、これは老害だという具合です。こういう状況は決して多くないにも拘わらず「老人(高齢者)=老害」と一括りに論ずる風潮が醸し出されているように感じます。
 私も若者でした。一生懸命に働いて生きてきました。それはつい昨日のことのように感じています。そしていつの間にか老人と呼ばれるようになりました。
 老害と揶揄される人たちがいるのも事実です。しかし、それも若者が歳をとった姿です。高齢者には今なお社会に尽くす素晴らしい人がたくさんいます。
 老人=老害と一括りにするのは間違いなく差別でありヘイトであると思うのです。老人は役に立たない、邪魔だという風潮が蔓延することに恐ろしさを感じます。
2021年3月14日

No.110
3.11の記憶

 2011年3月11日、私は千葉県の某小学校に勤務していました。2時46分、いつもより長く続く大きな揺れ、異質な揺れに不安になりました。揺れが収まると全校児童を校庭に避難させました。どれくらい校庭にいたでしょうか。長く感じたがおよそ30分ほどだったかもしれません。
 校舎内に戻ってからも子供たちは地震に対する恐怖から精神的に不安定になりました。夕暮れも迫ってきました。幸い当校は田園地帯でもあり災害の発生はありませんでした。テレビでは三陸地方の大津波発生が伝えられました。大変な地震だったと気づきました。
 明るく安全なうちに子供たちを帰宅させたほうが得策だと考えました。そして先生方に同行してもらい全員無事に帰宅させることができました。
 帰宅してニュースを見ると町を飲み込む大津波の映像にびっくりしました。
 あの日から10年が経ちました。たくさんの特別番組が組まれ津波の映像が流れました。それらの映像を見ているとつい昨日のことのように思えました。
 改めてお亡くなりになった人たちのご冥福をお祈り申し上げます。
2021年3月11日

No.109
ワクチン接種に代用注射器

 インスリンの皮下注射に用いられる注射器が新型コロナワクチン接種に代用できるとの報道がありました。これを使えば7回の接種が可能であるとのことです。 現在、6回接種できる特殊な注射器が不足していてワクチン接種が進まないとの報道がある中、朗報であると思いました。
 この注射器は皮下注射用であるために針が短いので皮下脂肪が厚い人には使えないとのことですが、メーカーのテルモは増産するとともに針を3ミリ長くした注射器を製造する予定だそうです。
 既存の技術を応用し、すぐに対応できることが素晴らしいと思います。やがてワクチンの供給量不足と注射器不足の不安はなくなると思います。
 新型コロナ対応で培われた技術と経験は今後大いに役に立つと思います。
2021年3月10日

No.108
股関節に埋め込まれた寿命の物差し

 この人工股関節は25年から30年もちますよと医師が言いました。うまくすれば30年もつのだなと思うのと同時に半永久的にもってくれないかなという気持ちが起こりました。しかし、すぐに思い直しました。医師は「30年もあれば十分でしょう」と意味しているのだろうなと。
 私は68歳なのであと30年寿命があるかどうかわかりません。酒も煙草もやらず血圧治療をして健康には気をつけています。しかし、プラス30年はハードルが高いと感じます。
 手術のおかげで歩行が楽になりました。とても喜んでいるのですが、何かが頭の中で変わりました。頭の中の暖気が退いて寒気が入ってきたような意識の変化です。
 体に埋め込まれた人工股関節が残り寿命の物差しのように感じています。「もうそんなに長くはないんだぞ」と言っているようです。
2021年3月3日

No.107


墜落したゼロ戦見つかる

 千葉県夷隅郡大多喜町泉水の水田から昭和20年8月15日に墜落したゼロ戦のエンジン、20mm機関砲、遺骨の一部が掘り出されたことが報じられました。
 昭和20年8月15日の早朝、千葉県一宮に襲来した連合国軍の艦載機と茂原の海軍航空基地から迎撃に向かったゼロ戦との激しい空中戦がありました。この時はイギリス海軍のスピットフィヤー戦闘機も参加していました。この空中戦で5機のゼロ戦が撃墜されましたが、そのうちの1機でした。燃えながら垂直に落下して大破炎上したとのことです。遺骨は地元の人たちによって供養されました。今も墓石が残っています。
 この戦いで戦死した杉山光平上飛曹(当時20歳)の弟である杉山栄作さん92歳が2021年2月23日に静岡県から慰霊に訪れました。実はこの機の操縦士である可能性のある人(増岡寅雄一飛曹)がもう一人いるのですが、たとえ違っていても兄の戦友として慰霊したいという思いからでした。杉山さんは「兄貴、久しぶりだのう。よかった。成仏してくれよ。」と手を合わせました。
 私はホームページ「母が語った戦争の思い出」の中の「戦争の残り香」にもう一つの記事を記載していました。一宮で捕虜になったイギリス海軍のホックレー少尉(当時22歳)の記事です。ホックレー少尉はこの空中戦に参加したスピットファイヤーのパイロットでした。ホックレー少尉の最後については「戦争の残り香」(michiyax.jp)に記述しています。
 20歳と22歳の青年たちが夷隅郡の上空で戦って命を落としたのでした。  二つの記事の背景が一致したことに大変驚きました。また、戦後75年を経てもなお癒えることのないご遺族の深い悲しみが分かりました。亡くなった二人の青年たちを思うと複雑な気持ちになりました。
2021年3月3日

No.106
退職の黙示録

  「はじめに」  新約聖書の中で黙示録は特異な存在です。そこにはこれから人間に訪れる恐ろしい未来が描かれています。タイトルはこの新約聖書から借りました。

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 もう20年も前になります。教員の私は管理職選考に挑戦しては何度も失敗していました。もともと教員になったのが遅かった私は、先輩教員から「君は教頭にはなれないよ」と何度か言われました。つまり順番が回ってこないという意味でした。私は最後尾を歩いていました。しかし、負けるものかチャンスが来たら全力でぶち当たろうと思っていました。
 今振り返ると教員になりたての頃に家庭訪問中に自動事故を起こしたことも原因であったかもしれません。
もうだめかもしれないと何度も思いましたが、年齢制限がくるまでとにかく頑張ろうと歯を食いしばりました。
 ある晩、不思議な夢を見ました。眼の前に高い灰色の壁が長くそびえていました。壁には何か呪文のような文字かたくさん書かれていました。私のいる世界と別の世界を区切るような不思議で不気味な壁でした。
 何とか壁をよじ登って向こう側を覗くことができました。見えたのは何もない灰色の地面でした。無味乾燥で空っぽでした。ただ、道が一本あり、その先の土饅頭のような小山まで続いていました。小山には粗末な木の柱が立っていて「校長」と書かれていました。
 道は小山をぐるりと迂回して後ろに続き、端まで行きつくとぷっつりと途切れていました。境界線ははっきりとしていて向こう側は霧に覆われたように何も見えませんでした。小山を迂回して続く道が、もしかすると自分の道なのかもしれないと何となく思いました。

 この数年後、努力の甲斐あって壁の扉をこじ開けることができました。誰も予想しない番狂わせであったようです。出張所の所長が○○先生ってどんな人ですかと聞いたといいます。ちなみに管理職選考には推薦順位というのがあって順位が低いと合格できません。しかし、成績がトップであれば順位に関わらず合格させるという不文律があったようです。
 合格しても昇任できない不運もありますが、合格から一年後に管理職(教頭)に昇任しました。
 これも周囲をかなり驚かせたようでした。「威張るでもなし、はったりをかませるでもない人が教頭に昇任したのは本当に愉快だった。」、「あまりうれしかったので電話しようかとも思ったよ。」とかつての同僚や恩師から言われました。
 その後は夢の通り小山を迂回する道を歩きました。
 この道中で不可解なことがありました。私と同年代の教頭たちがみんな校長選考からに外れたのです。つまり「よほどいい成績でないと合格できないよ」とか「優先順位が低いからやっても駄目だよ」とか校長から宣告されるのです。私も言われましたが、癪に障ったので最後の選考を受けました。しかし、気持ちが萎えたのは事実です。本当に失礼な話ですが、私たちの力の及ばないものがありました。これが実態でした。

U
 定年退職前の一年間は退職後にどう生きるか計画を考えました。いろいろなことをゆっくり考えてみたいとも思いました。落ち着いた環境で考えてみたいと思い東京大学教養学部の聴講生になる計画を立てました。いくつかの審査を経て入学が認められました。

 次にやることは残務整理でした。卒業式の準備、PTA会計と学校会計を閉めること、そして来年度の入学式やPTA大会の準備等、やることが山ほどありました。これらをすべてやり終えたのは最後の日の前日でした。これで次の人に迷惑をかけなくて済むとホッとしました。
 さて、多忙な校務の中にも「忙中閑あり」といえることがありました。私は昼休みには毎日玄関前に立って子供たちが校庭で遊ぶ姿を見ていました。そういう義務があったわけではありません。ただ子供たちが遊んでいる様子を見ているのが楽しかったし、ホッとできる一時だったのです。そんな様子を子どもたちは「自分たちを見守ってくれている」と受け取っていたようです。もちろんそういう意味もありましたが。
 離任式の時に子供たちがそのことに触れて感謝の言葉を贈ってくれました。思いもかけなかったうれしい言葉でした。この時期、私は自分が校長であったらどうするだろうかという意識をもって行動するように心がけていました。

 最後の日の仕事は教育事務所で表彰を受けることでした。退職者全員がそろって一人一人が表彰とねぎらいの言葉を受けるのです。これは名誉なことです。
在職中に何か不祥事があると表彰を受けることができません。
退場するときには事務所の職員が並んで拍手で送ってくれました。これがとてもうれしく清々しい気持ちになりました。
 3月31日の日曜日の夜、今日一晩寝て明日の朝は本当に退職だなと思いつつ床に就きました。

 朝目覚めると目を閉じてあの塀の中の道を思い起こしました。
 道は途切れたままでした。しかし次の瞬間、テレビ画面のように映像がパッと出たのでした。穏やかな緑の野原(草原)の中をまっすぐな一本道が見えました。道は遥か遠くの山並みの向こうまで続いていました。あまりにも遠いのでその先の様子は見えませんでした。非常に驚くと同時に、これからはこの道を歩いていくのだろうと思いました。

 さて大学の授業が始まるまでの間にもう一つ出来事がありました。教頭会主催の表彰式と祝賀会があったのですが私は出席しませんでした。この会は教頭・校長に昇進した人と退職する教頭・校長を表彰し祝う会でした。
 この件で教育委員会に表彰状が届いているので取りに来てほしいというのです。面倒でしたが近くなのですぐに出向きました。賞状を渡されるだけだろうと思っていたところ、教育長が職員の前で表彰状を読み上げて手渡してくれました。表彰状を受け取ったその時、数十人もの職員が一斉に立ち上がって拍手をしてくれたのです。これにはびっくりしました。本当にありがたく思いました。

V
 退職後一週間していよいよ大学の授業が始まりました。忙しい毎日から解放されて駒場東京大学の静かな雰囲気を味わいました。私は3年生の授業に参加していましたが、教育者としての立場から大学と学生を眺めていました。東京大学の学生たちはとても興味深いものでした。彼らの授業態度はとてもまじめでした。先生が入ってくると話し声がピタッとやみ、講義が始まるとカツカツとペンの音が聞こえてくるのでした。これはとても印象的でした。
 授業以外でもう一つ印象に残ったことがあります。ある風雨の強い日のことでした。私は学生食堂の出入り口に近いところで昼食をとっていました。ドアが開いたときに入り口付近の棚に置かれていたパンフレットが5〜6枚風に飛ばされて床に落ちました。きっと踏みつけられて泥だらけになってしまうのだろうと思いました。すると近くのテーブルにいた数人の学生が立ち上がりそれを拾って棚に戻してくれたのでした。その様子にとても感心しました。すばらしい学生たちだなと思いました。
 妻と駒場際に出かけたこともありました。大勢の人が訪れてにぎやかでした。 1号館そばのベンチに座って出店で買った焼きそばを食べました。科学の発表も見ました。係の学生が丁寧に説明してくれました。後日、その場を通るたびにその時の思い出がよみがえりました。
 私は駒場校内の植物を調べてみました。ここには野山にあるような珍しい樹木がいくつもありました。一番のお気に入りは学生食堂わきの広場にはえているヤマナラシの大木でした。この木は5月ごろにふわふわとした綿毛のついた種子を飛ばすのです。その周囲は雪が積もったように白くなりました。
 ほかにもいろいろありますが、ホームページ(michiyax.jp)に記載しました。
 私が大学生であったのは数十年前のことです。今となっては旧い大学の姿しか知りません。しかし、現在の大学と学生たちの様子を直接見ることができました。

 東京大学のほかに早稲田大学オープンカレッジ受講、放送大学大学院修士選科生、神田外国語大学聴講生、地域の小学校の放課後塾の講師、合唱サークルへの参加を経験しました。また、道徳教育に関する論文を1本書きました。

 放送大学はテレビ画面を見ながら一人で勉強するので根気がいりました。かなり頑張って13科目の単位を取得したところで終了にしました。
 放送大学でも良い思い出があります。それは千葉大学を退官したN先生が主催した植物研究のゼミでした。隔週で開かれたこのゼミには私を含めて毎回4人ほど集まりました。それぞれが持ち寄った植物の写真やサンプル、資料をもとにして話し合うのでした。ゼミの前日になると私は植物集めに出かけました。
 N先生は理学博士でした。ご自分の経験と知識を気さくに話してくれました。皆が集まって話し合うこの2時間は幸せなひと時でした。放送大学でこんな素晴らしい経験ができたのは幸運でした。また、N先生からは貴重な古来の朝顔の種子をいただきました。今も大事に育てています。

「おわりに」
 退職の黙示録に示された道のまだ半ばにも達していないだろうと思います。これまでに見たり経験したりしたことはホームページ(michiyax.jp)に記載しました。これからの道中で更に多くの経験をするだろうと思います。ちなみに遥か遠くの山並みは自分の生と死の境だろうと思っています。

 人生の第三期にあたる退職後9年間は健康であったおかげで様々なことができました。しかし、同じことをもう一度やれと言われてもできそうにありません。
 次は人生の第四期に入ります。第四期には病気がちになり介護を受けるようになります。そして最後に死を迎えます。
 第三期と第四期の期間の長さは、その人の健康の度合いによって違ってきます。長く健康で生きられるように努めています。
2021年2月25日

No.105
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という噂に思う

 「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という文言が地震後にツイッターで流れたそうです。これに対してあるライターが100年前の悪夢がよみがえるという趣旨のことを自身の体験を踏まえながら書いていました。
関東大震災直後に「朝鮮人が井戸に毒を入れた。水源池に毒を入れた。」という噂が駆け巡りました。これに関する記事を何十年か前の高校生の頃に「文芸春秋」という雑誌で読んだことがありました。
各地で自警団が組織されたくさんの罪なき朝鮮人がとらえられて殺されました。警察署でも捉えられた朝鮮人が切り殺されたようです。刀の柄に白布を巻いた警察官がいて警察署の裏で首を落としたとも書かれていたように思います。見ていた警察官が「おみごと」と声をかけたとも。このような残虐なことが実際にあったことは間違いないようです。在日の人たちにとって、いつぶり返すかわからないという恐怖があるでしょう。
 私は朝鮮から来た牧師さんと親しくしていました。牧師さんは教会を退職してから韓国に帰り数年前に病気で亡くなりました。今はソウル近郊の墓地に眠っています。昨年墓参りに行きました。牧師さんの家族は大変喜んで歓待してくれました。今でも交流があります。
「朝鮮人が井戸に毒を入れた」・・昨今の社会状況を見るにつけ、このような悲劇が再び起こらなければよいがと思いました。
2021年2月20日

No.104
新型コロナワクチン接種に期待

 新型コロナ対策の切り札であるワクチン接種が始まりました。まずは医療関係者、次は高齢者です。
 私の住む房総南部の町はもともと過疎化が進んでおり密とは遠い疎の状態です。夜7時ころにはお店はみな閉まり商店街には誰もいなくなってしまい寂しい限りです。
 そういう状態なので感染者はほとんどなく安全度が高いこともあり、ワクチン接種には正直に言えばあまり気が進みません。10年ほど前に初めてインフルエンザワクチンを打った時に風邪を引いたような感じになりだるさが一週間続いたこともあったからです。それ以来インフルエンザワクチンは打っていません。
 しかし、多くの人が新型コロナに感染して亡くなっている現在、ワクチン接種を受けることは自分のためだけでなく周囲を不安にさせない配慮としても大切なことだと思っています。接種の順番が来たら受けることにしています。新型コロナの終息を祈っています。
2021年2月17日

No.103
森喜朗氏の会長辞任に思う

 オリンピック組織委員会会長の森氏が「女性が多い理事会は時間がかかる」と発言したことに批判が集中して騒動になりました。メディアや多くの人たちが森氏の人格を全否定するような批判を繰り広げ、後先考をえずに辞任に追い込みました。この騒動を見て差別やヘイトと根っこが同じだと思いました。
 森氏は公に謝罪しました。多くの人にとって不満は残るでしょうが、今後気をつけろよと許す寛容性と冷静な判断があってもよかったと思います。
 ところがマスコミをはじめ、多くが我も我もとこのお祭りに参加し、我こそは正義の代表であるとばかりに森氏を叩き続けました。倒れてもなお叩き続ける光景は異常であり恐ろしくもありました。
 組織委員会の中で森氏のワンマン性には批判もありました。それはそれで仕方がありません。組織の上に立つ者はいつも批判を浴びます。しかし、大きな組織を動かすのは並大抵なことではありません。しかもコロナ禍にあり難しいかじ取りを迫られています。ポンと引き継いでできるようなものではないでしょう。森氏の力が必要であったと思います。
 後任者の件ですが、正直言ってこんな仕事は引き受けないほうが賢明だと思います。今後オリンピック組織委員会は糸の切れた凧のように迷走するのではないかと心配です。
2021年2月14日

No.102
黙食の日々

 黙食の日々 新型コロナ対策として食堂は会話禁止や一人で黙った食べることをお願いしています。 定年退職して以来、家族のいない昼間は一人で食事をするので黙って食べるのはいつものことです。しかし、あまりにも味気ないので父母の写真を置いて食事をすることもあります。
一般に高齢になると外出することも人との会話も少なくなるようです。ある調査によると一週間に誰とも話をしないという人も結構いるようです。ましてコロナ禍で不要不急の外出を控えている昨今、学校にいけない、会社にいけない、飲みに行けない等、高齢者ばかりでなく若い人たちもコミュニケーション不足のつらさを訴えています。
 私は家族と住んでおり妻や子供らとの会話があるのでまだよいほうですが、それでも地域の合唱サークルに参加したり小学校の放課後塾の講師をしたりして外部(人)との関わり絶やさないようにしてきました。
 しかし、コロナ禍により今は外部活動ができなくなっています。ただ、昨年、股関節手術により数週間入院したことやその後のリハビリで病院関係者との関わりがあったので多少の慰めになりました。
 コロナ禍で社会に大きな変化が起きました。これほどの変化を一年前には予想もしませんでした。今は自分にできることに全力を尽くしています。ワクチンの接種が始まるとのこと、終息を祈っています。
2021年2月14日

No.101
Soft bank Airを採用した

 元日からSoft bank Airという無線方式使ってネットに接続するようにしました。これまで使っていたADSLサービスが廃止になったためです。
 工事がいらずルーターをコンセントにつなぐだけという手軽さと料金の安さが採用の理由です。
 エリア通信エリア内にあることは確認してありました。説明書通りに電波が入りやすい窓際に置くと電波強度は最高の強を示しました。
 様々な設定は機械が勝手にやってくれたので全く手間がかかることもなくすんなりとインターネットに接続できました。
 早速,ヤフーを開いてみるといつもより速いスピードで画面が開きました。通信の状態は安定していて全く問題なしで一安心です。
 今は,ホームページや通販,調べものにこれまで通りに使っています。
 我が家のネット環境が一段進化しました。3年後の契約更新時には,さらによいサービスが出ていることを期待します。
2021年1月3日


No.1


炎天下の梅干しつくり
 今年も梅干しを作りました。7年前に初めて梅干しを作ってみたところ,味も香りも満足できるものができました。それ以来,毎年,梅干を作っています。
 梅干しを作るのは手間がかかります。一粒ずつ楊枝でヘタをとり,焼酎で洗って殺菌し,塩をふって1か月ほど樽に漬け込みます。我が家では,梅1sに対して130gの食塩を使います。梅酢が上がりきるころになると梅の実を干す時期です。
 梅雨が明けた7月の炎天下に梅の実を並べて干します。黄色かった梅の実がだんだん茶色になってきます。まんべんなく日光があたるようにと何度も梅の実を裏返します。おいしい梅干しになると思うと暑い日差しも苦になりません。
 だんだん梅干しが出来上がってくると酸っぱいよい香りがしてきます。こうして三日ほどすると梅干しが完成します。すっかりシワシワになり,表面は粉のような塩粒におおわれています。一粒とってかじってみると爽やかな香りと酸っぱさが口の中に広がります。
 梅干しは,厳しい夏に負けないための日本人の知恵だと思います。我が家は梅干しで夏を乗り切ります。
2019年8月10日

No.2

女性哲学者と女子プロレス

 1月10日に神田外国語大学に行ってきました。昨年9月から後期の聴講生になっています。
 大学へは,海浜幕張駅を降りてテクノガーデンの中を通り,歩道橋を歩いておよそ15分です。途中のコンビニで弁当を買い,テクノガーデンの中で食べます。
 校内は試験シーズンのせいか,いつもより学生が少なかったです。私が受講しているのは哲学ですが,学生たちと対話しながら進める形態は面白かったですね。ちなみに先生は女性です。
 講義の中で先生がこんな話をしました。

「昨日は女子プロレスを夢中になってみていました。あれ面白いですよね。」

 思わず笑ってしまいました。女性の哲学の先生が女子プロレスが面白いって不思議だなあと思いました。
 馬鹿にしているのではなくて,哲学の先生が女子プロレスが面白いというのがほっこりとして素敵だなと感じたのです。これは無駄話ではなくて,ちゃんと授業と関連した話なのです。
 結局,この日の授業では,この女子プロレスの話が一番心に残りました。デカルトやM-pontyの話は,すっかりかすんでしまいました。  
2020年1月11日

No.3
早起きは三文の徳

 小高い丘の中腹にある我が家からは日の出がよく見えます。
 東方の海の手前に連なる低い山の頂から太陽が昇ってきます。青黒い空に少し赤みがさし,それがだんだん赤みを増したかと思うと透き通るようなオレンジ色に変わり太陽の天辺がちらりと顔を出します。そして見る見るうちにまぶしいオレンジ色の球体が上昇してきます。この動きは目で見てわかるほどです。
 このとき,朝日で障子がほんのり橙色に染まり,トネリコの枝が大きな影絵になります。まるで芸術作品を見ているようです。「」という諺通り,一日の素晴らしい始まりでした。
2020年1月18日

No.4
教会に宿泊した大雪の夜

 関東地方では2月から3月にかけて大雪が降ることがある。雪に慣れない地方だけに大雪になれば大混乱になる。
 2015年2月のこと,私は息子と所用で相模原に一泊で出かけた。一日目は天気がよく,あちこちを見て歩いた。ところが二日目は朝から雪だった。まだ歩道に少し積もっているくらいだったが,午後からどんどん激しくなり,用事を終えて帰るころには何十センチも積もるありさまだった。
 これは早く帰らないと大変なことになるぞと私たちは先を急いだ。しかし,町田を過ぎると列車が動かなくなった。動いたり止まったりでなかなか先に進まなかった。
 何とか東京駅に着いたのは20時過ぎだった。東京から千葉へは列車が動いていなかった。夕食をとって何時間も待った。ようやく千葉駅に着いた時には夜中の12時を過ぎていた。ところが千葉から先の外房線が動いていなかった。せっかくここまで来たのにどうしようと困ってしまった。午前0時を過ぎているのに東京方面からは乗客を満載した列車が入ってくる。この人たちもここで足止めだ。
 考えたあげく市川でアパート住まいをしている娘のところに行くことにして市川まで引き返した。
 市川駅に着くころには午前1時を過ぎていた。相変わらず雪は激しく降り続いていた。タクシー乗り場には何十人も並んでいた。みんな雪の中でタクシーを待っていた。タクシーは30分に1台しか来なかった。このままでは自分の番が来るまでに何時間待つことになるのだろうかと思った。傘をさしていてもコートの襟から雪が入り込んできた。手も足も冷たくなってきた。

[雪の中をさまよう]
 娘の住むアパートまでは3kmほどだ。歩こうと思った。歩いて行ったことがなかったので息子を残して道の確認に出かけた。道路には何十センチも雪が積もり,街灯が照らす先は真っ暗闇だった。走る車もなく静寂だった。こんな状況で道に迷ったら命にかかわる。
 200mほど歩くと街灯の下で歩道の雪かきをしている婦人がいた。婦人に道を尋ねると親切に教えてくれた。しかし,不慣れな場所であることと1日の疲れもあってか説明がうまく呑み込めなかった。すでに午前2時を過ぎていた。だんだん不安になった。すると気の毒に思ったのか
「ここに泊っていったらどうですか」
と婦人が言った。
 一瞬,何を言われているのか分からなかった。見ず知らずの人間を泊めてくれるというのはどういうことだろうと思った。視線を上げるとライトに照らされた看板に「三本松教会」という文字が見えた。ここはキリスト教会だった。この婦人は教会の牧師夫人であり朝の礼拝に備えて歩道の雪かきをしていたのだった。
 私は厚意に甘えることにした。それよりほかになかった。そして急いで息子を呼びにもどった。息子は傘をさして降りしきる雪の中にぽつんと立っていた。
「泊るところが見つかったぞ」
と声をかけた。そして三本松教会に向かった。

[教会に迎え入れられて]
 夫人は私たちを快く受け入れてくれた。教会には信者が泊まれる部屋があった。そこに通してくれた。そしてお風呂を用意してくれた。温まって布団に入ったときには3時を過ぎていた。昨日から今日までのことを思い出す間もなく眠りに落ちてしまった。
 目が覚めたのは7時ごろだったろうか。夫人はトーストとスープを用意してくれた。牧師夫妻は朝の礼拝の準備で寝る時間もなく忙しかったに違いない。そんな中に私たちが飛び込んでしまったのだった。
 天気は回復して雪はどんどん溶け始めた。私は礼拝に参加した。広い礼拝堂が二階にあった。驚いたことに正面に大きなパイプオルガンがあった。フランスから取り寄せたものだという。それを信者の方が演奏した。初めてパイプオルガンの荘厳な響きを生で聞いた。オルガンの響きに包まれると昨日からのことが頭の中を駆け巡った。パイプオルガンがいつまでも耳に響き続けた。窓の外では木の葉がキラキラとそよいでいた。
 礼拝後,私たちはこたつに入って夫人と色々なことを話した。夫人は息子が来たことをとても喜んでくれているようだった。牧師夫妻はともに同志社大学で学び,夫人は看護を学んだという。
 昼頃には列車も動き出したので牧師夫妻にお礼を言って三本松教会を出た。私たちは無事に帰宅することができた。そして昨日からの出来事を妻に話した。

 あれから5年の歳月が流れた。雪の夜の光景とともに今でも浮かんでくる言葉がある。
Miracle do exist
2020年1月24日

No.5


小鳥たちのサザンカ食堂

 寒い1月に生け垣のサザンカが満開になり鮮やかなピンク色で庭がぱっと明るくなります。
 サザンカを目指してメジロ,ヒヨドリ,スズメたちががやって来ます。我が家のサザンカは小鳥たちの食堂なのです。メジロは目の周りに白い輪がある黄緑色をしていてスズメより小柄です。サザンカの枝をちょこちょこと移動しては蜜を吸っています。時々ピーピーときれいな声が聞こえます。
 カメラを向けてもすばしこくてなかなか撮れません。
 ヒヨドリは灰色の大柄な鳥で頬に茶色の斑点があります。バサバサと勢いよく飛んできてサザンカに着陸します。きょろきょろ警戒しながらサザンカの花びらをむしってはパクパクと飲み込ンでいます。人の気配がするとさっと逃げて少し離れたところにとまっています。きっと,もっと食べたいのでしょう。
 スズメたちは群れでやってきて一生懸命地面をつついています。
 食べ物の乏しい冬,サザンカ食堂は小鳥たちでにぎわいます。
2020年1月27日

No.6
武漢からの帰国者

 2020年,新型コロナウィルスが発生した中国湖北省武漢からの帰国者の第1陣が千葉県勝浦市の「勝浦ホテル三日月」に到着した。ここで2週間の経過観察を受けたのは176名だった。
 当社勝浦市内では不安の声も上がった。しかし,ネットやメディアでは同ホテルに対する称賛の声が上がった。風評被害も予想され経営の死活問題にもなりかねない中,同ホテルの英断であった。
 2週間,部屋から出ることもできず,人と接することもできない生活は苦しかっただろう。また,病気が発症するかもしれないという不安も大きかっただろう。ただ淡々と日々を過ごすしかなかった。
 そんななか予想もしなかったことが起こった。地元の子どもたちが砂浜に励ましの言葉を書いたのだ。「もうすこしだからがんばって」と砂浜に箒で大きく書かれた文字を見て励まされたという。さらに後日,夜には竹にともされたろうそくの文字や太鼓による励ましまであった。

[勝浦漁民の歴史]
 不安な生活をしている人たちを励ます地元の人たちの心遣い。こんなことがあるとは思いもしなかった。誰もが不安で気持ちが暗くなっているときだった。どうしてこんなことができたのだろうと考えた。そしてあることに思い当たった。
 勝浦は昔から漁業の町だ。危険な海の漁で助け合って生きてきた。幕末のころ五稜郭制圧に向かった官軍の船(ハーマン号)が川津沖で遭難した。沿岸の住民は総出で救助にあたった。しかし,熊本藩兵とアメリカ人乗組員合わせて230名余りが亡くなった。亡くなった人たちは当地に葬られた。山上に建てられた官軍塚がこの悲劇を今に伝えている。
 勝浦市の隣にある御宿町では,江戸時代にメキシコの船が遭難した。ここでも浜の住民が総出で救助をした。女たちは冷たくなったメキシコ人の体を裸で抱いて温めたという。御宿町とメキシコの交流は今も続いている。
 古より海に生きる人たちから受け継がれている助け合う心が今回の出来事にも現れたのだろうと思った。目には見えない大きなものが受け継がれている,そう考えるに至った。
 ホテルに滞在した人たちは2月13日をもって全員帰宅した。それを従業員や支援する人たちが見送った。
 武漢からの帰国者が「勝浦ホテル三日月」に2週間滞在して帰宅した。ただそれだけのことだったが,私たちの心に残ったものは大きかった。
 2020年2月15日

No.7


韓国旅行の思い出T

 去年の春,私と妻と長女の3人でソウルの知人を訪れた。親しくしていた牧師の墓参りをするためだった。牧師は奥さんと長く当地大原の教会で働いていたが定年になり韓国に帰っていた。ソウルでも教会活動をしていたが,体を悪くして数年前に亡くなったのだった。私は牧師の墓参りに行ってやりたいとずっと思っていた。それがやっと実現したのだった。
 インチョン空港では息子さんが待っていてくれた。初対面だったが顔つき,声,しぐさが父親にそっくりだったのですぐに分かった。私たちは電車でソウルまで移動した。車中では色々と話し合って打ち解けることができた。
 ソウルの家では奥さんと娘さんが暮らしている。奥さんはもう96歳になる。奥さんと娘さんは私たちの来訪をとても喜んでくれた。
 奥さんは毎日聖書を書き写すのを日課にしている。韓国語で書いたものと日本語で書いたものとがあった。どちらもきれいに書かれていた。
 夕食を近くのレストランでごちそうになった。日本では見たことのない韓国料理がいくつも出てきた。私が気に入ったのはタコのキムチだった。とても辛かったのだがおいしかった。トウガラシを使った辛い味付けが多かったように思うが,どれもおいしかった。韓国の焼酎を飲みながら話がはずんだ。ちなみに会話は日本語だった。皆日本語が上手だったので会話に不自由はなかった。
 この日はソウル市内のホテルに宿泊した。ここで2泊することになっていた。ここでハプニングがあった。妻が南大門市場に行くといって長女と出かけた。しかし,道に迷ってしまい1時間ほどして戻ってきた。暗かったので道がわからなかったようだ。

2020年2月22日

No.8
韓国旅行の思い出U
[2 日 目]
 二日目は娘さんの案内で墓参りに出かけた。ソウルから高速道路を走って1時間半もかかる場所にあった。山一面が整地されたくさんの墓地が作られていた。そういった山がいくつもあった。牧師の墓地は,そういった山の中腹にあった。日本の墓とは違い大きな墓石はなかった。氏名等を記した石板が置かれているだけの簡素なものだった。私は手を合わせて祈った。「日本から来ましたよ」とつぶやいた。やっと来たという思いだった。皆も一緒に手を合わせて祈った。近辺の墓を見て回ると家族との写真の入った墓石もあった。韓国では墓地が不足していて,この場所を購入するのに1年以上かかったそうだ。
 昼にはソウルにもどった。サンゲタンのおいしい近所の店でごちそうしてくれた。腹の中に朝鮮ニンジンが入った大きな鳥が出された。食べきれるかなと心配になった。でもスープも肉も朝鮮人参もおいしくて全部食べてしまった。長女もおいしいといって全部食べたのには驚いた。店でチジミをサービスしてくれた。
 近所には延世大学という韓国の一流大学がある。そこを案内してもらった。とても広々としていて整頓されていた。小高い雑木林がありベンチが置かれていた。すれ違う学生たちは外国から来た人たちが多かった。正面には創立者の銅像があった。そこから正門までは100メートル以上ありそうだった。私たちが銅像前で記念写真を撮ろうとしていると通りかかった学生が撮りましょうかと声をかけてくれた。アジア系だが韓国人ではなさそうだった。撮影後にとりあえず英語でお礼を言った。彼はにこにこしていた。旅では人との触れ合いが一番心に残るしうれしい。
 次の訪問校は梨花女子大だ。ここも名門校で牧師の奥さんはここの卒業生だ。広々とした入り口を入ると大きな下り階段があった。降りた先には大学の売店があった。ここで梨の花のピンバッジを買った。反対側の階段を上ると学校の建物が並んでいる。花が咲く校内をしばらく散策した。きれいな学校だった。
 墓参りや学校巡りでいささか疲れたので早めにホテルに入った。明日は娘さんがソウル市内を案内してくれることになっていた。
2020年2月22日

No.9
韓国旅行の思い出V
[3 日 目]
 三日目の朝,自分たちで南大門市場に行ってみようということになった。案内図を見ながら今度は到着できた。南大門は過去に火事で焼失したが再建されている。歩道や交差点にはところどころにベンチがあった。そこで写真を撮ると背景に南大門が入るようになっている。何枚も写真を撮った。朝の時間帯,道行く人たちは忙しそうに歩いていて,私たち旅行者に気をとめる様子はなかった。
 朝早かったので市場はほとんどの店が開いたばかりだった。お土産を物色しながら歩いていると路地の奥の食堂でおばさんがこっちへ来いと手招きをするのが見えた。朝食を終えていたので残念だった。でも次はこういうところで食べてみたい。
 おじいさんが経営する店に入った。おじいさんは「朝早くからよく来てくれた」と言っておまけをくれた。ここでたくさん買った。他の店でお菓子を買って買い物を終了した。今度来たときはもっとゆっくりと買い物をしたり食事をしたりしたいと思った。
 ホテル前で娘さんと待ち合わせて徒歩で市内観光に出かけた。初めに教会に行った教会は小高いところにあり,石造りの大きくて立派なものだった。中に入ると椅子が並ぶ広い会堂があり,天井には大きなステンドグラスがはめ込まれていていた。そこから色とりどりの光が差し込んでいた。
 街中をしばらく歩いた。車やオートバイが行きかい,人々が忙しそうに働いていた。日本の学生らしい人たちも大勢見かけた。皆,土産物ショップに出入りしていた。街の様子や行き交う人々をじかに見ることができた。

 しばらく行くと大漢門の衛兵の交代式に出くわした。赤や黄色の伝統的な衣装を着て丸いつばのある黒い帽子をかぶった衛兵たちが手に"なぎなた"のような武器などを持って整列していた。私たちも人だかりの中で見物した。太鼓や楽器が鳴らされてにぎやかだ。式が終わると観光客が衛兵の脇に立って写真撮影をしていた。私と妻も後ろのほうの衛兵の脇で写真を撮ってもらった。衛兵は瞬きもせず前を見つめたまま動かなかった。そんな様子がとてもよかった。
 娘さんは長女と終始一緒に歩いていた。ナオさん,ナオさんと呼んで話しかけていた。長女の訪問をとても喜んでくれていた。
[日 本 へ]
 昼近くになり,ソウルから去るときが来た。ホテル前からインチョン空港行きの高速バスに乗り娘さんに別れを告げた。
 機内で三日間の出来事をあれこれ思い出した。あまりにもたくさんのことが詰め込まれた三日間だった。眼下には韓国の山々が広がっていた。カムサムニダ ソウル とつぶやいた。成田空港に到着した時には19時を過ぎていた。それから2時間かけて車で帰宅した。

 今回の韓国旅行の目的は,牧師の墓参り,牧師の家族を訪ねる,ソウル市内の見物だった。このすべてを果たすことができた。特に牧師の奥さんはとても喜んでくれた。それで私たちのホテル代を全額だしてくれたのだった。申し訳ないと思ったが好意を無にすることはできず甘えることにした。これが韓国の流儀なのだろうと思った。

 日本と韓国は今政治的にもめている。ネット上には誹謗中傷があふれている。しかし私たち家族は楽しい韓国旅行をしてきた。韓国の人たちの日常の様子は平穏だった。メディアやネットで見聞きするものとは違った。いつか互いに信頼し合えるようになることを願っている。
2020年2月22日

No.10
新型コロナで旅行を中止

 二月の下旬に妻と富岡製糸場などを訪れるバス旅行を予定していました。久しぶりの旅行だったので楽しみにしていました。
 そんな折,降ってわいたようにコロナウィルスの感染が広がり始めました。
 あちらこちらで感染者が出たというニュースを毎日耳にするようになりました。
 はじめのうちは,すぐに収まるだろうと期待していました。
 ところがおさまるどころか全国的に感染者が出るようになりました。
 これまでに感染者がいなかった県でも感染が発表されるようになりました。内心,困ったことになったと思いました。
 妻がだんだん不安を口にするようになりました。バスの中で感染するのではないかと不安になったのです。
 毎日ハラハラしながらテレビニュースを見ました。せっかくの旅行だから行きたいと私は思っていました。
 しかし,不安な気持ちで行っても楽しくはないだろうと思うようになりました。
 そして一週間前になって旅行をキャンセルしました。気持ちが楽になってすっきりしました。
 その後,感染はさらに拡大し,ますます深刻な状況になりました。
 安倍首相からは,全国の学校を3月2日から臨時休校にするようにとの要請も出されました。
 これでは旅行どころではなかったな,キャンセルしてよかったなと思いました。
 旅行はまたいつか行けばよいのだから,無理をしなくてよかったと思いました。
2020年2月28日

No.11
学校全国一斉臨時休業

 新型コロナウィルス感染防止対策としていすみ市の小中学校は3月2日から臨時休校となる。安倍首相からの突然の要請だった。
 初めは学校が大変だなと思った。しかし,ものは考えようだと思いなおした。
 臨時休校はたったの2週間だ。授業はほとんど終わっているだろう。
 だから残りは家庭学習にすればよい。来年度にいくらでも補えるのだから余分な心配をせずに割り切ればよいだろう。
 教職員は出勤するが,児童生徒はいないし部活もない。なのでじっくりと仕事ができる環境だ。法定表簿である指導要録の作成やその他の事務処理もゆとりをもって進められるだろう。
 授業時数や出席日数の不足も非常事態だから認められる。何よりも安倍首相が責任を持つと言っているのだから安心だ。
 全国一斉臨時休業はすべての教職員にとって初めて経験する非常事態だが,2週間なんてあっという間に過ぎ去ってしまう。
 この2週間をうまく活用して,あわてず騒がす粛々と仕事を進めればよいと思う。
2020年2月29日

No.12
お雛様は母の面影

 妻とお雛様を飾りました。長女が生まれたお祝いに義母が買ってくれた内裏雛です。
 長女は既に社会人ですが,我が家では毎年雛人形を飾ります。
 台に乗せると1年ぶりに見る男雛は凛々しく,女雛は優雅です。
 障子を通った柔らかな光のなかでかすかに微笑んでいるようにも見えました。
 雛人形を飾ると冬が明けた3月の明るく暖かな光を感じます。また,生活の節目にもなります。
 何よりも長女の誕生を喜んでくれた義母の気持ちや私たちの喜びを思い出すのです。
 古来,女の子の健やかな成長を願って行われたひな祭り。 私たちもささやかながら続けています。
2020年3月2日

No.13
「リア充」って何

「リア充って何?」という記事があった。
「リア充」というのは数年前にはよく使われていた若者たちの言葉だ。いろんな答えがあってそれぞれに自分の「リア充」を語っていた。
 しかし,少し違うと思った。「リア充」という言葉の本当の意味は「リアル生活の充実」 ということだ。
 「リアル生活」の反対は「バーチャル生活」だ。ゲーム等でバーチャル世界にのめりこむと大きな充実感・満足感を味わうことができる。自分の生活は充実していると錯覚してしまう。
 一方,現実の生活は疎かになって充実感・満足感が不十分になる。現実の生活の充実が必要だと考えるようになった。こういう人たちから生まれたのが「リア充」だ。
 今では「リア充」「リア重」どっち?と言われている。「リア充」の意味もあいまいになっている。
 さて自分は「リア充」かどうかというと,そもそもバーチャル世界にいないので当てはまらない。常にリアル生活を営んでいる。
 こういった流行語にも生まれた背景がある。そして時とともに失われていく。
2020年3月2日

No.14
コロナ感染拡大と卒業式

新型コロナウィルスの感染が連日報道されています。学校が臨時休校になり子どもたちはみな家で過ごすことになりました。共働きやひとり親の家庭では,子どもたちを一人で家に置いておくわけにはいかず,とても困っています。  さて,家庭の問題もあるのですが,子どもたちにとっての切実な問題は卒業式のことです。私たちの地域では,教職員,卒業生,保護者(各家庭一人)で卒業式を実施することが決まりました。感染拡大防止に協力しつつも最大限に感染防止対策をとったぎりぎりの選択だったと思います。本当によかったと思います。  すべての教職員が経験したことのない困難の中での卒業式の実施です。なによりも子どもたちにとって素晴らしい卒業式となるように祈ります。
2020年3月8日

No.15
ホームページで充電

 昔から芸は身を助けるといわれます。私の場合,ホームページが芸でした。
ホームページを始めて15年になります。インターネットが普及し始めたころでした。ネット上に自分のページを作れると知ってホームページをやって見たくて仕方がありませんでした。
 ホームページを簡単に作れるというサイトがあったのでこわごわ利用してみました。きまった形が用意されていて,それを組み合わせるだけの簡単なものでした。後はそこに文字やら写真やらを載せていけばよかったのです。そうしてどうにか自分のホームページができました。本当にうれしくてワクワクしました。趣味を中心に毎日更新しました。ホームページは生活に欠かせないものになりました。
 ホームページは自分の趣味や考えを発信できるだけでなく,ネットを通じて広い世界につながることができました。
 50代の後半になると職場という狭い世界しか見えなくなりがちでした。退職後をどう生きるかという大きな問題も迫ってきました。そんなこんなで不安になることがありました。しかし,ホームページによってそういった危機から救われました。広い世界に目を向け社会とのかかわりを持つことができたので自信を持つことができました。
 退職後は東京大学の聴講生になって勉強をしました。その体験をホームページで紹介しました。また,自分で書いた道徳教育についての論文を載せたりエッセイも載せたりもしています。ホームページに自分の作品や考えを発表することにより充実感と自信を得ることができました。喜びを感じることができました。
 今ではホームページの内容がとてもふえました。15年もよく続けられたと思います。継続は力なりといいます。継続してホームページという芸を磨いてきたことが,自分を助けてくれているのだと思っています。
 まるでネットの大海原を航海するホームページ号の船長のようだと思うことがあります。
2020年3月10日

No.16
トリアージは大切

 Covic19(新型コロナウィルス)が世界に広がっています。感染が急激に拡大し死者が増えている国もいくつかあります。日本では,検査を希望してもやってくれないという意見が多く聞かれます。メディアもこのことに対して政府の不備を指摘する声が多いように思います。
 しかし,日本の感染者数,死者数は世界の国々に比して多くはありません。むしろ低く抑えられているように思います。これは日本が当初からトリアージを行って医療を進めてきたためであると思います。
 トリアージとは助かる見込みのある人を優先して治療することです。例えば,大事故の場合,助かる見込みのある人を優先して治療に回します。こうすることによって効率的に治療を行い,できるだけたくさんの命を救おうという考え方です。
 医療の能力には限界があります。不要不急の人を後回しにして医療崩壊を防いでいるのだと思います。Covic19の対処にあたって陽性者・重症者を優先して治療することで多くの命が救われていると思います。
2020年3月12日

No.17
庭にキョンが来たT

   一週間ほど前から庭にキョンがくるようになりました。庭の隅にフンが落ちていたので変だと思っていました。今日は,あちこちに臭いフンをしていきました。ハエがぶんぶん集まってきて不衛生でした。
 よく調べると桜の苗の花や枝先がかじられていました。育ってきたエンドウの苗も食われて数が半分に減ってしまいました。フンはここは安全だという目印です。これからはどんどんやってくるだろうと思うと心配でした。
 今までなぜキョンが来なかったのかというと,犬がいたからです。犬のいるところには近づきません。その愛犬は一年半前に死んでしまいました。
 どうしたものかと考えました。一番いいのは柵を作ることです。または,犬を飼うことです。どちらもすぐにはできないので,とりあえずフンをきれいに掃除して,キョンが嫌がるように石灰硫黄合剤を噴霧してみました。
 キョンは周辺の野山にたくさん生息していますが庭に実害があったことはなかったのでびっくりしました。犬のありがたみが分かりました。
※キョンは外来の鹿の仲間で大きさは中型犬くらいです。房総南部に増えていて農作物に大きな被害が出ています。
2020年3月15日

No.18
庭にキョンが来たU

 昨日は庭をキョンに荒らされて大変困りました。あれからフンを取り除き,臭いの強い石灰硫黄合剤を庭中に噴霧しました。昨夜は,キョンが来ないかと何度も庭を見ました。今朝は,キョンが来た様子はありませんでした。庭には石灰硫黄合剤の匂いが漂っていました。昨日の対策が功を奏したのかなと満足しました。
 それにしても分からないことがあります。愛犬が死んでから一年半になるのに何故かその間にキョンが来なかったのです。あれこれ考えてみると思い当たることがあります。それは庭に設置している浄化槽ポンプです。このポンプのブーンという音を嫌がったのかもしれません。このポンプは寿命を迎えていたので,昨日新くしました。元気な音が出ているので警戒して近寄らなかったとも考えられます。
 近所の家庭菜園にはペットボトルの風車をつけているところもあります。キョンは臆病で音に敏感です。しばらく様子をみたいと思います。
 近年,房総南部ではキョンによる農作物の被害が増えています。他人事とは思えなくなりました。
2020年3月16日

No.19
地域の千本桜に期待

   いすみ市の布施地区では毎年2月の下旬から3月にかけて千本桜祭りが催されます。この祭りは地域活性化のために数年前から始められました。布施の人たちが河津桜の苗を一生懸命に植えました。今では桜が地域中に増えています。
 今年,祭りは新型コロナ騒ぎで中止になりましたが,二月の下旬に行ってきました。川沿いの土手や山の斜面に河津桜がピンクの花を満開に咲かせていました。祭りが中止になったとはいえ見物に来る人たちがたくさんいます。親子,老夫婦,若い男女,みんなゆったりと桜を楽しんでいました。ピンクの花を眺めながら川沿いを歩くと春の香りがしました。様々な憂いを忘れることができたひと時でした。
 地域の人たちで作った千本桜祭り。やがてここが桜の名所となるよう祈ります。
2020年3月17日

No.20
うがいと手洗い

   風邪の予防にはうがいと手洗いが大切と言われています。今,猛威を振るっている新型コロナウィルスの感染予防にもうがいと手洗いが大切だといわれています。ところが,今朝のNHK放送で,うがいに効果あるかどうかは確かめられていない,疑わしいと言っていました。これまでも時々耳にしていたことです。
 若い時だったら「なんだ,効果のないことをやらせるなんて」と間違いなく思ったでしょう。しかし,ふと,そうでもないなと思いました。
 よく考えれば,手洗いとうがいは衛生的な生活を維持するには欠かせません。手洗いで細菌感染を防ぎ,うがいで口内を清潔に保つことは健康を保つのに大切です。うがいと手洗いは一連の行動(ワンセット)ととらえてよいと思います。うがいをしてから手洗いをする,手洗いをしてからうがいをする等,一連の行動と考えればよいのです。だから,ばらばらにしないほうがよいと思うのです。
 特に小さい子どもたちに教えるときには"うがいと手洗い"というようにしたほうがよいのです。一連の行動として身につくからです。うがいは効果がないからやらなくてもいいよとは言いません。どちらも健康を保つためには大切だからです。
 報道内容の受け取り方は人によってまちまちです。肯定的に受け取る人,反感を持つ人,まちまちです。今朝の放送は「うがいしても無駄だよ」と言ったのではないでしょう。新型コロナウィルスの感染予防に役に立たないにしても大事にしたい生活習慣です。
2020年3月19日

No.21
卒業式2020希望へ

   新型コロナウィルスの感染予防のために学校の卒業式が縮小されて実施されました。臨時休業になったため卒業生を送る会や友達と名残を惜しむこともできませんでした。そんな中,せめて卒業式だけはと実施されたのでした。縮小されたとはいえ子どもたちにとってはよかったと思います。
 子どものころの卒業式を振り返ってみるとあまり印象が残っていません。どんな卒業式だったのかよく覚えていないのです。あの頃は静かに卒業式を迎え静かに学校を去ったという印象です。特別な感慨はありませんでした。
 卒業式を迎えるにあたり特別なことはありませんでしたが,日々静かに名残を惜しみつつ心の準備していたのかもしれません。
 2020年,華やかな卒業式はなかったけれど,子どもたちは状況を受け入れてそれなりに心の準備をしていたのではないかと思います。よい春を迎えられるようにと祈ります。
2020年3月28日

No.22
「はですね」の多用は聞きずらい

 テレビを見ていて気になることがあります。それは語尾に「〜はですね」を多用する話し方です。話の途中に何度も「〜はですね」が入ります。実は私も若いころ「〜はですね」をまねたことがあります。これを使うと大人っぽく感じたし,上手に話せるように思えたからです。それで一時癖になりました。しかし,人が話すのを聞いていると「〜はですね」がたくさん入るとそのたびに話が途切れて聞きにくいです。
 本人は上手に話していると思っても聞く人は煩わしいと感じるかもしれません。だから私は「〜はですね」を使わずに間をとるようにしています。
2020年3月31日

No.23
恩師がくれた言葉

 「母と父の忘れな草」に「戦争の残り香」を載せました。子どものころ父母から聞いた戦争体験を書いたものです。この作品以外にも書いていますが,随筆(?)をかくことに充実を感じています。随筆を書くようになったのには,あるきっかけがありました。
 かつて同窓会の折に恩師の小後貫先生が私に言いました。「佐竹(仮名)君が退職後に何をしたらよいのか一生懸命に考えてみたんだが,文筆活動がいいと思うんだ」と。
 「文筆だなんて一番苦手なことじゃないか」と内心思いました。どうも根拠が分かりません。小後貫先生の直感としか言いようがありません。8年も前のことでした。しかし,今になってみれば文筆に似たようなことをやっています。日々の大切な仕事になっています。
 自分の思いを書くことで自分を保つことができます。社会との関わりを持つことができます。こんなことを恩師は私に伝えたのだと思います。
 「文筆活動がいいと思うんだ」という言葉の背景には長い人生経験とそこから導かれた深い考えがあったのだと思います。
2020年4月1日

No.24
踏切検問T

 4月6日から4月15日まで春の全国交通安全運動だった。  6日日の午後,用事を済ませていすみ市三門踏切にさしかかった。踏み切り手前で一台停止していたので後ろについた。そしてその車に続いて踏切を渡った。狭い踏切なので急いで渡りたかった。その時何か胸騒ぎがした。20メートほど走ってバックミラーで確認すると赤色灯が点滅したパトカーがついてくるではないか。何やら言っている。やられたと思った。踏切の一時停止取り締まりに引っかかったのだ。
やがて警察官が来た。
「踏切で一時停止しましたか」
「前の車に続いて渡りました」
「それじゃダメです」と警察官は私をにらみつけた。
「免許証を見せていただけますか」
「職業は会社員ですか」
「無職です」
ゴールド免許を見せると少し態度が変わった。
「3点減点です。ゴールド免許なので3か月無事故無違反であれば減点は消えますが,次の更新ではブルーになります」と言って警察官は書類を作りに車に戻った。
その間外でパトカーを眺めた。トヨタ・クラウンで袖ケ浦ナンバーの所轄警だった。車内では二人の警察官が何か話しながら書類を作っていた。そしてやがて出てきて言った。
「住所と電話番号を書いてください。ここに左手親指で捺印してください。反則金9000円を4月16日までに郵便局か銀行で収めてください。期間が短いので注意してください。」
「ゴールドでなくなってしまうのか。残念だなあ。」と気持ちが声になった。警察官は一度ちらりとこちらを見たきりまた書類に目をやった。
 この人たちはロボットと同じだ。違反を見つけ反則切符を切り反則金を請求する端末だ。私はただの違反者にしか映らないのだ。しかし,この人たちも家庭ではよいお父さんなのだろうと思いながら冷静に見ていた。手続きが終わり解放されたが,また嫌な気持ち後が残った。
 私の父も兄も警察官だった。だから警察には協力しようという気持ちが強かった。しかし,大人になってからの警察との関わりには碌な思い出がなかった。相次ぐ警察官の不祥事,自白強要による冤罪なども負のスパイラルとなっていつしか警察に対する信頼がなくなった。警察を信用しているととんでもないことになるとすら思うようになった。
 切符を切った警察官を恨む気持ちは毛頭ないが,春の全国交通安全運動の初日にロボットの餌食になってしまったのは残念だった。何の意味もないことをしてくれたと思った。
2020年4月8日

No.25
踏切検問U

 前作では踏切一時停止違反でパクられたことを書きました.今回はその後日談です。 取り締まりをするには隠れ見ている場所が必要です。それを確認しに行ってきました。すると踏み切り手前に民家の通路がありました。そこに隠れていれば通る車からは見えません。しかも踏切を渡る車がよく見えます。ここだと確信しました。写真も撮ってきました。ついでに近隣の踏切も調べてきました。
 千葉県いすみ市では一時停止違反の取り締まりをよくやっています。無事故無違反で15年もやってきましたが,いつどこでつまらないパクリに合うか分かりません。本当に無益だと感じました。最近は対向車も教えてくれなくなったので,今後は警察対策に力を入れなくてはと真剣に考えました。
2020年4月9日

No.26
新型コロナ緊急事態宣言

 安倍総理大臣が緊急事態宣言を発出しました。新型コロナ感染の首都圏での急激な拡大によるものです。
 ちまたでは,遅い手遅れだとか,強制力がないのだから意味がないとか批判が出ています。まあ,これはいつものことです。
 しかし,本当に手遅れでしょうか,無意味でしょうか。遅くはないでしょう。無意味ではないでしょう。強制力がないにもかかわらず多くの人たちは要請を守っています。改めて日本という国のすばらしさを感じます。メディアからは海外のリーダーはすごいとか,どの国のやり方が優れている,それに比べて日本はだめだとか,ネガティブ報道が流れています。自分の行動に自信を持てない日本人の特性なのでしょう。
 民主主義国家である日本は,たった一人の神がかり的なリーダーに頼ろうとするのではなく,政府も国民も一致団結して困難を乗り切るべきであると思うのです。
2020年4月10日

No.27
新型コロナ感染拡大

 新型コロナウィルスの感染が拡大中です。東京では毎日200人近くが感染しています。病院や施設での集団感染も発生しています。こうなってくると一層真剣に予防策をとらないといけないと思います。
 家は房総の田舎町で感染者はいないのですが,観光客がたくさん通過するのでいつ持ち込まれるかと心配です。一人一人が気を付ける意外に積極的な対策はありません。手洗いをし不要不急の外出を控えています。
2020年4月13日

No.28
安倍のマスク

 全国民に布マスクが二枚配布されます。買い占めのせいもあって使い捨てマスクが手に入らないのです。今日は路上でマスク一箱50枚入りが6000円で売られていたとの報道もありました。マスクはなかなか手に入りません。それで我が家では手製の布マスクを使っています。
 この頃,手製マスクをしている人を見かけるようになりました。東京都知事の小池さんのマスクもハート柄がかわいいと評判になりました。工夫次第で何とかなるものですね。
 ところで政府が配布するマスクですが「安倍のマスク」と揶揄されています。ネット上では,こんなものいらない,役に立たないという意見が見られます。
 しかし,本当にそうでしょうか,私はそうは思いません。世の中にはマスクを2枚買うのにもためらう人がいるのです。今日明日を生きるためにためらう人がいると思うのです。いらない人は必要としている人にあげればよいでしょう。
 マスク二枚の値段は安いものです。しかし,これが助けになる人がいるでしょう。私は安倍のマスクを十分に活用したいと思います。
2020年4月17日

No.29
ノストラダムス大予言T

 これは楽天ブログに載せたものを一部書き直したものです。
 1973年ころノストラダムスの大予言という本が出ました。これは3巻出版されました。大学生だった私は,この不思議な本を読みました。1999年の第7の月に恐怖の大王が降ってくると終末を予言したものでした。
 1999年には何事もなかったのですが,それからさらに20年がたちました。この本が出た当時からすれば,私は50年後の未来を見ていることになります。改めてこの本を読みなおしてみると50年後の世界の様子と比べることができました。このことかなと思うようなこともいくつかありました。
 大予言によればノストラダムスは人類の滅亡を予言しています。人類の滅亡はキリスト教の聖書「黙示録」にも書かれており妙に符合する部分があります。
 1999年第7の月というのは終わりの直前というほどの意味であろうと私は解釈します。終わりの直前には予言に書かれているような様々なことが起こりますよ,と言うほどのことでしょう。面白いことがあったらまた書きます。
2020年4月19日

No.30
ノストラダムス大予言U

 前回はノストラダムスの大予言により人類の滅亡が予言されていることについて書きました。
「1999の年,第7の月
空から恐怖の大王が降ってくるだろう
アンゴモルワの大王を復活させるために
その前後の期間,マルスは幸福の名のもとに支配するだろう」
 恐怖の大王とは何だろうか。いろいろ想像されました。隕石だとか,核ミサイルだとか。
 では,ノストラダムス自身はどう言っていたのかを「ノストラダムスの大予言U」の中から拾ってみました。
 恐怖の大王とはどういうものかと王妃に尋ねられたノストラダムスが答えています。
「分かりませぬ。姿は見えませぬ。しかし,誤解なさいませぬよう。幽霊とかいう意味ではありませぬ。姿そのものはあるのかもしれませぬ。しかし見えないのです。おそらくそれは非常に高い空の上におり,目にもとまらぬ速さで降ってくるのでしょう。そのためか,それだけはわたくしにも見えませんでした。」
 恐怖の大王が降った後のありさまを聞かれるとこう答えた。
「すべてが変わり果てておりました。信じられぬような未来の都や街々も,男とも女とも分からぬ人々も」
 戦いによって滅びたのか剣とか火とか騎兵隊とかと聞かれるとこう答えた。
「そのいずれでもありませぬ。しいて申せば,さよう,何でもないものでした,何でもないものが降るのです。それが恐怖の大王です。それによってすべては消え,失われ,元の形をとどめなくなるのです。」
 恐怖の大王の正体は何でもないものが降ることだと言っています。目には見えないとも言っています。ノストラダムスの大予言の出版から50年後の未来にいても何のことなのか分かりません。また面白いことを見つけたら書きます。
2020年4月22日

No.31
マイナンバーカードをオンライン申請

 マイナンバーカードを作るために市役所の窓口に並ぶ人が増えているそうです。 理由は,新型コロナ対策給付金を申請するにあたりマイナンバーカードがあるとオンラインで申請ができるうえに給付も速いからです。
 私は既にマイナンバーカードをもっています。2月の初めにオンラインでマイナンバーカードを申請しました。必要事項を記入し写真データを送りました。2月20日過ぎには市役所で受け取ることができました。予定日は2月末日でしたから予定よりも早く来ました。その時にはこのような利用機会が来るとは思ってもいませんでした。市役所から給付金申請の通知が来たらすぐにオンライン申請をしようと思います。この給付金で助かる人も多いと思います。
2020年4月24日

No.32
ノストラダムス大予言V

 これはブログに掲載したものです。
 前回は恐怖の大王の詩について書きました。恐怖の大王の詩はノストラダムスの大予言の中で最も衝撃的なものですが,ほかにも気になる文言があります。50年前には分からなかったことがあるかもしれません。
 著者の五島勉氏によると予言の中に「Chyren」シーレンという名が何度も登場するそうです。彼はこれを「字謎」アナグラムと考えてヘンリーCと解釈しました。「彼の声と賞讃が多くの空を超えて伝わる」
 五島氏によるとヘンリーCはヒトラー以上の最凶の独裁者にのし上がり,欧米あるいは西側の自由国家群のほとんどを新しい全体主義・軍国主義・ファシズムの地獄に叩き込んでしまうと言うのです。
 そうなるまでに「大きなドイツの首長」が必死に抵抗するが「たちまち流血のうちに敗れる」と言っています。
 五島氏はまた,ヘンリーCを組織と考えた場合には「新EC」とみることもでき,巨大な全体主義ヨーロッパを築き上げるのだろうとの解釈も示しています。
 ヘンリーCと新EU等,50年前にはなかったが今当てはまるものとしてはヘンリー・チャールズ(ヘンリー王子),EU,インターネット,衛星通信などがあります。
 終末間近になるとこのようなことが起こるということです。また何か見つけたら書きます。
2020年4月26日

No.33
サクランボの苗

 新型コロナの感染者が何人だった,死者が何人だったというニュースが流れ,世相も荒んでいるこの頃です。
 居間からは,昨年植えたサクランボの苗の葉が風にゆれているのが見えます。小さな子が笑っているようにも見えます。
「私はここにいるよ。元気だよ。」とでも言っているように。
 以前は,植物にそんな感情を感じることはありませんでした。植物にも感情があるのかな,それとも自分が年老いたのだろうか。
 それはともかく,木々の新緑は明るく,小鳥の声があちこちから聞こえてきて気持ちのよい初夏です。
2020年4月30日

No.34
ノストラダムス大予言W
「大きな東洋人」

 前回はノストラダムスの大予言に出てくるシーレンという男のことを書きました。これについて補足します。
「巨大なシーラン(シーレン)が世界の指導者になるだろう/とても愛された後,それ以上に恐れられ警戒される。/彼の声と讃辞は多くの空を超えて伝わる/大きな勝利者のタイトルによってしか,彼はけして満足しない」
 このほかにも興味深い箇所があるので拾いました。後藤氏の本の中では要約として書かれています。以下,そのまま書きます。
「大きな東洋人」
 「アンリ二世への手紙の中にある。週末の直前に,巨大な人口を持った大きな東洋人が,その周辺全部を従える。中東・ヨーロッパに進攻する。ヘルメスの国もその影響を免れない。―――これが中国を指していることは,ほとんど確実といっていいだろう」「日の国はメルキュールによってエクリプス(欠乏,失墜,日食)をかくす/第二の空にしか置かれない・・・」
 「メルキュールはローマ神話のマーキュリー,つまりギリシャ神話のヘルメスと同じこと。水星,商業,お金,コミュニケ―ション,情報をさす。」
 「大きな東洋人」として現在考えられるのは軍備を急速に拡大している国,「一帯一路構想」を打ち出した国,アフリカや南米を経済的に支配している国の人だと思います。この国は,周辺諸国(ベトナム,フィリピン,韓国,日本)を脅かしています。思いたる名前は「シー〇〇〇ン」〇はそれぞれジ・ン・ピです。あとは想像してください。
 ところで,今話題の新型コロナのことや三陸大津波のことはありません。地震については,アジアの果ての国に大地震が起こるというくらいの記述しかありません。予言において日本は重要視されていないようです。興味深いことを見つけたらまた書きます。
2020年5月3日

No.35
ノストラダムス大予言X
「恐怖の大王」

 仮説 恐怖の大王とは
今回はシーレンと恐怖の大王についての仮説を立てました。
 まず,シーレンはシージンピン(習近平:中国の指導者)であろうと思います。彼の一帯一路構想は世界に好意的に受け止められ多くの賛同国(者)を得ました。ノストラダムスはヒトラーと思われる人物をヒスターと書いたりもしています。
 問題は,「恐怖の大王が空から降ってくる」とは何かです。私は,現時点では世界中を恐怖に陥れている新型コロナウィルス感染拡大のことであろうと思います。この感染症は中国武漢のコウモリが原因であるといわれています。つまり空を飛ぶコウモリの糞から感染が広がったのではないかと思うのです。これが空から降ってくる恐怖の大王の正体だと思います。世界の都市は封鎖により様子が一変しました。ただし物理的な破壊はないのでこの点は一致しません。
 今回の新型コロナ問題は中国の責任だとして賠償を求める動きがアメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,イタリアなどから出ています。中国はこれに強く反発しています。これが大きな対立を生むかもしれません。
 恐怖の大王の詩は不気味で衝撃的であるために何かとんでもないものを想像しましたが,空を飛ぶコウモリが落とす糞だとすればノストラダムスが言うように実に何でもないものが降ることになります。
 ちょっと視点を変えて生物学的に考えてみました。しかし間違いだとすればまだ起こっていない何かでしょう。また何か見つけたら書きます。
2020年5月4日

No.36
自粛警察の恐怖

 自粛警察とは外出自粛要請・営業自粛に伴って現れた新語です。外出している人たちや営業を続ける店を怪(け)しからんといって非難(責める)行為です。警察に訴えたり非難の張り紙をしたりといった嫌がらせもあるようです。戦争中の相互監視社会のようで嫌なものです。
 新型コロナの感染防止から要請された活動自粛ですが,過剰に反応する人たちが出てきたようです。
 ある漁港では岸壁を封鎖して釣り人が入らないようにしたそうです。訴えがあったとも考えられます。
 妙なことですが,今度は自粛警察というメンタルウィルスが感染拡大しているようです。冷静に考えて行動することが大事だと思います。
2020年5月6日

No.37
学生への緊急支援

 早稲田大学が困窮する学生に対する緊急支援金に対する新たなるコメントを発表しました。 経済的に困窮している学生を対象に次の支援を実施する。
・一人10万円を支給する。
・オンライン授業受講のために500台のパソコンとWiFiを無償貸与する ・既存の奨学金等の支援
 大学は次のように言っています。 ・大隈重信が掲げた建学の精神「模範的国民の造就」には「早大生には自己利益だけを考えず,世界の人々のために貢献してもらいたい」という願いと「利他の精神を培う」という期待がある。
・一人も取り残さない。(SDGsの理念)
・学生が経済的理由で学業をあきらめて退学しないようにと願い,複数の経済的支援策を決定した。
・家計に急激な変化が生じていない学生には,大学が困窮した学生を救うために多くの支援策を打ち出すことを温かく見守っていただきたい。

 このコメントに感心しました。困窮する学生たちを退学の危機から救おうと緊急支援策を打ち出した大学を見たのは初めてだからです。
「あきらめるなよ。この手につかまれ」と手を差し出しているのです。
 このような動きは他の大学にも広がっています。学生たちがコロナ禍を乗り切れるようにと祈ります。
2020年5月8日

No.38
エビデンス

 あるテレビ番組でフェイクニュースについての討論がありました。その中で「エビデンスのないものは信じないようにすること」と言っていました。全くその通りだと思いました。
 ところで「エビデンスってどういう意味なの」と思った方もおられるでしょう。日本語では「証拠」という意味です。子どもからお年寄りまで多くの人たちが視聴するのですから,「証拠」とはっきり言ったほうが多くの方に分かりやすいと思います。
 この頃,英語がそのまま使われることが多くなったように思います。はて,どういう意味だったかなと思うこともしばしばです。日本語に訳されていないものは仕方ありませんが,できるだけ日本語で言ってくれたほうが分かりやすくてよいと思いました。
2020年5月9日

No.39
おうち時間の過ごし方

 新型コロナによる外出自粛で家にいる時間が多くなりました。
億劫で手を付けなかったことができました。
・ホームページ(ハスラー125)を作り直して訪問者が見やすくしました。
・オートバイのパンク修理とバッテリー充電をしました。
・朝顔の種を巻きました。プランターを6つ使い,6種類の種をまきました。
・妻はせっせとマスクを作りました。
・かぼちゃの苗を植えました。
 きっと誰もが工夫して過ごしたことと思います。人生でこんなことはもうないでしょうね。
2020年5月14日

No.40
岩田豊雄「海軍」感想

 岩田豊雄著「海軍」の記事を読んだ折に投稿したコメントです。
 「50年前18歳の時に読みました。鹿児島での少年時代のこと,与次郎が浜のこと,そして海軍兵学校時代の出来事や気持ちなどが谷真人を通していきいきと描かれており,親しみをもって新鮮な気持ちで読みました。千葉県人ですが,鹿児島に親しみを感じるのもこの小説の影響だと思います。谷真人は特殊潜航艇で真珠湾攻撃に参加し戦死しましたが,軍神としての盛大な葬列,膝に血をにじませてそれを見送る幼なじみの女性,そこに寂しさと同時に戦争に対する複雑な思いを抱きました。」
 受験勉強の合間に読みましたがとても印象に残っています。
2020年5月16日

No.41
「母とくらせば」感想

 2016年に映画「母とくらせば」見た時のコメントです。
 長崎の原爆で亡くなった大学生の息子が,死から3年後に母のもとに現れるという話でした。
 息子は生前と変わらぬ様子でよくしゃべる。母はそんな息子をおしゃべりだという。母は3年間の様々な思いを息子に語り,息子も自分の思いを語る。吉永小百合さんと二宮さんの演技がとてもよかったです。特に吉永さんでなければこの映画はできないだろうと思えるくらいでした。
 直接に戦争の悲惨さを表現してはいないが,亡霊でも息子の出現に対して喜ぶ母の姿や会話の中に十分に表現されていると思いました。
 南方で戦死した長男が,母の夢枕に立つシーンがありました。泥にまみれ傷だらけになり血を流しボロボロの服を着て現れたのです。母に挨拶をすると再び戦場の闇に消えていきました。山田洋二監督の特別な思いを感じました。
 この映画で最も印象に残ったシーンがあります。寝ている母に向かってもう来ることができないと告げて去ろうとした息子がふと振りかえって戻り,母に話しかけます。母は目を開けて「まだいたのかい」と答えます。息子は母に言います。お母さん,これから僕の世界に行くんだよ。これからはずっと一緒だよと。母は起き上がり息子と一緒に歩き始めます。背後には横たわる母の姿がありました。私はこのシーンがとても心に残りました。
 何度か長崎カトリック教会の讃美歌や礼拝の様子がありました。悲しい物語の中で気持ちが安らぎました。根底には,キリスト教の精神(信仰)が流れています。戦争の悲惨さを人々の気持ちで描いている映画だと思います。そして悲しさに対して神の救いによる喜びの対比をもって。
 私は長崎を訪れたことがありません。歴史の中でたくさんの人たちが亡くなったこの地に足を踏み入れるのが怖かったのです。しかし,いつかいってみようと思いました。亡くなられた多くの方々のご冥福を祈りつつ。
2020年5月16日

No.42
「永遠のゼロ」感想

 2014年に見た映画でブログに掲載したコメントです。
 「永遠のゼロ」を見ました。ゼロ戦パイロットであった伯父の過去を調べた青年の葛藤を描いています。
 この映画の見どころは、戦闘機、空中戦、航空母艦、戦艦、その他の映像が精密に再現されていることです。CG技術が優れていることは、もちろんですが、地上での機体や操縦席付近の製作物も精密に再現されていて本物のようです。
 もう一つ特筆すべきことは、ゼロ戦のエンジン音です。レシプロエンジンの音がよく再現されています。近づいてくる音,遠ざかる音,旋回中の音等,このエンジン音が、空中戦の様子をとてもリアルにしています。ムスタングP-51の機銃発射と同時に翼下にばらばらと排出される薬莢や薬莢どうしがぶつかる音まで再現されています。これらの映像が、物語を現実味のある引き締まったものにしています。
 物語は、決して戦争を美化するものではありません。また、戦争映画ではありません。
 最後でこんな場面がありました。歩道橋を歩く青年に向かって一機のゼロ戦が飛来しました。風防の開いた操縦席からパイロットが手を振りながら飛びさりました。青年は大声をあげて泣きました。この映画で一番感動した場面です。興味ある方は映画をご覧ください。
 追記  映画から再認識したことですが、日本は、自力で欧米と戦った経験があるアジアで唯一の国です。今となれば非常に貴重(重要)な経験です。歴史に善悪はありません。あるのは事実のみです。それを未来にどう生かすかが大切だと思います。
2020年5月17日

No.43
コロナ自粛とHP訪問者数の関係は

   ホームページの訪問者数が減ったことについてコロナ自粛との関連を考えてみました。というのも4月に入ってから訪問者が極端に少なくなりました。何日もゼロということが多くなりました。なぜだろうと悩みました。そこで仮説を立てて考えてみました。

仮説1 ネットカフェの自粛により閲覧者がいなくなった。
仮説2 内容が面白くなくて飽きられた。

仮説1について
 自粛が解除されネットカフェが使われるようになれば訪問者が増えるだろう。
仮説2について
 魅力ある内容を考える。

仮説1については待つしかありません。どうなるか注目しています。
仮説2については,仮説1が外れた場合に有力です。

 どちらにしても内容の工夫は必要ですから,いまも更新は続けています。
 ホームページの閲覧者数にも新型コロナの影響があるのかもしれません。感染者数がかなり減ってきました。早く平常な日常生活に戻るとよいと思います。
2020年5月18日

No.44
伊藤の大山に墜落したB29

 標高245.8mの伊藤の大山は夷隅郡大多喜町の外れに位置するこの辺りでは一番高い山です。第二次世界大戦中には東京を爆撃したB29が墜落しています。今では山の尾根沿いに舗装された道が通っています。昔は未舗装の細い山道だったと思います。
 新型コロナの影響で外出自粛が続くさなかですが,好天に誘われて伊藤の大山にやって来ました。頂上付近までは車で行けます。途中にはすれ違うことのできない細い道があるのでひやひやしました。頂上付近の道路わきに車を止め,一安心です。
 早速道沿いを散策しました。木々の葉の緑が濃くなって初夏の様相です。細かな毛が密生した茶色い若葉が目に映りました。触ってみるとビロードのような感触でした。
 西側に向かって開けた場所からは横浜のビル群が見えるのですが,この日は灰色に霞んでいて見えませんでした。
 道端に目をやりながら歩くと見たことのない草が目に留まりました。幅広い楕円形で先が細くなっている葉が十字型についていてその根元から伸びた二本の触角のような穂には白い粒のような花が並んでいました。フタリシヅカだと思いました。図鑑で見た覚えがありました。早速写真を撮りました。
 木陰から電波塔の先端が見えました。山頂には千葉テレビの電波塔があります。一番高い場所なのですが周囲が木立に囲まれていて見通しが悪いのです。
 中学生の時の全校徒歩遠足できた時には山頂には何もなくて周辺の町や遠くの太平洋まで見渡すことができたので残念です。
 40分ほど散策して下山しました。山道の途中にカフェの看板を見つけました。どんなカフェだろうと想像が膨らみました。次は家族とここに入ってみたいと思いました。
 家にこもりがちだった日々,深山の空気を吸い,静けさに浸りました。すがすがしい気分になって家に戻りました。
2020年5月19日

No.45
DCブースターの実験

 おうち時間を活用してバイクのスピードメーターを交換することにしました。購入したスピードメーターは12v仕様です。私のバイクは6v仕様なので12v仕様のスピードメーターではバックライトが点灯しません。これでは夜に不便です。
 そこでDCブースターを使って6v仕様の私のバイクで12v仕様スピードメーターを使えるようにする実験をしてみました。
 DCブースターとは低い電圧を高くできる装置です。例えば6vを12vに上げることができます。
 まず6vを12vにできるか試してみました。乾電池で6v電源を作って入力すると本当に12vになりました。。スピードメーターにつないでみるとバックライトが明るく点灯しました。メーターに一緒についているLEDインジケーターは6vでも点灯しました。
 実験は大成功だったのでDCブースターをバイクに取り付けることにしました。
 このDCブースターユニットは5vを40vくらいまで可変で昇圧できるので,いろいろな便利な使い方ができそうです。
 今までやりたいと思いながらも手を付けられずにいたことができました。
2020年5月30日

No.46
自分でやれば安上がり

 充電式ドリルドライバーを使おうとしたところ動きません。調べたところ内部の充電池がだめになっていました。機種が古く充電池はすでに発売中止でした。そこで自分で直すことにしました。
 ネットに同機種の修理記事があったので代わりに使える充電池の種類が分かりました。早速4個1000円で購入しました。
 まず内部を写真に撮っておきます。次に写真を見ながら間違えないように電池をつなぎます。この時,電極を紙やすりで磨いておくとハンダ付けが簡単にできます。磨いておかないとハンダが乗りません。
 ようやく配線が終わり,ケースに収めました。スイッチを入れるとグイーンとモーターが回りました。成功です。これでまた使えます。一時は捨てようかとも思ったのですが,使いやすかったしもったいなかったので自分で修理することにしました。自分でやれば安上がりです。 データは次のとおりです。
機種:ナショナル EZT140 充電式ドリルドライバー 
充電池:SCサイズ NiCd(ニッカド) KR2000SC
購入元:秋月電子通商 通販センター
2020年5月31日

No.47
学校再開で夏服の生徒たち

 朝,表がにぎやかなので何だろうとのぞいてみると中学生たちの登校でした。学校登校が再開したのです。
 衣替えをしたワイシャツ姿で長い休みの後にもかかわらず皆にこにこと話しながら歩いています。中学生の登校を見るのは久しぶりです。ひっそりとしていた町がにぎやかになりました。
 いつもなら4月にだぶだぶの制服を着て登校する新入生も夏服です。
 11時半ごろになると再び話し声が聞こえてきました。今度は下校の集団が来ました。まだ給食が始まっていません。給食は6月4日(木)に再開です。部活動も当分はないでしょう。
 何十年も当たり前のように続いてきた教育ですが,コロナ禍が教育を見直すきっかけになったように思います。
2020年6月1日

No.48
ビワの実を食べて草刈り休憩

 畑にビワの木がある。植えてから20年になるだろうか。今年は豊作で黄色い実がたわわにつけている。何日もかけて草刈りしているうちにだんだん実が熟して来た。
 梅雨入りが近いので草刈りを急いでいる。しかし日差しが強くて暑い。1時間ほどやっては休む。目を上げるとビワの木が目に入った。黄色いビワの実が食べてくれと言っているようだった。良さそうなのを一つもいだ。皮をむいて黄色い実をかじると果汁がぽたぽた滴った。ビワの香りと甘酸っぱい味が口中に広がった。おいしかった。何個か食べるうちに喉の渇きがおさまった。
 草刈りの合間にビワの実を食べて一休みした素敵な時間だった。土曜日には実をもぎに来よう。たくさん実をつけたから採りに来ておくれよとでも言うように枝が風にゆれた。
2020年6月3日

No.49
梅干し・梅酒つくり

 梅干しを作り始めてから8年ほどになります。作り方は同じですが,今年も作るぞという気持ちで取りかかります。
 まず梅の実集めから始まります。知り合いのお寺からもらった梅と畑にある梅の木から採った梅を使います。今年の梅の量は約6kgです。
 実を水洗いしてからヘタをくしで取ります。次に焼酎で洗って殺菌します。これを実の重さの13%の量の食塩にまぶしてビニール袋に入れます。それを樽に入れ10kgの重しをのせて保存します。こうして梅雨の開ける7月まで待ちます。毎日梅の様子を見ては楽しみに待ちます。
 梅干しのほかに梅酒も作ります。材料は梅の実,氷砂糖,焼酎です。梅酒になるまでにおよそ1年かかります。液が琥珀色になると出来上がりです。時間がかかりますがおいしい梅酒になります
2020年6月7日

No.50
旧車ハスラー125(1)

 ハスラー125は1970年代の125cc?のオフロードバイクです。発売から50年たち,今はもう見かけることはありません。
 19歳の時からバイクに乗り続けてきました。ずっと4ストロークに乗ってきましたが最後に2ストロークに乗ってみたいと思いました。
 いろいろ物色した結果,1970年代のバイク,ハスラー125のレストア車を石川県で見つけ早速購入しました。運送代に5万円かかりました。
 到着した車は新品のようにピカピカでした。ねじ1本に至るまで新しいものに交換されていました。特にフロントフォークはステンレスパイプで作り直されていてさび一つありません。電装関係も正常でした。
 しかし,外見はピカピカでも中身は古いままです。点火時期やキャブの調整が必要になりました。2ストロークは初めてであったし,新車の状態も知らないので一つ一つが手探りになりました。
 本日はここまでにします。
2020年6月9日

No.51
旧車ハスラー125(2)

 まず悩まされたのが始動性の悪さでした。これまで乗ってきた4ストはみな1〜2回のキックでかかったものです。しかしこのハスラーはどういうわけか20回くらいキックすることがありました。?それから何年も始動性の改善に取り組むことになりました。
 原因の1つ目は2ストの始動方法を知らなかったことです。勝手に2ストはかかりやすいと思い込んでいたのでチョークを使わなかったことです。しかし実際にはチョークを使ってもかかりませんでした。?よけいにかかりにくくなるようでした。
 原因の2つ目は点火時期がかなり遅れていたことです。これはタイミングライトを作ってから分かったことです。タイミングライトを使って何度も試行錯誤して分かりました。今ならこの点火時期では無理だとわかります。びっくりするほど遅れていました。
 原因の3つ目は点火時期の位置を間違えていたことです。昔中学校の技術科の教科書に圧縮上死点で点火するという図があったのを覚えていてその通りにしました。これでもエンジンはかかるしアイドリングもします。しかし,パワーが出ません。それでもこの状態で乗っていました。新車の状態を知らないのですから,こんなものかと思っていました。しかし,もう一つ決定的な原因がありました。
 今日はここまでにします。
2020年6月10日

No.52
旧車ハスラー125(3)

 前回は点火時期調整の話でした。
 点火時期の調整はフライホイールの隙間からドライバーを差し込んで身をかがめて行わなければならないので大変骨が折れます。ポイントの隙間を大きくすると点火が早くなり,小さくすると遅くなります。何度もやり直しをしていた時,キックすると勢いよくエンジンがかかり,アイドリングが1000回転も上がりました。これはエンジンの調子がよい証拠です。タイミングライトで見るといつもよりずっと早い地点で点火していました。ここに印をつけました。?試走すると力強く吹け上がり高速がぐんぐんのびました。生き返ったような感じです。
 第4の原因は点火時期が適正でなかったことでした。エンジンが高速で回転するにつれ点火時期を早めなければ点火が追い付かなくなるので点火時期を早目に設定する必要があったのです。これを自動で行うものもあるのですがハスラーは固定式です。今は圧縮上死点から9度はやめています。
 仕組みが簡単な2ストロークエンジンはきっちり調整しないと本来の性能が発揮できないことがわかりました。
 このほかにも修理・改良をしましたが,今日はここまでにします。
2020年6月11日

No.53
安倍のマスクが届いた

 数日前にに安倍のマスクが届きました。ついに来たかと思いました。
 マスクは普通の布マスクです。2枚入っています。暑い季節のなってきたことと使い捨てマスクが足りていることもあり,これはしまっておこうと思います。
 ところでニュースではマスクのサイズが小さいと耳にします。私はずっと以前から布マスクを使用してきた経験から言うと決して小さいことはなくこれが標準です。使い捨てマスクは広がるので顔半分を覆いますが,布マスクではそういうものはありません。また,布マスクは洗うと少し縮みます。そしてだんだん古びてきます。しかし,布マスクには肌触りがよく温かいという良さがあります。
 こんなマスクに大金をかけて無駄遣いだという批判があります。しかし,あながちそうでもないように思います。マスクがなくてみんなが苦労していた時,マスクをみんなに配ろうじゃないかと考えたことは間違いではないと思うのです。このマスクを生かすも殺すも人次第です。次の機会まで大切にとっておこうと思います。
2020年6月13日

No.54
尖閣を狙う中国

 ネットの記事に尖閣を奪取する中国のシナリオというのがあったのでコメントしてみました。以下。
 「恐らくトランプは落選してアメリカはしばらくごたごたするだろう。新政権は中国に遠慮するだろうとの読みがあるに違いないと思う。ところで尖閣では最近中国が我が物顔にふるまって日本の漁船を追い回したりしている。こういった挑発は日本の武力行動を引き出して局地戦をはじめようとしているように思える。これは中国のシナリオの第一歩だな。すでに始まっているとみるがね。」
 中国軍(敢えて軍と言います)の尖閣での行動は以前とは違ってきました。あからさまに尖閣は中国の領海だとふるまって日本の漁船を追いかけまわしています。ここで日本に武力攻撃をさせ,局地戦におびき出そうという作戦であるように思えます。そして一気に尖閣を占領する計画のように思います。一旦占領すれば中国軍は武力を背景にして絶対に動かないでしょう。そしてそのまま中国の領土になります。
 日本は尖閣での中国の動きを世界に発信して中国の動きを牽制することが賢明であると思います。
2020年6月17日

No.55
緒方惟精先生の思い出

 もう50年ほど前のことになる。千葉駅から東千葉駅方向に向かうと大きな陸橋の交差点がある。そこを超えてさらに200mほど歩くと左側の野原の中にぽつんと千葉予備校があった。千葉駅から歩いて15分くらいの距離であった。小さな予備校であったがちゃんと学食まであった。
 当時,周囲に建物はなくて広い野原だった。途中の小川には温水が流れ込むところがあり熱帯魚のグッピーが繁殖したりしていた。今は大きなビルが立ち並び同時の面影は全くない。
 緒方先生は千葉大から出張してくる国語の講師だった。中肉中背の紳士だった。雨の日には長靴でやってきた。いつも落ち着いた口調で分かりやすい講義をしてくれた。時々受験以外に興味深い話をしてくれた。いくつか紹介したい。
 先生は新潟の出身で先祖は武士だったそうだ。夜の来客の際,父親は戸にへばりつくようにして戸を開けたそうだ。不意に襲われないためであった。
 千葉大学の正門付近で大学紹介の冊子を配っていたときのこと,通りかかった夫人に「うちの子は東大に行かせます」と言われて悔しかったそうだ。
 卒業生から仕事上の悩みを相談されることもあった。上司にきつくあたられて辛いとの悩みには「いやだと思う上司もそのうちいなくなってしまうよ」と答えたそうだ。
 授業以外のことでも世の中のことについて面白い話を聞かせてもらった。そんなこともありとても印象に残っている。因みに先生はクリスチャンであった。
 私の母は千葉大の教育学部の前身である高等師範学校の卒業生だった。そこで緒方先生に教わった。まだ若くて色白の緒方先生は白ナマズと言われていたと懐かしそうに母は話した。
 あれから長い年月を経た。緒方先生のことが気になりネットで検索してみた。すると同僚の方が緒方先生の思い出を綴った文章が見つかった。それによると千葉大を退官されたのち病により入院,1983年に77歳で亡くなられたとのことだ。
 亡くなられて久しいが先生は今も心の中に生きておられる。出会いとは不思議なものだとつくづく思う。
2020年6月19日

No.56
中古のパソコン購入

 オークションでFUJITSU i3―3240 という第三世代の旧式パソコンを落札しました。落札額は3000円でした。当時は高いものでしたが,今では中古でこの値段です。
 ネットの閲覧,ホームページ,ブログ作りなどには問題なく使えます。前に使っていたHP110−430jpより使いやすいです。何がよいかというと,体感的には3倍くらい速い,YouTubeの画質と音質が良くなった、アプリの動きがよくなったことなどです。
 経年劣化を考えれば2〜3年使えればよいと思っています。しばらく元のまま使ってみて,そのうちにメモリーの増設、SSDへの換装をしてみたいと思っています。メモリーもSSDも持っているものを使います。
 古いパソコンがいまだに使えます。日本製のパソコンの品質の高さがわかりました。
 Outlookやブラウザのデータはインポート・エクスポートの機能を使って移しました。以前と同じ環境で使えるので安心です。
 安物買いの銭失いではないかと気になりますが、今はこれで足りているので納得しています。いろいろ工夫して使ってみるのも面白いです。
2020年6月25日

No.57
データ復元ソフトを試してみた

 パソコンを使っていて大事なデータを削除してしまうことがあります。そんな時に役立つのがデータ復元ソフトです。ネットで検索すると無料のものから有料の製品まで様々です。無料のものは試してみるにはいいのですが制約が大きいので結局は有料版が必要になります。
 今回有料版の一番安いやつを使用しました。使用したのは「復元 データリカバリー2」というソフトです。特に必要だったわけではないのでどんなものか試してみたくなったのです。コメントの評価はインストールできなかったとか低かったのですが,実際にはインストールは無事できました。検索が速く使いやすいです。
 削除されたファイル名がさほど待たずに表示されます。こういった点,お金を払ったソフトは速くて確実です。ただし,名前が表示されても壊れていて復元できないものがあります。削除して間もないものなら間違いなく復元できますが,何年もたったような古いものは駄目ですね。
 復元できるものとできないものが一目でわかるようになっていると便利だと思いました。いちいち確かめるのが面倒です。
 ともあれ3000円にしては良いものだと思います。
 小規模な復元にはよいと思います。使い慣れておけば万が一の時に助かると思います。
2020年7月1日

No.58
ノストラダムス大予言Y

 この予言で最も注目されるのは「恐怖の大王が降る」という部分です。ノストラダムスは恐怖の大王は空の高いところにあり高速で降ってくる,小さくて見えない,降った後は世の中がすっかり変わってしまう,戦争や火災などによるのではないと言っています。
 当初,私はウィルスを含んだコウモリの糞が降ったのではないかと考えました。しかし,高速で空の高いところから降ってくる,目に見えない,世の中をすっかり変えてしまうという点で今一つ納得できませんでした。
 しかし,新型コロナウィルスが世界中に広まったのはなぜでしょうか。航空機です。航空機によって世界中に高速で拡散されたのです。そう考えれば空高いところから目に見えないものが高速で降ってくるということに対する説明がつきます。さらに世の中の様子がすっかり変わってしまったともいわれています。
 このようなことから「恐怖の大王が降る」とは新型コロナの世界的な感染拡大のことだと思いました。
 ところでノストラダムスは「恐怖の大王」が1999年の第7の月に降るといいました。これは現在の太陽暦ではなく,キリスト教的には一時代の区切りを表すのだという説があるようです。そうすると2020年が第7の月であるから2026年が2000年目で一区切りになります。このあたりで何か大きなことが起こるのでしょうか。
2020年7月5日

No.59
給付金10万円を有効に活用

 コロナ対策の給付金として国から一人10万円が給付されました。
 どのように使おうかと考えたあげく,私は次のように使いました。
1 メガネを作った。
2 中古パソコンとデータ復旧ソフトを購入した。
3 残りは8月に行う外科手術の費用にあてます。
 新型コロナの影響で収入が途絶えていたので助かりました。当初,少し残そうかと思ったのですが,10万円は全部使うことにしました。国からいただいたものは国に返します。
2020年7月7日

No.60
雨の中の猫

 ある雨の日,家の自転車置き場の台の上で猫が丸くなって寝ていました。作業していた私は目を上げると大きな猫にびっくりしました。「なんだ,そんなところで何してるんだ」と声をかけると猫はかすかに口を開いて「ニー」といったように見えました。黒猫で顎から腹にかけてと足先が白い猫です。背骨が山脈のようにゴツゴツと目立つのと毛につやがなくボサボサなので野良だと思いました。
 以前にも何度か来たことのある猫であり,邪険にしたこともないので安心しているようでした。ガタゴト作業をしていてもじっと寝ていました。
 気になって作業後も家の中から様子を確かめました。猫は30分ほど寝ていましたが,やがていなくなりました。野良猫には野良猫の生き方があるだろうと餌をやったりはしませんでした。
 それから今日までその猫を見かけません。軒下を貸しただけなのに,どうしたのだろうか,生きているだろうかと気になります。
2020年7月9日

No.61
青大将の主に遭遇

 昔,学校のウサギ小屋で穴の中の子ウサギがいつの間にかいなくなってしまうという怪現象がありました。皆不思議に思っていました。
ある朝,隣の鶏小屋でニワトリが死んでいました。噛まれたような傷跡はありませんでした。しかし,地面には何かが激しくのたくったような跡がありました。
 ふと天井の梁を見上げると大きな青大将がこちらを見下ろしていました。黒い二つの目が不気味でぞっとしました。棒でつつくとぼたんと落ちてきました。頭をもたげて飛び掛かってきそうな勢いです。
ヒヤヒヤしながら何とか外に追い出すと長さが1.5mほどもある太い青大将でした。こんなのは見たことがなく,すごい迫力でした。
 これにかみつかれたら大けがです。何とか棒に絡めて尻尾をつかんで近くの藪に放り込み「もう来るなよ」と声を掛けました。
 動物の飼育小屋にはネズミを狙って青大将が来ることがあります。蛇に限らず動物の侵入を防ぐ工夫が必要です。
2020年7月10日

No.62
ガガイモの落下傘が降りてきた

 数年前,1月のよく晴れた日,犬と散歩していると何かが空から音もなく舞い降りて来ました。それはふわりと膨らんだ大きな綿毛のようでした。その様子がとても優雅だったので何だろうと拾ってみると白い毛が丸くふわふわしていて根元に茶色の小さな種子がついていました。うれしくなって,壊さないように大事に持ち帰りました。調べてみるとガガイモの種子のようでした。ガガイモは実が割れると綿帽子のような種子を風に乗せて飛ばします。
 どこかにガガイモがあるはずだとあちこち探しまわりましたが,どこにも見当たりませんでした。
 今年の5月になって市役所に行った折,花壇の植木に絡まっている草を見ました。細長いハート型の葉を見てガガイモじゃないかなと思いました。家で調べるとやはりガガイモでした。以前,種子が下りてきたのもこの近くでした。やっと見つけました。
 それからというもの花はまだかなと何度も足を運びました。しかし,ガガイモは暢気なものでなかなか開花してくれません。
 でも実が割れて種子が飛ぶのは寒い冬になってからでしょうから,まだ先のことです。ふわふわとしたガガイモの綿帽子をもう一度見たいのです。それまでずっと見ていようと思います。
2020年7月14日

No.63
ドウガネブイブイとの攻防

 夏になると庭の樹木がドウガネブイブイに襲われます。ドウガネブイブイはコガネムシより一回り大きく,カナブンよりも一回り小さい甲虫です。緑,青,銅色をしていてピカピカとつやがありきれいです。しかし,裏側は新しい十円玉の色をしています。樹木の葉を食害する厄介者です。
 夜になるとブーンと飛んできます。ブドウの被害が大きく,葉をガリガリにされてしまします。殺虫剤をかけたり手で捕ったりしていたのですがきりがありません。
 そこで今年はホームセンターでナイロン製のネットを購入してブドウの木を覆いました。網目のサイズが少し大きかったので二重にして使いました。
 効果は上々でブドウにつくブイブイがいなくなりました。その代わり周辺の梅,ツツジ,アジサイの葉を食べています。
 ドウガネブイブイはある時期を過ぎると来なくなります。そうなったらネットを外します。今年の攻防はネットで勝利です。
2020年7月15日

No.64
母の猫(1)

 今は亡き母の思い出です。母はチコちゃんという猫を飼っていました。父が亡くなって以来,一人暮らしだったのでたいそうかわいがって仲良く暮らしていました。
 チコちゃんは野良猫の子でした。ある時,壁の内側から子猫の鳴き声が聞こえてきました。何日も続き,声はだんだん弱くなりました。壁に穴をあけるとよろよろと小さなサビ猫が出てきました。
 母はその猫を飼うことにしてチコと名付けました。父が亡くなったばかりなので母も寂しかったのでしょう。父の生まれ変わりだといって可愛がりました。小さなチコはよろよろしながら母のあとをついてまわりました。
 そんなチコも成長して立派な猫になりました。母が「チコちゃん」と呼ぶと母のもとにとんでくるようになりました。
 チコは雌なので母は心配して不妊手術を受けさせました。腰のあたりに包帯を巻いたチコは痛そうに座っていました。でも,やがて痛みも取れて元気になりました。小学生の息子や娘も時々チコちゃんと遊びました。
 しかし,母と智子ちゃんの別れは突然やってきました。母が脳梗塞で倒れて入院してしまったのです。
2020年7月18日

No.65
母の猫(2)

 母の入院が済むとチコちゃんのことが心配になりました。しばらく我が家で面倒を見ようということになりました。チコちゃんは母の布団の上ですやすやと寝ていました。「さあ,家へ行くよ」と言って抱き上げてかごに入れようとするとチコちゃんは嫌がってもがきました。可哀そうにチコちゃんには何もわかりません。かごの中で不安そうにじっとしていました。
 家に着くと不安なのかあちこちうろうろしました。無理もありません。急に知らないところに連れてこられたのですから。しかし,一緒に遊んだ息子と娘がいるので少しは安心できたのではないでしょうか。
 何日かするとチコちゃんも少しずつ慣れてきました。子どもたちのそばにいるようになりました。
 ある時息子がテレビゲームで遊んでいると隣にチコちゃんがちょこんと座って一緒にゲームを見ていました。並んだ二つの背中が可愛いらしく見えました。
 落ち着いてきたかに見えたチコちゃんですが,夜になるとニャーオ,ニャーオと鳴きながら家中を歩き回ることがありました。母を探していたのでしょうか。
 このころ母は意識が戻り少し話せるようになっていました。もう少ししたら退院できると期待しました。 つづく
2020年7月18日

No.66
母の猫(3)

 そんな折,家族が玄関のドアを開けたときにチコちゃんがすっと外に出てしまいました。そして一目散に走って草むらに消えました。よほど外に出たったのでしょう。周りは草が生い茂り段差の多い所でした。素早いチコちゃんを追いかけることができませんでした。何日も探し回りましたが見つかりませんでした。
 もしかしたら猫好きのAさんなら何か知っているかもしれないとひらめきました。電話するとそれらしい猫が来ているとのことでした。Aさんは何匹も猫を飼っている猫好きです。猫は今ご飯を食べているとのことでした。早速,Aさん宅に向かいました。
 玄関の戸を開けると猫たちがあちこちから顔を出して怪訝そうにこちらを見ています。チコちゃんは友達が多いこの家が気に入ったのかもしれません。チコちゃんを引き取って抱いて帰りました。しかし,Aさんの家で大事にしてもらったほうが良かったと後悔することになるとは,この時は思いもしませんでした。
2020年7月19日

No.67
母の猫(4)

 チコちゃんにとっても家族にとってもしばらく平和な日が過ぎました。チコちゃんがそばにいると,つい撫でたり抱いたりしてしまいます。猫のふわふわした手触りが心地よいのです。小学校4年生の息子がチコちゃんを初めて抱いたとき「温かい」といいました。チコちゃんの体温を直接感じて思わず出た言葉でした。ある日息子がテレビの前に座ってゲームをしていました。チコちゃんが隣にちょこん座って一緒にゲームを見ているのでした。それは素敵な光景でした。
 チコちゃんはだんだん家族になじんできました。これなら母が退院するまでは大丈夫だと思いました。みんな安心していたと思います。しかし,そんなとき,また予想もしなかったことが起こりました。
 妻が玄関のドアを開けたとき,いつの間にか後ろにいたチコちゃんがさっと外に出てしまいました。チコちゃんは不思議な振る舞いをしました。
 チコちゃんは一旦ドアに向かって座りドアを見上げました。それから意を決したように一目散に走り,ぴょんと高い段差を飛び越えて草むらに消えました。
 一瞬のことでした。またAさんの家に行くだろうと思ったので慌てませんでした。しかし,今度はAさんの家にはいきませんでした。何日か探しましたが見つかりません。このあたりにはいないのではないかと思いました
2020年7月20日

No.68
母の猫(5)

 チコちゃんがいなくなってから数日した勤めから帰った夕方,今日猫の声がしたと妻が言いました。チコちゃんが帰ってきたと思って外に出て家の周り中を探したけれどいなかったとのことでした。気のせいかと思うほど小さな声だったようです。
 それから数日後,今度は二人がニャーという声を聴きました。かすかな声でした。また家の周りを見て回りましたがいませんでした。帰ってきたのならどうして姿を見せてくれないのだろうと不思議に思いました。
 それ以後,声がすることはありませんでした。チコちゃんが我が家にいたのは一ヶ月ほどでした。
 このころから母の病状が悪化しました。そして入院から二か月目に天に召されました。
 あれから15年が経ちました。母とチコちゃんはきっと一緒にいるだろうと思います。母が呼ぶ声が聞こえます。「チコちゃん」
2020年7月21日

No.69
コバエをモウセンゴケで退治

 テーブルでコバエがチョロチョロして気になりました。捕まえようとするとササっと逃げてしまいます。暑くなるとコバエには悩まされます。
 何か良い方法はないかと考えたすえ,生き物は生き物で制すのが良いと思いつきました。
 さっそくホームセンターに行って食虫植物「モウセンゴケ」を買ってきました。モウセンゴケは細長い葉にはべとべとした球状の粘液がついた毛がたくさんあります。これで小さなハエなどをくっつけて捕らえる湿地の草です。
 テーブルに置くと透明の粘液の球がキラキラときれいです。時々外に出して日に当てます。コバエを嫌がっていた息子が「コバエが来ないかな」と毎日ながめては,こまめに世話をしています。
 さて,コバエはどうなったかというと,いなくなりました。モウセンゴケに目を凝らすと小さなハエがついていました。
2020年7月26日

No.70
コロナ後の社会の変化

 コロナ後の社会は大きく変わったとわれます。商業,医療,教育等あらゆる分野に影響が及んでいます。
 コロナの第一波が去り,自粛が解除されて経済活動が再開されました。しかし感染者が再び増加に転じ第二波が襲ってきました。
 コロナの蔓延を防ぐには経済活動を再度自粛するのが望ましいのでしょう。しかし,経済活動を止めれば社会が持ちたないでしょう。
 経済活動を継続しつつコロナに対応するしかなく,おぞましいことですが屍を乗り越えて前に進むほかないのだと思いました。
 新型コロナは数ヶ月でおさまり,すぐに元の生活の戻れると思っていました。しかしコロナと共存しなければならなくなり長い夜が続きそうです。
 ワクチンと有効な治療薬が早く開発されることを願っています。
2020年7月27日

No.71
股関節手術を終えて

 股関節の手術を終えて22日に退院しました。これで私の右股関節は完全に人工物に代わりました。
 麻酔を吸うとあっという間に意識を失い,意識が戻った時には終わっていました。「お父さん終わったよ」との呼びかけが聞こえました。鈍い痛みを感じたものの股関節の違和感はありませんでした。しばらくは術後譫妄で「遠い所に行ってきた」とか「違う世界に言って生きた」とか言っていました。
 痛み止めの点滴により痛みはほとんど感じなかったものの,太ももがパンパンに張れておりハムのようでした。動かそうとすると猛烈な痛みがあり動きませんでした。その腫れも3から4日するとひき始め,退院するころのはすっかりおさまり,足を動かせるようになりました。
 私は術前一月前からリハビリを始めました。足の筋肉をつけておくためです。そのほうが術後の回復が良いのだそうです。
 術後のリハビリは足を動かすことから始め,最後は杖をついて歩くことができる,つえをついて階段を上り下りできるようになれば退院です。すべての条件を満たして退院しました。しかし退院後もしばらくはリハビリに通います。
 かなり痛い思いや辛い思いをしましたが家に帰ってきてほっとしました。健康保険限度額適用認定証(70歳未満はこれがあると窓口での支払いが少なくなる)を市役所でもらっておいたので退院時に病院に払った費用は12万円ほどです。コロナ給付金10万円と県民共済の保険金も活用するので実質はゼロになります。
 院長からはゴルフや富士登山のできますよと言われてうれしくなりました。  手術を受けた病院は千葉県勝浦市の「勝浦整形外科クリニック」です。ひざの手術や股関節手術で評判の良い病院です。 ひざや股関節の手術を考えている人の参考になれば幸いです。
2020年8月26日

No.72
股関節手術で思うこと

 手術後3週間経ちました。今は家にいてリハビリをしています。
 私の受けた手術は,人工股関節全置換術といい,股関節をすっかり金属の関節に取り換えてしまうというものです。手術の仕組みは理解していたものの,術後の大変さについてはわかっていませんでした。手術とは大けがをしたのと同じことです。大変な痛みを伴います。腫れあがって動かない足,動かそうとすると強烈な痛み,何をするにも不自由でした。導尿の管を外してからはトイレに行くのが大変でした。もたもたしていると漏れてしまうのです。
 当初,二日もすれば杖を突いて歩けるだろうくらいに考えていましたが,とんでもないことでした。実際には何か月もリハビリをしなければうまく歩けるようにならないのでした。家の中では杖なしで歩くこともありますが,外に出るときには杖を使います。外は地面が凸凹しているので杖の助けが必要です。
 まだ股関節周辺の筋肉の痛みがありますが,だんだん少なくなってきました。それにつれて股関節の可動域が広がってきました。3か月後にはかなり良くなっているのではないかと思います。よい正月が迎えられるようにと頑張っています。
2020年8月30日

No.73
安倍首相の辞任に思う

 安倍首相が持病悪化を理由に辞意を表明しました。長年にわたり日本の政治に尽力されたことに敬意を表します。お疲れさまでした。
 海外で仕事をし,帰ると休む間もなく国内の政治に取り組むなどとてもエネルギッシュに活躍されました。総理大臣とは大変な仕事であるといつも思いました。安倍首相と同じことをやれと言われてもとてもできるものではありません。
 重大な持病があることは知っていました。それ故安倍首相が休みも取らずに働く様子を見て心配していました。
 安倍一強の長期政権だと揶揄されましたが,長期政権だからこそ世界の信頼を勝ち得たのも事実でしょう。命を削って日本のために尽力されたことに感謝するとともに敬意を表します。
 ゆっくりと静養され健康を取り戻してほしいと思います。
2020年8月31日

No.74
安倍首相の後任について

 早いもので9月になりました。TVのニュースは安倍首相の後任が誰になるかで連日にぎわっています。二階氏が菅氏を支持したことで候補者は菅氏,石破氏,岸田氏の3人に絞られたようです。ところで二階氏が菅氏の支持を表明するや否や方位磁針の針が一斉に向きを変えるように支持の流れが菅氏に向かったことには驚きました。
 私自身は安倍首相の残りの任期一年を菅氏にお願いするのが良いと思っています。各候補者は菅氏を含め,一年後にまた競えばよいのだろうと思います。
 今年も来年も多難な年になるでしょう。誰が首相になってもがんばっていただきたいと思います。
2020年9月1日

No.75
レンタルサーバー変更した

 ホームページのレンタルサーバーをどこにするかは重要なことです。会社によって使いやすさが大きく異なるからです。
 このたび,ホームページのレンタルサーバーの会社を「XFREE」から「FC2」に変更しました。理由としてはFC2のほうがホームページ,アクセスカウンター,サイトマップ作製等のツールがそろっており,さらに暗号化通信にも対応しているからです。そして何よりもサーバーの動作が速いことです。FTPでファイルをアップするときにXFREEのサーバーは動作が遅く作業に時間がかかりました。いくら無料といってもこんなものをあてがわれたのではたまりません。これに対しFC2のサーバーは動作が速く,ストレスなく作業を進めることができます。これだけでも移行する価値はありました。
 一年間でヤフー,忍者ホームページ,XFREE,FC2と放浪の旅をしました。FC2はあまり名前が出てきませんが,使ってみると割と良いと思いました。FC2内で登録したものに限りますが独自ドメインも使えます。ちなみに今は独自ドメインは使っていません。独自ドメインであってもなくてもアクセス数には関係がないことが分かったからです。また,FC2はサイト内に利用者のコミュニティを持っています。これもFC2を選んだ理由の一つです。
 私にとってホームページの運営は生活の一部になっています。しばらくはFC2を使おうと思います。
2020年9月3日

No.76
早く歩けるようにリハビリに励む

 今日はリハビリの日でした。股関節の手術を受けてからおよそ一ヶ月になりました。
 どういうことをするのかというと,主に歩行の訓練です。うまく歩けるようになるために筋肉を鍛えたり足が動きやすいように動かしたりします。最後には自転車をこぐ運動をしたり電気をかけたりします。
 傷や痛みが治るのは自然の治癒力ですが,その途中でよい歩行ができるように修正や補強をしていきます。なのでリハビリは真剣にやらなければいけないと思います。
 少しずつ痛みがなくなり足の可動域が増えて動けるようになってきました。あと数か月は続けなければいけないと思いますが,しっかりやろうと思います。
2020年9月5日

No.77
小さな楽しみ

 購読している千葉日報に毎月「県民だより」がついてきます。季節ごとの行事や予定,出来事などが載っています。
 私はこの「県民だより」で楽しみにしているものがあります。それは最後のページの一番下の隅にあるクロスワードです。ヒントを見ながら解いているときは,次はどうかなとうきうきしています。最後にキーワードがそろって回答の言葉が完成した時にはとても満足します。
 誰でも同じように感じることだと思いますが,私の小さな楽しみです。
2020年9月6日

No.78
遠近両用ソフトコンタクト

 一月ほど前から遠近両用のソフトコンタクトレンズを使い始めました。実は,10年前に一度遠近両用ソフトレンズを試したことがありましたが,近くがあまりよく見えず気に入らなかったのでやめてしまいました。それでずっと遠近両用のハードレンズを使っていましたが,角膜にあたるようになり,だんだん目に合わなくなりました。そこで再度試しに遠近両用ソフトレンズを使ってみました。すると以前と違ってとても使い心地が良く感じました。角膜にもあたらないし,何よりも境目がないので裸眼のような自然な感じになりました。使っているのはアルコンのエアオプティクス2ウィークです。
 近視度数と加入度数を決めるために4種類購入して組み合わせを調べました。その結果,最良の近視度数と加入度数を見つけることができました。実は近視度数と加入度数の関係は理屈通りにはいきません。それで自分の納得できる組み合わせを探す必要があります。ソフトレンズは安いのでこれがしやすいのが利点です。
 ところで,遠近両用ソフトコンタクトの見え方には,ある程度の妥協が必要です。求めすぎないこと気にしすぎないことです。日常生活と車の運転に支障がなければ十分と思いメガネと併用して便利に生活しています。
 一つ注意しておきたいことがあります。遠近両用コンタクトレンズは,よく見えるようになるまでに慣れる期間が必要です。私の場合は近くが見えるようになるまでに一週間程度かかりました。あるハードレンズでは一月かかりました。遠近両用レンズとは厄介なものです。
2020年9月8日

No.79
たけゆらの里おおたきで昼ご飯

 所用で息子と大多喜町に出かけた折,道の駅「たけゆらの里おおたき」で昼食をとりました。ここは「たけのこカレー」「たけのこラーメン」「猪丼」といった当地の産物を使ったメニューがあります。大多喜町はタケノコの産地であり,またイノシシの捕獲が多いところです。
 さて,券売機のメニューを見ると以前の三分の一くらいに品数が減っていたではありませんか。ご飯ものがなくて麺類だけでした。コロナのせいでここも苦労しているのだと思いました。でも,ここの麺類は結構おいしいのです。
 私は「担々麺猪」にしました。スープには赤褐色のラー油が浮いていて辛そうでした。大丈夫かなと思いつつ麺を口に運びました。麺は細麺,スープには猪のミートボールが入っていました。それを突き崩してスープに混ぜました。のどにピリピリと刺激を感じましたがどんどんいけました。勝浦に行くと「勝浦担々麺」というのがありますが,それに近い味だと思いました。
 ピオーネというぶどう,イチジクジャム,枇杷サイダー,梨サイダーをお土産として買いました。
 久しぶりに道の駅を訪れ,気持ちよい時間を過ごしました。早く以前のような賑わいに戻ってほしいと思います。
2020年9月12日

No.80
朝顔の変異株「柳牡丹」


 江戸の昔から育てられているという朝顔の変異株を栽培しています。知り合いの大学の先生から種子をもらったのがきっかけです。
 一般の朝顔とは違う形の花が咲きます。6種類あるなかでお気に入りは「柳牡丹」という花びらが深く裂けた種類です。葉は柳のように細長い形をしています。
 今年は純白の柳牡丹が咲きました。この株からは長い間たくさんの柳牡丹が咲きました。めったに見られない花なので毎日眺めました。
 さて,この柳牡丹ですが種子ができません。この花を咲かせる遺伝子は他の種子の中にあり,メンデルの遺伝の法則に従って3:1の割合で発現するのです。したがって今年このグループの種子を採っておいて来年播きます。運が良ければ来年もまた変異株がでてきます。
 もう4年もこうやってアサガオの変異株を育てています。来年また会うのを楽しみにして種子を採ります。
2020年9月13日

No.81


茂原市の掩体壕と過ぎ去りし日

 新茂原方面を車で走っていると掩体壕を見かけることがあります。  掩体壕とは太平洋戦争中に戦闘機を敵の攻撃から守るために作られたコンクリート製の格納庫です。
 茂原にはかつて海軍航空隊の飛行場がありました。その時の戦争遺産です。いくつかある中で一番大きいという掩体壕を訪れてみました。
近くで見ると家一軒分くらいの大きさがあります。厚さが一メートル以上もある分厚いコンクリートの壁を持ち,戦闘機を正面から見たシルエットのような形の入り口があります。ここにゼロ戦などの戦闘機が入っていたのでしょう。そんな様子を想像しました。
看板には,茂原農業高校の生徒たちが建造に協力したと書かれていました。ところどころ表面のコンクリートがはがれて中の玉砂利がのぞいていました。これを作るためにたくさんの生徒たちが毎日働いたのでしょう。これを作った生徒たちは,すでに90歳以上になっているはずです。自分たちが作った掩体壕を今も眺めるとしたらどんな気持ちで眺めるのだろうかと考えてしましました。
私が大学生になったころは,まだ戦後25年でした。まだ25年しかたっていないのかと驚いたのを覚えています。その時にもこの掩体壕はありました。そして戦後75年の今もあります。もしかすると私が死んだのちもずっとこの掩体壕は生きていくのかもしれません。太平洋戦争を伝えるものとして私の人生よりも長く残ってほしいと思います。
2020年9月18日

No.82


ドングリを食べてみた

 ドングリといってもマテバシイという種類です。毎年,街路樹のマテバシイが実をたくさんつけます。実が歩道にたくさん落ちます。踏みつけられて砕けた実が白く点々としています。
 この実を食べてみようと思いました。もともとマテバシイの実はアク抜きをせずに食べられます。良さそうなのを枝から10個ほど採ってきました。  フライパンで炒るとかたい殻に焦げ目がついて縦に割れ目ができました。これで出来上がりです。
 かたい殻をむくのにてこずりますが,大きな実がでてきます。少し硬くてボソボソした食感です。わずかに甘く椎の実のような風味があります。あまり味がないといったほうが正しいかもしれません。粉にしてクッキーにすることもできるようです。  昔の人たちは大切な自然の恵みとして食べていたのかもしれません。秋の味覚の一つとして楽しむのもよいかと思います。
2020年9月23日

No.83


美味しい秋ミョウガ

 秋になってまたミョウガが収穫できました。去年植えたばかりのミョウガです。去年の収穫は一度きりだったので今年の二度の収穫はうれしいです。
 昔は味噌汁にしてよく食べていました。シャキシャキした食感とさわやかな香りがとても好きで,今でもみそ汁の具に使います。
 最近は細く刻んで梅酢につけます。1日たってミョウガが赤くなってきた頃が食べごろです。梅酢の酸っぱさと塩味とミョウガの香りがご飯やお酒のつまみによく合います。これを食べるとささやかに幸せを感じます。
 裏庭にジャガイモやミョウガなどを植えておくと,さして手入れもしないのに育ってくれます。余った里芋を植えたところ大きな葉が出ました。植物の生命力はすごいと思います。これからはもっと手入れをしてミニ菜園にしたいと思います。
2020年9月24日

No.84


ミョウガの梅酢漬け

 先日にとれたミョウガを梅酢漬けにしました。赤い梅酢に漬けたのでとミョウガが赤く染まりました。シャキシャキした食感とミョウガの香り,梅酢の風味が合わさって美味しくできました。
 梅酢漬けを考えたのは,梅干しを作るときにできる梅酢を活用したのがきっかけでした。いろいろな野菜を試してみましたが,大根やハヤトウリ,ショウガなどによく合います。もっといろいろな使い方を工夫したいと思います。
2020年9月26日

No.85
国勢調査ネットで申請しててみた

「ごめんください」との声とともに国勢調査の封筒がやってきました。中を開けてざっと目を通すと郵送でもネットでもよいがネット回答をお勧めしますとありました。  幸いネット環境は整っているしネット回答には慣れているのでネット回答を選びました。ログインすると16項目の質問に順に答えるようになっていました。調査方法としてはうまくできていてやりやすかったと思います。
 しかし迷った項目もありました。8番の「現在の場所に住んでいる期間」で「出張,出稼ぎなどのため3ヶ月以上にわたる不在期間がある場合は,その不在期間の後,現在の場所に戻ってきてからの期間について記入してください」という箇所でした。
 子が4年間大学に行っていたので,家に帰ってきてからの期間かと思いましたが,説明書の例を見るとそうではないことに気づきました。
 つまり現在まで住んでいる期間から4年間を引いた期間ということになります。この点,郵送カードでは例を示して分かりやすく説明されていました。
 今になって考えると郵送カードの説明が分かりやすくて間違いがないように思いました。とはいえ,無事に送信を終え提出を完了しました。めでたし。
2020年9月27日

No.86
ハムのおしゃべりは心の癒し

 秋になるとアマチュア無線の交信が盛んになります。いつでも受信できるように机の上に受信機を移しました。
 昼間は7メガヘルツで交信がよく聞こえます。夜になると7メガヘルツは聞こえなくなり,かわりに3.5メガヘルツの交信が聞こえるようになります。これは電離層の状態が変化するためです。
 中国・四国・関西・東北地方の局がよく入ります。たくさんの局との交信を目的にする人もいれば,のんびりとお話をする人もいます。人それぞれです。
 どちらにしろ,交信を聞いているとそれぞれの思いが伝わってきます。どんな人なのだろか,どういうところに住んでいるのだろうかと想像を巡らせます。そうやってハムのおしゃべりを聞いていると平和でのどかな気持ちになります。
 かつては私もアマチュア無線局を開いていましたが,今は聞くだけになっています。時々,またやってみたいと思いますが,機材をそろえるのにお金もかかるし,手続きも面倒です。聞いているだけでも結構楽しいのでよしとしています。
 ハムは,遠くに出かけずとも多くの人とコミュニケーションをとれます。特に定年退職後に家にいることが多くなった人には素晴らしいツールです。
2020年10月9日

No.87
あいちトリエンナーレとその問題点

 「表現の不自由」という国際芸術祭が愛知県で開かれました。この展示内容の一部に不適切なものがあるとの意見があり,名古屋市長らが中心になり愛知県知事に対するリコール運動にまで発展しています。
 何がいけないのかというと,ある作品の中に昭和天皇の写真をバーナーで燃やすシーンがあり,とても不快だということです。
 そこで詳しく知るためにネットで動画を見てみました。
 前半は9軍神のこと後半はインパールへ従軍看護婦として出征した19歳の女性が故郷の母への思いを綴ったものでした。自分は一層懸命に務めを果たし,やがて,靖国神社に行くから,そこで会いましょう,という内容でした。この物語の冒頭,中間,終わりの部分にバーナーによって昭和天皇の写真が燃やされる映像がありました。戦争の忌まわしい記憶を灰にしてしましたいという強い思いを表現したものと思います。昭和天皇によって昭和という時代が象徴されていると思いました。戦争に抗議する作品としてこの程度の表現はあるだろうと思える程度のものでした。
 しかし,昭和天皇の写真が燃やされることを非常に不快に思う人が大勢いるのも事実です。これは気持ちの問題であり,よいとか悪いとかいうものではないと思います。  爆弾を仕掛けるという脅しのメールがあったので安全のため催しは中止されました。主催者にとっては表現の自由が侵害された憤りはあるでしょう。
 この作品が反感をかったのは昭和天皇の写真を燃やすシーンです。写真が誰であれ個人を特定できる写真を燃やしたり辱めたりするのはよいことでしょうか。表現の自由は大切ですが,この点に配慮されるべき余地があったのではないかと思います。
 
2020年10月10日

No.88
チャチャの庭

 庭木を剪定している時や草取りをしている時にけたたましく吠える声がします。我が家の犬チャチャが全身で吠えているのです。そのうるさいこと。仕方がないので,言って頭をなでたりしてやりました。
 私は息子によく言いました。チャチャは「こっちに来てくれよ。一緒に遊んでくれよ。おいらは人間よりずっと早く死んでしまうのだからさ。」と言っていのだよと。  チャチャは母が息子のためにともらってきた犬です。息子が小学生の時は,よく二人で散歩に連れて行きました。チャチャは喜んで尻尾を揺らしながらぐいぐい綱を引いて進みました。
 また,私たち夫婦が仕事で日中家にいなかった期間は,一人(一匹)で留守番をしていてくれました。私が帰ってくると大喜びで散歩に出かけました。私にとっても心の休まるときでした。
 チャチャとの楽しい暮らしがずっと続いていましたが,チャチャが14歳になるあたりから体が弱くなり病気がちになりました。散歩に行っても以前のように元気ではなく足を引きずるようになりました。足の爪が道路をこする音が聞こえるようになりました。もうお別れが近いのを感じました。
 そして2年前の10月のこと,いつものように散歩に出かけてすぐにチャチャがヨダレを垂らしているのに気づきました。すぐに抱きかかえて家に戻りました。それを境に餌を食べなくなりました。下痢も始まりました。  一時容体がよくなったかに見えてもすぐに悪化しました。そんなことが4日間続きました。夜中に鳴き声がすると行って頭を撫でてやりました。そうすると安心したように眠るのでした。
 4日目の昼間はもう横たわったきりでした。それでも体から絞り出すように吠え続けていました。私にそばにいてくれと呼んでいるようでした。目は開いていましたが瞳孔が拡大して動かず見えていないようでした。スポイトで水を飲まそうとしましたが飲みませんでした。下はだらりと垂れ下がっていて動きませんでした。「よく長生きしてくれたな。ありがとう。」と言いながら頭を撫でました。それからしばらくして鳴き声が止まりました。
 庭の隅に深い穴を掘りました。底に白い砂を敷き詰めました。チャチャをコメ袋に入れて頭を何度も撫でてから穴に入れました。その上にまた白い砂を入れてから埋めました。  あれから2年が経ちました。朝,カーテンを開けると犬小屋だけがぽつんと見えます。それから周囲を見回してチャチャの姿を探します。もういないとわかっているのですが,それが一日の始まりになりました。チャチャのいた庭を「チャチャの庭」とよんでいます。
2020年10月22日

No.89
詐欺サイトで被害にあわないために

 足腰の負担を減らそうと手押し式の刈り払い機を買おうと思いました。ネットで検索すると値段が半額で希望通りのものが見つかりました。
 注文すると注文確認メールが届きました。銀行名,口座番号,口座名義人が記されていました。早速ネットバンクから振り込みをしました。
 振り込みを確認次第発送すると書かれていました。発送完了メールが届くのを心待ちにしました。ところが1週間たっても2週間たってもメールが来ないし商品も届きません。三度,問い合わせメールを出しましたが返事が来ません。電話をすると別の社名の会社が出ました。やられたと思いました。
 すぐに最寄りの消費者相談センターに相談すると銀行に連絡するようにと助言してくれました。銀行に電話すると詐欺相談センターが出て係の人が親切に対応してくれました。調べてくれた結果による当該口座は不正使用により凍結されているとのことでした。やはりネット詐欺だったのかと思いました。
 ちなみに不正利用が発覚するとすべての銀行で同名の名義人の口座が凍結されます。口座が凍結されるのは被害届が出された警察から銀行に指示があった場合です。
 口座にお金が残っていれば被害者で等分に分配されるとのことでした。しかし,10か月後のことです。
 初めての被害だったので落ち込みましたが,できるだけのことはしました。泣き寝入りにならなくてよかったと思います。
 冷静に考えると値段が半額ということも怪しいのです。他にもおかしな点がいくつかありました。もっと慎重に行動しなければいけないと反省しました。

 詐欺にあわないための注意点をまとめてみました。
 詐欺サイトサンプル
 https:www.csgd.shop/
※10月27日にこのサイトは表示されなくなりました。

[詐欺サイトの特徴]
1.異常に値段が安い
2.銀行振り込み前払いのみ
3.口座名義人が外国人
 例 チヤン ヴアン ミン
4.でたらめな住所
5.メールはフリーメール
6.登録されていない電話番号

 電話して会社が実在するか確認すると確実です。
 住所をグーグルストリートビューで確認するとよいです。
 実例 〒560-0085 大阪府豊中市上新田8-22-2 空き地でした。

 サイト名を保存するとY!とか楽天,その他何かしらサイトのアイコンが題の前につくのですが,このサイトにはアイコンがありませんでした。いったん保存してアイコンのあるなしを見るのも詐欺サイトを見分けるのに有効かと思います。
2020年10月22日

No.90
オンライン授業の長所短所

 新型コロナの感染の防止のために多くの大学でオンライン授業が行われています。
 入学してから一度も大学に登校したことがない学生も多いようです。学生からは登校できないことへの不満の声が聞かれます。
 これに対して自宅で質の高い授業を受けられるのだから対面授業にこだわらなくてもよいのではないかという意見もあります。
 しかし,オンライン授業だけでは大学教育は成立しないと考えます。
 キャンパスで過ごす日々にはたくさんの出会いがあり人間としての成長の機会があります。人と人との触れ合いによって人は成長します。これはとても大事なことだと思います。
 私は放送大学でオンライン授業を経験しました。昔はテキストを読みラジオ放送を聞くだけだったのですが大変便利になりました。授業を繰り返し見ることも可能です。しかし,画面に向かって一人で学習するのはさみしいものでした。
 そのせいか放送大学では対面授業にとても人気があります。希望者が多いので受講はくじ引きです。対面授業には学生同士,学生と教師とのコミュニケーションや一体感があります。それで対面授業を希望する学生が多いのだと思います。
 とはいってもオンライン授業により遠隔地でも授業を受けられるのは素晴らしいことです。特に通信教育で学ぶ人たちにはとてもよいでしょう。例えば,地方から東京の大学のスクーリングに出席するには2週間ほど東京に滞在しなくてはなりませんが,オンライン授業でスクーリングを選択できればこの負担がなくなります。オンライン授業の恩恵を受ける人たちはたくさんいるはずです。
 実験や実技などオンラインではできないものもありますが,ITが進歩した現在,オンライン授業を取り入れた多様な授業形態を有する大学や社会が望まれていると思います。
2020年10月26日

No.91
ノストラダムスの大予言Z

 ノストラダムスの大予言の中でシーレン(chyren)という名前のようなものが出てきますが,この解釈には著者である五島勉氏も困っていました。こんな奇妙な名前はないというのです。そこでヘンリーC,新EUではないかといろいろ想像しておられました。50年前にはまだ表れていなかったシーレンとは何だろうと不思議に思っていました。
 先日,ある番組でシーレーン(Sea line)について解説していました。シーレーンと聞いてはっとしました。
 シーレーンとは中国周辺の海域に定められた日本とアメリカにとって重要な防衛線である第一列島線を指します。中国がこの第一列島線を支配下におくと空母や原潜など海軍を太平洋に自由に展開できるようになります。中国にとって太平洋への玄関口であり喉から手が出るほど欲しいものです。
 以下は五島勉氏の本からの抜粋です。
 「巨大なシーラン(シーレン)が世界の指導者になるだろう/とても愛された後,それ以上に恐れられ警戒される。/彼の声と讃辞は多くの空を超えて伝わる/大きな勝利者のタイトルによってしか,彼はけして満足しない」
 「アンリ二世への手紙の中にある。週末の直前に,巨大な人口を持った大きな東洋人が,その周辺全部を従える。中東・ヨーロッパに進攻する。ヘルメスの国もその影響を免れない。―――これが中国を指していることは,ほとんど確実といっていいだろう」「日の国はメルキュールによってエクリプス(欠乏,失墜,日食)をかくす/第二の空にしか置かれない」
 今回はシーレーン(第一列島線)をヒントにして,シーレンとは中国又はその指導者のことを指しているのではないかと思いました。
 尖閣諸島付近の日本の領海に中国船が頻繁に侵入し,尖閣諸島は中国の領土であると主張して軍事的に不穏な動きを見せているのは事実です。
 新型コロナウィルスによる世界の変化や大きな戦争の勃発などの恐ろしい未来をノストラダムスは予言しているようです。世界情勢がそういう方向に向かっているように見えて不安を感じます。
2020年11月1日

No.92


アメリカ大統領にバイデン氏

 アメリカの大統領選挙ではバイデン氏が選挙人の過半数である270人以上を獲得して選挙に勝利したことが確実となりました。私はこれでよかったとホッとしました。
 トランプ氏が大統領であった過去4年間は,人種差別の広がりや国民の分断,経済格差の拡大等のアメリカ国内の問題だけでなく,他の国々との関係でも波風を立てて不安定な状況でした。何か不安で落ち着きませんでした。
 アメリカ中が注目する選挙の公開討論会ではトランプ氏の言動はルールを無視したひどいものでした。また,投票が始まると,郵便投票の不正を訴えて正当な理由のない訴訟を起こすなどの混乱を起こしました。
 これらのことがトランプ氏の政治を物語っているように思えました。
 過去4年間を反省し,アメリカ国民はバイデン氏を選びました。77歳の高齢の大統領です。しかし,思慮分別のある人が選ばれたのだと思います。これからは国民が手を取り合って一つになって進んでほしいと思います。
2020年11月8日

No.93


父母の墓参りに菊を持って

 庭に菊がこぼれるようにたくさん咲きました。それで菊を持って父母の墓参りに行くことにしました。
 これまで自分から墓参りをしようと思ったことはありませんでしたが,庭の花を持ってお墓参りをしたら父母が喜ぶだろうと思いました。その思いがずっと頭から離れませんでした。
 菊をたくさん摘んでバケツに入れました。車の中が菊の香りで満たされました。お墓までは車で30分ほどです。
 お墓は冷たい秋の空気の中に静まり返っていました。周囲には欅の茶色い枯れ葉が積もっていました。
 まずお墓の周りを掃除しました。それから菊を供えました。白,黄色,紫を取り混ぜました。寒々としていたお墓が明るく暖かくなりました。
 菊をたくさん持ってきたので余りました。どうしようかとあたりを見回すと隣近所のお墓に花がないのに気づきました。それで菊を分けてあげました。きっと喜んでくれるだろうと思いました。
 お墓の前で父母に語りかけました。
「家に咲いた花を持ってきたよ」「股関節の手術をしたよ。歩けるようになったよ」と。
 父母の姿が懐かしく思い出され,その場を離れがたい気持ちになりましたが,また来ることを告げて帰りました。
 結婚し,家庭を持ち,晩年を迎えた今,ようやく父母の気持ちが分かるようになりました。
 庭の花を持ってお墓参りをして父母を喜ばせようなんて私も年だなと思いました。この頃は昔のことをよく思い出します。
2020年11月12日

No.94


リハビリ日記

 股関節を人工股関節に入れ替える手術をしてから4か月経ちました。2週間ぶりにリハビリに行ってきました。歩き方がとてもよくなったと褒められました。
 まだ股関節付近の筋肉が角度によっては痛いのですが,まだ4か月なので仕方がないことであり,日がたてばよくなるとのことでした。
 以前より痛みが軽くなっているし,ズボンをはくときに足が上がるようになりました。こんな何でもないことがとても新鮮です。
 そういえば以前はうまく靴を履けず,靴ベラ代わりにセンスを持って歩いていました。今は身をかがめてなんの苦も無く履くことができるようになりました。
 リハビリを12月で終わりにすると言われました。やっとここまで来たかという思いです。歩けるようになりたい一心でリハビリに励んだ日々でした。
 ところで天気が良く暖かいので4か月ぶりにオートバイに乗ってみることにしました。手術前はキックペダルに足が上がらず手で持ち上げました。走行中も足が痛み,これはもうだめだと暗澹たる気持ちになりました。
 ところが今回はキックペダルに足が上がりました。そして何の痛みもなくキックできました。走行中も全く普通で快適でした。
 手術でとても痛く苦しい思いをしたが,今は普通に動けるようになったというだけで感動しています。
2020年11月19日

No.95
カーナビは運転のお供

 私は9千円のカーナビを使っています。パナソニックのゴリラが壊れたので購入しました。
 カーナビを使う機会は1年に一度あるか無いかです。そのうえ古くなれば何万もかけて地図を更新をしなくてなりません。
 日本のメーカーが企画して中国で作ったものです。ナビとしての一通りの機能がそろっていて使いやすいです。「2時間たったので休憩してください」などと話しかけてくれるのも愛嬌があります。
 ところで1万円前後のナビはたくさんあります。今のナビを選んだ第一の理由はゼンリン地図が採用されていることです。信頼できる地図を使っていることはナビを選ぶ上で大切です。第二に自分が必要とする機能があることです。それを知るために各機種のコメントをたくさん読みました。第三に値段以上の機能は諦めることです。例えばこの価格帯のものは漢字変換ができません。
 カーナビは私にとって運転を楽しくしてくれる道具であり相棒です。
 最近,人生のナビがあるといいなとふと思いました。この先で詐欺にあうから気をつけろとか,どっちに進めとか,目標に向かってナビしてくれるのです。
 AIが進歩して人生ナビも可能になるかもしれません。
2020年11月21日

No.96


リハビリが終了して希望

 8月上旬に行った股関節手術から順調に回復してリハビリが終了しました。 写真はその傷跡で長さ15センチくらいあります。
 はじめは足を動かすことすらままならなかったのに今はほぼ気にすることなく動かせるようになりました。
 手術を執刀した医師,看護士,介護士,理学療法士その他の病院スタッフの皆さんに感謝しています。
 先日オートバイに乗りましたが,足を上げてまたぐことができた,キックペダルまで足が上がった,キックをしても痛くなかった,普通に操縦できたなど今までできなかったことができるようになりました。そのほか靴下をはいたりパンツをはいたりが楽になった,正座できるようになった,あぐらをかけるようになった,歩いても痛くなくなった,びっこを引かなくなったなど数えたらきりがありません。
 今後は自分でリハビリ運動を続けます。これから新しい世界に向かって歩くぞと清々しい気持ちです。よい正月を迎えられるよう頑張ります。
2020年12月16日

No.97
エッセイか随筆かで悩む

 ホームページにエッセイのページを作りました。しかし,それをエッセイと言ってよいのか随筆とすべきなのかで迷いました。
 調べてみると,エッセイの日本語訳が随筆であるとの意見がありました。それなら話は簡単です。しかし,エッセイと随筆は起源からして違うので別のものだという意見もありました。
 エッセイと随筆の違いはというと,エッセイは書き手の心の様子を告白的に描いたものであり,随筆は出来事(事実)に対する感想,思索,思想を自由に書いたものだというのです。また,折々に思ったことを書く随想というものまでありました。
 さらに,ヨーロッパにはエッセイという文学ジャンルはないとかアメリカではエッセイは小論文的なものであるとか人によっていろいろでした。こうなると手に負えません。
 ところで,自分が書いているものがエッセイか随筆か随想かと考えながら書いているかというとそうではありません。はっきり言えばどうでも構わないと思っています。それぞれのジャンルの境界線は明確ではなくスペクトラムであり,一つの文章中に3つの要素がすべて入っています。なので,あえて区別しなくてよいと思うに至りました。そこで自分の書くものはエッセイと呼ぶことにしました。
2020年12月22日

No.98


木星と土星が大接近

 約400年ぶりの珍しい現象だそうです。このニュースを見て,散歩中に空を見ました。
 すると南西の空低く,山の少し上あたりに輝く星がありました。そしてその右わきにポツンと小さな星がありました。
 それぞれの星の距離が近いので一つに見えることもあるそうですが,明るさに違いがあるもののはっきりと離れて見えました。
 大変珍しいものを見てうれしくなりました。見える限り見ようと思います。
 次の大接近は約60年後であり130歳になっています。その時は別の世界から見ることになります。その日も今日のような夕焼けだったらいいなと思いました。
2020年12月23日

No.99
お家時間の過ごし方とエッセイ

 新型コロナウィルス感染防止対策による外出自粛に限らず,定年退職やその他の理由で家にいる方は多いのではないでしょうか。そこで時間がたくさんある日々の過ごし方を少し工夫することが大切になると思います。
 例えばボランティア活動に参加したり習い事をしたり趣味に使ったりといろいろあると思います。私の場合はエッセイを書くことにしています。エッセイは大切な趣味の一つです。

 かつて教職を定年退職した年に初任の先生の指導を担当しましたが,大変やりがいがありました。このことを千葉日報の読者欄に投稿すると「若い先生に一つの花を」という題で掲載されました。何人もの知人が見たよと知らせてくれました。これがきっかけでエッセイを書くようになりました。ちなみに題は千葉日報の担当者がつけてくれたものです。

 ところで今はエッセイと呼んでいますが,はじめは自分の書く文章がエッセイと呼べるのかどうか不安でした。
 ネットで調べてみるとエッセイ,随筆,随想などがありました。しかし,解説は人によってまちまちでした。それで少々ためらいもありましたがエッセイと呼ぶことにしました。エッセイという響きが気に入ったからです。

 エッセイを書くときは「はじめ」「なか」「終わり」の順に書き進めながら推敲を重ねます。時には何日もかかることもありますが,この充実感によって日々の生活に張り合いが生まれました。これが一番の成果であると思います。

 エッセイの題材は身の回りにいくらでもあって尽きることがありません。また,歳を重ねるにつれて物の見方が変わり書く内容も変わることでしょう。そう思っているのでエッセイとの付き合いは長くなりそうです。
2020年12月29日

No.100
元日のお雑煮に感慨

 かつて小学生に「我が家のお雑煮」という宿題を出したことがあります。
 すると家庭によっていろいろなお雑煮があることが分かりました。大根,ニンジン,ゴボウ,菜,里芋など何種類もの野菜が使われていました。野菜の組み合わせは家庭によってまちまちでしたが,大根,ニンジン,里芋の組み合わせが多かったように思います。丸餅と切り餅の違いもありました。これには驚きました。同時にとても興味を惹かれました。
 そこで大根,ニンジン里芋を入れてお雑煮を作ってみました。すると野菜のうまみが加わってとてもおいしいお雑煮になりました。
 今年もお雑煮を作りました。具は大根,ニンジン,里芋です。食べる直前に三つ葉を添えます。餅は自家製の切り餅です。
 さあ食べるぞとお餅を箸でつまんだ瞬間,不思議な思いにかられました。
 「今日(元日),このお雑煮を食べられるのはこれまでの努力の賜物だ」という思いでした。
 昨年は人工股関節を入れる手術をしました。退院後も4か月に及ぶ療養とリハビリでした。さらに新型コロナの感染拡大による生活の変化など,不安と心配で心がいっぱいでした。
 今年もお雑煮はおいしくできました。ゆっくりと味わいながらいただきました。
2021年1月3日

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”千葉日報ひろば” ショート・エッセイ
since 2012

 ここからは千葉日報の「ひろば」に投稿したものです。
 「若い先生に一つの花を」は初めて投稿したもので、小学校で初任の先生を指導した経験です。
 「一つの花」は小学校4年生の国語教材です。父親は幼いゆみこを残して出征しました。
 各作品の題名は千葉日報の担当者がつけてくれたものです。

― 目  次 ―
No.1 若い先生に一つの花を
No.2 定年退職を機に大学聴講生に
No.3 にぎやかな「ハム」の世界
No.4 ホームページは素敵な魔法の家
No.5 スズメバチの巣除去に大奮闘
No.6 年末のハレルヤ合唱成功し喜び
No.7 留学生からの素敵な贈り物
No.8 息子が留学に不思議な思い
No.9 地域の合唱祭参加 年配男性から熱意
No.10 オンライン授業再認識
No.11 パラ選手に可能性と勇気
No.12 ナナフシの再訪 うれしい気分に
No.13 桑の実で自然の恵みを楽しむ
No.14 地域の猫との会話を楽しむ
No.1

若い先生に一つの花を

 今年、学校を定年退職し、初任の先生の指導をしている。
 小学校4年の国語教材に「一つの花」がある。戦争末期、食べ物のない時代だった。出征するする父を母と駅で見送る幼いゆみこは、「一つだけちょうだいおじぎり(おにぎり)と駄々をこね泣き出してしまった。困った父親は、何かないかと、あちこち探し回り、コスモスの花を見つけた。それを一輪手折り、「一つだけあげよう、一つだけのお花、大事にするんだよう」とゆみ子に手渡した。
 父親は帰ってこなかった。10年後、家はコスモスでいっぱいに包まれていた。
 担任のA先生は、一生懸命に授業に取り組んだ。私も初任の時に扱った作品だった。
 私は、時代的背景、一輪のコスモスの花に込められた父親の気持ち、平和への願いなどについて話した。A先生は、うなづきながらメモをとっていた。
 いつしか、駅の父親の姿が自分に重なった。未来を継ぐ若者に、一つの花を手渡しているような気持ちになった。
 終戦から67年経った。教え子たちは大人になり、平和な日本で活躍している。教え子を戦場に送らなかったことを幸せに思う。
2012年8月掲載

No.2


定年退職を機に大学聴講生に

 定年退職を機に大学の聴講生になった。これまでを振り返り、いろいろとゆっくりと考えてみたかった。
 渋谷駅から駒場東京大学まで歩くことおよそ20分。門を通ると右手に駒場池(本郷の三四郎池に対して一二郎池と呼ばれている)がある。この池は、湧水によって満たされている。鴨が5〜6羽泳ぐのが見られる。周辺には樹木がたくさんあり、四季ごとに表情を変る。大きなイイギリは秋になると黄葉と房になった赤い実がきれいだった。
 ハルニレの茂る通路を抜けると広場、図書館、学生食堂があり、さらに銀杏並木を少し歩くと目指す教室がある。一番前に座りノートと万年筆をとりだす。ありふれたことだがうれしかった。教室は学生でいっぱいになった。
 授業が始まると一斉にカツカツとノートをとる音響いた。他には先生の声しか聞こえない。ときどき、うとうとしてしまうことがあった。はっとして目をあける。いちばん前なのでよく見える。見られたら恥ずかしい。そっと隣の学生をのぞいてみると、その学生も目を閉じていた。すこしホッとした。
 授業が終わって帰ることにはもう薄暗い。あちこちの校舎に明かりがともり、授業を受ける学生たちの姿や先生の姿が窓越しに見える。それは幻想的に美しかった。私は、その光景を見ながら帰るのが好きだった。
 親子ほど歳の離れた学生たちと一緒に勉強していると少し恥ずかしかったが、今までなかった新鮮な気持ちになれたし、考え方も変わってきた。
 このような機会を得られたことに感謝している。今後の教育活動の糧としたい。
2013年1月掲載

No.3


にぎやかな「ハム」の世界

 アマチュア無線やそれを趣味にする人のことをハムと言います。50年ほど前の真空管式受信機をネットで見つけ、懐かしくて購入しました。測定器を自分で作り、何度も調整を繰り返すとやっとよく聞こえるようになりました。日本中のアマチュア無線局の交信が受信機から朝から晩までにぎやかに聞こえてきます。
 毎日聞くうちに、あることに気づきました。それは高齢の方が多いことです。ずっとハムを続けてきた人たちや定年退職後に始めた人たちであることが交信の内容からわかりました。
   子どもの頃、ハムは趣味の王様と言われていました。私も夢中になりましたが、やがてコンピューターの時代になりコンピュータに興味が移るといつしか遠ざかってしまいました。
 高齢になると外出する機会が減り、人と話すことが少なくなりがちです。しかし、スピーカーからは毎日楽しそうなハムたちの会話が聞こえてきます。
 ハムは毎日たくさんの人たちと話をすることができるし、いつまでも続けられる素晴らしい趣味だと思いました。
2015年11月掲載

No.4
ホームページは素敵な魔法の家

 私は15年前にホームページ(以下HP)を開設しました。インターネットで自分のことを発信できたら素敵だと思ったからです。
 初めはお祭りや草花の写真を紹介した小さなものでした。今では地域の紹介、オートバイのこと、趣味の研究・工作、自己紹介、掲示板と内容がふえてにぎやかになりました。 
 特にオートバイと趣味の工作・研究のページには毎日訪問者が来てくれます。ときどき掲示板に質問や感想を残してくれるので、それを読んだり回答したりするのも楽しみの一つです。
 訪問者数は毎日カウンターで確認し、記事を更新したり、より見やすいデザインにしたりするための参考にしています。一生懸命に作ったページに大勢の人が訪問してくれた時は思わずにっこりしてしまいます。訪問者は今年になって3万人を超えました。
 HPは私と世界を結ぶ魔法の家です。訪問してくれた人も私も一緒に充実した時を過ごせるHPにしたいと思っています。
2017年5月掲載

No.5


スズメバチの巣除去に大奮闘

 8月のこと、知人からスズメバチの巣を除去してほしいと頼まれました。巣は道路に面した生垣の下にあり茶色でバスケットボールくらいの大きさでした。10円玉くらいの穴からは大きな蜂が顔を出してこちらをにらんで警戒していました。
 私はバイクのフルフェースヘルメットをかぶり首にはタオルを巻き長袖長ズボンにゴム長、皮手袋という装備です。
 恐る恐る巣に近づいて殺虫剤を噴射すると蜂がブンブンと音を立て次から次へと飛び出して来て巣の周りをぐるぐる飛びまわりました。大きな蜂がこんなにたくさん飛びまわるのを見たことがありません。思わず後ずさりしたとき、一匹の蜂が私めがけて飛んで来るのが見えました。ひやりとしてしゃがみ込みました。
 殺虫剤を噴射しては逃げるのを繰り返すこと20分、ようやく蜂の抵抗がなくなったところで枝についた巣をとることができました。
 丸い巣の内側には傘のような形の巣が3段になってついていて一つ一つに大きな幼虫や蛹(サナギ)がびっしりと入っていました。
 知人に巣が取れたことを知らせると大変喜んでくれました。道路のそばなので心配していたのだそうです。近所の人たちや登下校の子どもたちが安全に通行できるようになってよかったなと思いました。
2017年10月掲載

No.6


年末のハレルヤ合唱成功し喜び

 昨年12月23日のこと、いすみ市で開かれた「第13回クリスマス・チャリティーコンサート」に私は混成合唱団の一員として参加しました。 コーラス・グループの歌、ハモニカ演奏、オカリナ演奏、子どもたちの歌とダンス、中学校吹奏楽部の演奏、合同合唱などが披露されました。 合同合唱の曲目は「大地讃頌」、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」、「ハレルヤ」でした。中でも「ハレルヤ」は難しくて苦労する曲です。
 さて、いよいよ「ハレルヤ」の番となり、みな緊張して指揮者を見つめました。指揮棒が勢いよく振りおろされると“ハレルヤ”と高らかに合唱は始まり、歌の流れは急流のようにどんどん進みました。
 私は、時々楽譜に目をやりながら、ありったけの声を出して歌いました。耳元では「頑張れ」と叫ぶように弾けるティンパニ、大合唱のうねりに自分が溶け込んでいくようでした。
 最後に、ひときわ大きい“ハレルヤ”の荘厳な響きの中で指揮棒が止まると、一瞬の静寂。ホッとしました。そして、今年も「ハレルヤ」を歌えたな、チャリティーに参加できてよかったなという想いがこみ上げてきました。
2018年1月掲載

No.7
留学生からの素敵な贈り物

 3月に桜が満開を迎えたころ我が家はアメリカからのお客様を迎えました。息子の大学留学生だった娘さんが旅の途中で立ち寄ることになったのです。妻と私は諸準備をすませドキドキして来訪を待ちました。 彼女は夕方に到着しました。玄関のドアが開き、目の前に現れたのは想像していたよりも小柄な娘さんでした。彼女は笑顔で「ナイス・トゥ・ミートゥ・ユー」と手を差し出しました。私も「ナイス・トゥ・ミートゥ・ユー・トゥ」と答えて握手しました。互いに緊張がほぐれてホッとした瞬間でした。 夕食は焼き肉です。みんなでジュウジュウ焼きながら色々な話をしました。幸い彼女は日本語が上手でした。アメリカは多文化国家なので独自の文化を持つ日本に心を引かれたと英語を交えて話してくれました。 さて、何でも食べた彼女ですが、アジの丸干を出された時には「食べ方が分からない」と困っていました。そこで「彼(息子)の食べ方を見て食べなさい」と教えると、驚いたことに箸で上手に食べました。にぎやかな夕食はいつまでも続きました。 彼女は息子の案内であちこち見物し、3日間滞在して次の旅へ向かいました。彼女を送り出すと家の中はしいんとなりました。にぎやかな食事や楽しい語らいは彼女から私たちへの素敵な贈り物でした。
2018年7月掲載

No.8


息子が留学に不思議な思い

 厳しい暑さが続きクマゼミがシャンシャンとにぎやかな8月の初めでした。息子がアメリカのネブラスカ州立大学に留学のために出発しました。羽田行きのバス停まで夫婦で見送りました。 1年前には留学できるかどうかもわかりませんでした。そんな息子に私は言いました。「留学しろともするなとも言わない。留学できるかどうかは自分の頑張り次第、努力次第だ。留学の条件がすべて整って、これで大丈夫だと思ったら言いなさい」と。 それから息子はバイトで資金を貯め、成績を上げ、奨学金を申請し、留学の申請をして審査を受けました。 そして去年の暮れに息子から連絡がありました。「お父さん、交換留学生になることができた。授業料は奨学金で免除になったよ」と受話器から弾んだ声が聞こえてきました。私も妻もほっとしました。  バスに乗った息子を見送りながら、1年後にはどんな姿になって戻ってくるのだろうかと期待と不安、そして寂しさともつかない不思議な気持ちを味わいました。
2018年9月掲載

No.9
地域の合唱祭参加 年配男性から熱意


 昨年12月23日にいすみ市でチャリティーコンサートが開かれました。年に一度、音楽家になるこの日を私は楽しみにしていました。
 プログラムには合同合唱隊とハレルヤ合唱隊の合唱があります。これは地域の合唱団が合同で歌うものですが、一般の人も参加することができるので、これに参加する人も多いのです。
 この日も毎年参加している高齢の男性Aさんの姿がありました。しかし、どこか体を悪くしたのでしょうか、楽譜を片手に杖をついて足元を確かめながらゆっくりと歩いて来ました。合唱の段に上がるときには、階段に杖をあて、ゆっくりと足を上げました。黒い靴が小さくふるえていました。私は上から手を差し出して体を支えました。「ありがとう」と目を細めるAさんから歌いたいという熱い思いが伝わってきました。
 さて、ハレルヤの合唱が終わり、観客と一緒に「きよしこの夜」を歌ってコンサートは幕を閉じました。
 私はAさんと一緒にゆっくり歩きながら階段やドアの開閉に手をかしました。「もうここで結構ですよ。ありがとう。」とニコニコしているAさんに「来年も来てくださいよ。」と挨拶をして別れました。
 後片づけを済ませ、来年もAさんが私たちと歌えるようにと祈りながら帰路につきました。
 雨上がりの街には灯りがともり、遠い西の空はかすかに赤く染まっていました。
2019年2月掲載

No.10
オンライン授業再認識

 新型コロナの感染の防止のために多くの大学でオンライン授業が行われています。
 学生からは登校できないことへの不満の声が聞かれます。これに対してオンライン授業があれば対面授業はいらないとの意見もあります。
 私は放送大学でオンライン授業を経験しましが大変便利でした。しかし,画面に向かって一人で学習するのはさみしいものでした。そのせいか対面授業にとても人気があります。対面授業には学生同士,学生と教師とのコミュニケーションや一体感があります。
 とはいってもオンライン授業により遠隔地でも授業を受けられるのは素晴らしいことです。通信教育等,オンライン授業の恩恵を受ける人は多いのではないでしょうか。
 新型コロナ対策としてオンライン授業の有効性が認識されました。学習形態や働き方が多様になり選択肢が広がるのは好ましいことであると思います。
2020年12月11日掲載

No.11
パラ選手に可能性と勇気

 パラリンピックが始まると毎日色々な競技を観戦しました。中でも、車椅子ラグビーが印象に残りました。素早い動きで車椅子同士が勢いよくぶつかり合って、何度もひっくり返りましたが、選手は自分で起き上がってプレーを続けていました。私の想像を超えた激しい競技でした。
日本チームの白熱した試合に、頑張れ負けるなと夢中で応援しました。
 どの競技を見ても、ハンディーを乗り越えて力いっぱいプレーする選手たちの姿がありました。それは、「誰にも大きな可能性と素敵な未来があるよ」というメッセージのようにも思えました。
 困難に負けない勇気の大切さを教えてくれたパラリンピック、見ることができて本当によかったと思います。
2021年9月24日掲載

No.12
ナナフシの再訪 うれしい気分に

 お盆の頃、網戸に細長い虫が止まっていました。ナナフシです。毎としこの頃にやってきて網戸やガラス戸にじっと止まっています。どうやら庭のトネリコからやってくるようです。
 ナナフシが薄茶色の細い足をまっすぐに伸ばした様子は、細く削った割りばしのようです。
 どうやって網戸に来るのだろうと不思議に思っていましたが、小さな羽でパタパタ飛んでくることが分かりました。
 ナナフシを見かけた日はうれしい気分になります。来年も会えることを願って、また来いよと声をかけます。
 庭は最も身近な自然です。ナナフシがずっと住めるようにしたいと思います。
2022年11月25日掲載

No.13
桑の実で自然の恵みを楽しむ

 いつも妻と散歩をする道の川沿いに桑の木があります。黒く熟れて食べごろになった実をたくさん摘んできました。
 3時間ほど塩水につけてから軽く水洗いして食べてみると桑の実の甘みと香りが口の中で広がりました。残りの実はジャムにしました。ブルーベリージャムにそっくりな赤紫色のきれいなジャムになりました。
 桑の実にはアントシアニンやカリウムなどが豊富だそうです。翌日はいつもよりも体が軽いように感じました。桑の実のおかげかなと思いました。
 家の周辺には桑の木がたくさん自生しています。実を食べた小鳥たちのフンに含まれて運ばれた種子からできた小鳥の果樹園です。こうして小鳥の果樹園があちこちにできて小鳥たちの食べ物が豊富になるのでしょう。小鳥の果樹園のおかげで私たちも自然の恵みを味わい楽しむことができました。
2023年7月28日掲載

No.14
地域の猫との会話を楽しむ

 路地を歩いていると生け垣の根元に茶色いかたまりが見えた。近づくとニャーといって走り寄ってきた。チャトラの猫さんだ。耳に切り欠きがある地域猫だ。人懐こく足元にすり寄ってくる。頭や背中をなでるとゴロゴロ喉を鳴らした。
 この猫さんを何日か見かけなかった。それで「お前生きていたのか、元気そうでよかったな。お前も歳をとったな。おいらも歳をとったよ。あちこち悪くて三度も入院したよ。」などと話しかけながらゴツゴツする背中をなでた。猫さんはニャーと返事をした。
 高齢になると人との会話が少なくなる。家族以外の誰とも話をしない日もある。なので路傍の猫さんとの会話はよいことだと思う。この猫さんのいる道を選んで散歩する日が多くなった。
2026年2月13日掲載

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